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小林秀雄とオリンピック

練達した「手仕事」をする大政治家はもはや現れない。政治は能率的な技術であり、政治家は社会生活を調整する技術家であればよい。政治家ではなく、われわれが、精神の刻印を打った現実の形をが創り出す「文化」を体現しよう、まさに「手仕事」をするのだと小林秀雄は考えた。

そして『私の人生観』では、唐突に1948(昭和23)年の英国・ロンドンオリンピック大会に話題が移る。第二次世界大戦により1940年、1944年とオリンピック大会が中止となり、イギリスでも戦争による疲弊や食糧不足などの混乱があったものの、59カ国、4,104人の選手・チームが参加したという。小林秀雄は、その記録映画を観たのだ。

カメラを意識して愛嬌笑いをしている女流選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者のような顔に変わります。どの選手の顔も行動を起すや、一種異様な美しい表情を現す。(中略)この映画の初めに、私達は戦う、併し征服はしない、という文句が出てきたが、その真意を理解したのは選手達だけでしょう。選手は、自分の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そして遂に征服する、自己を。かような事を選手に教えたものは言葉ではない。およそ組織化を許されぬ砲丸をなげるという手仕事である、芸であります。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p173

引用のために、前後を断ち切り、中略もするから、陸上競技の砲丸投げ種目についての話になっているというわけではない。

「小林秀雄全作品」において、オリンピックに触れた作品が、この『私の人生観』のほかに二つある。一つが1940(昭和15)年に発表された『オリムピア』(第13集)、もう一つが1964(昭和39)発表の『オリンピックのテレビ』(第25集)である。

これについて、ノンフィクション作家の沢木耕太郎が「虚空への投擲 小林秀雄」(『作家との遭遇 全作家論』)という批評において、小林秀雄は「オリンピックのテレビ」における80メートルハードルのほかは、砲丸投げ、槍投げ、円盤投げとすべて投擲とうてき種目について書いているのはなぜなのだろうかと問うている。それについては本書を読んでもらうことにして、ここでは触れない。

『オリムピア』は、1936(昭和11)年に開かれたドイツのベルリンオリンピック大会についての記録映画で、註釈によれば1940(昭和15)年に日本でも公開されたという。それを観たうえでの随筆が小林秀雄の『オリムピア』である。冒頭で「非常に気持ちがよかった」と明るく感想を述べてから、映画では複数の競技を紹介していたにも関わらず、小林秀雄はいきなり砲丸投げの選手について話を始める。

砲丸投げの選手が、左手を挙げ、右手に握ったつめたい黒い鉄のたまを、しきりに首根っこに擦りつけている。鉄の丸を枕に寝附ねつこうとする人間が、鉄の丸ではどうにも具合が悪く、全精神を傾けて、枕の位置を修整している、鉄の丸の硬い冷い表面と、首の筋肉の柔らかい暖い肌とが、ぴったりと合って、不安定な頭が、一瞬の安定を得た時を狙って、彼はぐっすり眠るであろう、いや、咄嗟とっさにこの選手は丸を投げねばならぬ。どちらでもよい、かく彼は苦しい状態からいまに解放されるのだ。解放される一瞬を狙ってもがいている。

『オリムピア』「小林秀雄全作品」第13集p97

これは、いったい何だろうか?

(つづく)

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