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細かな描写をすれば芸術的というわけではない

美は人を沈黙させる。その言うに言われぬ感動を、どのようにして言葉にするか。その感動を言葉にせずにはいられない激情に身を委ねたのが、詩人ではなかったか。そして、文学もそうあるべきではないか。言葉にしようと試みる文学ではなく、おのずから言葉になる文学へ。そう小林秀雄は考えた。

近代の音楽や絵や詩の形式は、目まぐるしい程の変化を重ねてきた。(中略)これに比べると、小説という形式はバルザック以来ほとんど動かない様に見える。(中略)小説では、常識的知覚が社会的推移に追従するのが手一杯で、visionの創造まではとても手が廻らぬ。それに常識的知覚のこちら側にいて、それを分析したり結合したりしてれば一見芸術らしく見えるものが出来上できあがる、そういう便利に屈服するのは誰にも楽しい事である。小説に作者の人生観というvisionが現れるということは余程むずかしいことでしょう。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p183

音楽や絵や詩の形式がどのように変化したのか、バルザックが小説をどのように変容させたのか、それは小林秀雄も所与の事実として述べている以上、ここでは深入りしない。

常識的知覚というのは、それまでベルクソン哲学における知覚を話題にしていたので、あくまでも通常の意味においての知覚である。社会的推移というのは、時代とともに移り変わる現実社会と考えてみよう。つまり、小説家は移りゆく現実を受けとめて小説にするのに精一杯で、visionすなわち心眼を反映させるまでは至っていない。

「常識的知覚のこちら側」で「分析したり結合したり」というのは、心理描写や情景描写を書き込むこと。すなわち、こまやかに描写を充実させれば、芸術的な小説だという評価が得られるので、小説にvisionを盛り込むといった芸術的野心はもはや見られないと小林秀雄は嘆いているのだ。

このことを「考えるヒント」の一篇である『井伏君の「貸間あり」』(「小林秀雄全作品」第23集)で具体的に述べている。

ある日、街を散歩していたら、懇意にしている井伏鱒二の小説を原作とした映画『貸間あり』を上映していたので観賞した。原作も映画も、戦後の一軒家を貸間としたアパートに集う人間模様を描いている。だが映画は「商売第一とは言え、これほど程度を下げて制作しなければならぬものか」と訝うほどだったという。

小説は、作家が言葉だけで綿密に創り上げた世界である。作家は普通の言葉にある力をよく見抜き、その組合せに工夫して、文章の面白味を創り出す。よって事細かに描写に注力する必要もない。そういう小説を小林秀雄は好むという。

井伏鱒二は人知れぬ工夫に工夫を重ねて小説『貸間あり』の薄汚い世界を創造した。彼が言葉の力によって抑制しようと努めたのは、外から眼に飛び込んでくる、誰でも知っている現実感だったはず。しかし、映画では作者の視力をそのまま延長すればよいと考え、強いアクセントを持たせた。小説で、言葉で描いた「薄汚さ」を、「薄汚い」という言葉の文字面だけを再現し、さらに誇張したために、小林秀雄は「これほど程度を下げて制作しなければならぬものか」と感じてしまったのだ。

なぜ、このようなことになったのか。

(つづく)

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