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アンノウン・デスティニィ 最終話「エピローグ」

第1話は、こちらから、どうぞ。

最終話:エピローグ

<登場人物>
(もとの世界)
鳴海アスカ‥山際調査事務所諜報員
山際瑛士‥‥山際調査事務所ボス
三谷新‥‥‥通称シン・山際調査事務所のコンピューターエキスパート
日向透‥‥‥若き天才科学者・優性卵プロジェクトの精子提供者

(鏡の世界)
キョウカ‥‥‥鏡の世界のアスカの仮の名前
瑛士‥‥‥‥‥鏡の世界の山際の仮の名前・山際調査事務所ボス
アラタ‥‥‥‥鏡の世界のシンの仮の名前

【2036年5月5日11時11分、つくば市・山際調査事務所】
 風がレースのカーテンをゆらす。こどもの日の今日も朝からよく晴れている。伸び放題の樹々の新緑があざやかだ。事務所の前庭では太く長い竹竿が天を衝き、その先で鯉のぼりが悠然と泳いでいた。「行事はきちんと楽しまんとな」と、山際が竹林の竹を品定めし建てた。
 緑の風に泳ぐ3匹の鯉を白衣の人物が額に手をかざして見あげる。
 ギギィツ。
 蝶番ちょうつがいの鈍く軋む音がして、離れのログキャビンの扉が開いた。風がさっとすべりこむ。
「ボス、いいかげん仕事して」
 といいながら振り返り、アスカは口を半開きにして固まる。
 立ちあがりかけて椅子を倒す。
「ただいま」
「……透」とつぶやき、アスカは言葉を忘れる。
 ふらりと一歩進んでようやく「おかえり」とささやいた単語がたちまち涙にまみれる。
「遅くなって、ごめん」
 アスカはかぶりを振る。金髪が糸のごとく乱れて濡れた顔に貼りつく。
 バタン。戸が乱暴に開く。
「おい柏餅もってきたぜ……お、おお!」
 山際は透の姿を認めると驚くよりも先に
「おかえり、よく帰って来た」バンバンと肩を叩く、そのとたんだった。
 オギャ、ホギャ、オギャア。
 アスカははじかれたようにベビーベッドに駆けより抱きあげる。背中をとんとんとあやすと泣き止んだ。
「ノゾミ?」
 たずねる透にアスカは大きくうなずき透に差しだす。
「あ、手を洗ったほうがいいかな」
 両手を白衣の脇でこする。
「だいじょうぶ。ボスが汚い手でさわりまくってるから、免疫ばっちりよ」
 アスカの頬に笑みが戻る。
 ラボでの別れ際にロケットペンダントをアスカの首にかけながら透は「ここにノゾミがいる」と耳打ちした。そうして空のジュラルミンケースを手にラボの回廊から越鏡したのだ。受精卵の安全を確保するために、傷だらけの脚で。
 6月15日に国会が閉会したその日、山際が手配した不妊治療クリニックで受精卵を子宮に戻してもらった。しだいにふくらんでいく腹部を撫で、人工子宮器の並ぶ格納庫の光景をなんども思い出した。まだ未分化だった胎児たちのその後を思いながら。
 ホギャ、ホギャ。透の腕のなかでまた泣き出す。
「抱き方がへたみたいだ」緊張で頬をつらせ透が助けを求める。
「おしっこかも」
 アスカが抱きとり、ベビーベッドの柵を倒して寝かせ、カバーオールの股間のスナップをはずす。
 手もとを覗いていた透が驚く。「ペニスが……」
「そう、男の子なの」アスカが微笑む。
「3月3日のひな祭り生れのノゾミ君です」
 オムツを替え終え、抱きあげる。ぷんとミルクの匂いがする。
「鏡の世界のノゾミは女の子だったでしょ。どうなってるんだろね」
「もともと男児だったんだよ。Y染色体が発現しなかったか、機能しなかった。人工子宮器による孵化ではさまざまな異常が生じるということだ」
 抱きたくてしようがないのだろう。山際がアスカの手からノゾミを奪う。
「男の子か。それで立派な兜を飾ってるんだね」
「そう。すっかりおじいちゃんモードのボスが、ね」
 黒塗りのひつの上に金の鍬形くわがたを光らせた立派な兜がローボードの上に飾られていた。
「名前はノゾミのまま?」
「男の子でも通用するいい名前だもん」
 コーヒーを淹れながらいう。
「ねえ、どうしてノゾミってつけたの?」透にたずねる。
「アスカ、きみの名前は産着に挟まれてたんだったね」
「うん」
「ただのメモ書きと失望してたけれど。ぼくは、きみの母親のせいいっぱいの愛情だったと思ってる」
 意表をつく考えに、アスカは透の言葉を待つ。
「アスカは漢字にすると、明日香や飛鳥だろ。どんな理由があったかわからないけど、育てることができない子に、未来への希望を願ってつけた、そんなふうに思えた。だから同じ願いを込めてノゾミにした。ぼくたちも育ててやれなかったから。ジュラルミンケースに名前を書いたメモを残したのは、きみのお母さんの真似さ」
 あの一枚のメモにそんな想いを読み取るなんて。はじめて自分の名前が愛しく思えた。
 ガチャリ、また扉が開いた。
「ボス、また離れに入り浸って……」シンが文句を言いかけ
「えっ、えっ、え! 透さん?」動揺が通りすぎると眼鏡の奥が輝く。
 シンは透の大ファンだった。爆発事故のあと、雨に濡れた子犬のように意気消沈していた姿を思い出した。興奮を隠さず透の隣に陣取る。
「で、一年かけて向こうで何をしてた」
 山際がノゾミをあやしながら問う。これが伝説のスナイパーかと疑いたくなるほど、目には鋭さのかけらもない。
「鏡界を閉じてました」
 透がいうには、優性卵プロジェクトが向こうの世界に反映されていなかったことを端緒に鏡界の不具合が次つぎに明らかになった。
「加えて、ぼくらが時のワープを強行したことも亀裂を助長しました」
 鏡にひび割れがはいっている状態をイメージしてください、という。小さな亀裂が不規則にあちこにち入っている。目に見えないほどの微小な傷も多い。長年の越鏡でついた傷です。それが特定箇所と時間に偏ることでエネルギーが溜まりすぎ大きな亀裂になっていて時空を歪めていました。優性卵プロジェクトが鏡の世界に反映されなかったのも、それが原因です。放っておくと、力が溜まりすぎたプレートが跳ねあがって地震を起こすように、鏡界も崩壊直前でした。ぼくと、鏡の世界のぼく、鏡界部の鏑木さん、紺野さん、アラタの主に5人で検証し修正し閉じていきました。瑛士とキョウカも力技の必要なときに加わったという。
「鏡界が崩壊しちまったら、どうなる」
「おそらく鏡の世界が消滅するでしょう」
「こっちではなくて? キョウカは鏡界を見張っている向こう側が表の世界だと言ってたけど」
「鏡界部という監視組織があって、人々が鏡界の存在を認識しているのは、向こうが鏡によって映し出された世界だからじゃないでしょうか」
 シンが推測する。
「つまり?」理解が追いつかないアスカがたずねる。
「鏡の世界がいつから存在したのかはわからないけど。こちらの世界がもとで、偶然が重なって鏡の世界ができたんじゃないだろうか。今後はその検証も必要になるが、それは先のことだね。とりあえず、鏡の世界が崩壊しないように閉じてきた。アムール川も特定箇所の一つだったから、黒龍の鱗がきらめかないように川面の鏡を閉じてきたよ」
 透がコーヒーでひと息つく。
「一つだけ閉じずに残したのが、ぼくが帰ってきた鏡。今ごろは向こうの世界のぼくが閉じているはずだ。帰って来るのが遅れた理由は、これが原因でもある」
「どういうこと?」
「ほぼすべての鏡を閉じているから、確実に戻って来るにはエネルギーが高い時期を選ばざるをえない。それで5月5日11時11分。日付も時間もミラーナンバーで、光のエネルギーの高い5月の昼間。この日のこの時間しか選択肢はなかった」
「すべての鏡界が閉じられたということは、もう、往来はできないということ? キョウカたちには会えない?」
「本来は交わってはいけないんだ」
 頭では理解できる。けど、感情が追いつかなくて熱いものがにじむ。たった5日間だったけれど。20年の時空を危険と隣り合わせで駆け抜けたから。
「これ」と透が白衣の胸ポケットからUSBを取り出す。
「キョウカ、瑛士、アラタの写真と映像が入ってる。もう会えないけど、これで我慢して」
 アスカはUSBを握りしめる。そうだ。たとえもう会うことがかなわなくても、彼らは隣り合わせの世界で生きている。あたしが生きることは、彼らが生きることにもつながるのだから。鏡をのぞけばキョウカが笑ってくれる。
「ノゾミの目が見えなかったら、どうする?」
「こんどはぼくが、コウモリリュックを作るよ」
「20歳までしか生きられなかったら?」
「それまでの日々を3人でめいっぱい楽しもう」
「そうね」 
 
【2036年11月11日、千葉・成田空港】
 成田空港第1ターミナル5階の展望デッキは、平日でも飛び立つ飛行機に手を振る人や望遠レンズをかまえる人でにぎやかだ。
 日向透の戸籍は、上田が準備した。上田は変わらず内調の情報官だ。辞職を願いでたが、新垣総理はもとより長塚大臣にも却下された。
「きみが犯したことは赦し難いが、表沙汰にできぬ事案で罷免することもできん。少子化阻止特別措置法が廃案になったいま、優性卵プロジェクトが明るみに出てみろ。それこそ私の政治生命に関わる。また、きみが警察官僚として優秀な人材であることも捨て難い。政界進出は諦め職務をまっとうしろ」 
 長塚に厳命されたという。傍らには新垣総理も控えていた。上田はポーカーフェイスをかなぐり捨て号泣したそうだ。
 その上田から内調か警察庁に戻って来ないかと、山際はしつこく誘いを受けたがいずれも丁寧に断った。「この気楽さがちょうどいい。俺はじぃじライフを満喫するんだ、じゃまするな」といって。どのあたりが丁寧なのかと、シンは呆れ顔でアスカに報告した。
 上田が秘密裏に用意した透の戸籍は「山際透」。山際の養子だった。アスカと同じ施設に捨てられ、引き取られたことになっている。
「ハーバードの学歴はどうする? 学歴も適当にでっちあげるか。そのくらいの工作はたやすい」と問われたが、透は即答で断った。これからは事情を理解しているボリス教授のもとで、できるだけ自らの能力を秘して生きていくつもりだという。
 爆発炎上事故の映像がかなり流れたため、日向透の顔は知られてしまっている。山際調査事務所内は他人目につかないが、ノゾミが成長すれば敷地内だけで生活していくことは難しい。アメリカ行きは早い段階で決まっていた。アスカもアメリカで本格的に薬の研究に取り組むという。外傷はもとより遺伝子の傷を修復する薬か技術を研究してみるのだと、透の脚の傷に自ら調合した軟膏を塗りながら微笑んだ。
 戸籍のついでにパスポートも上田が用意してくれていた。
「まあ、リスクを最小限にはできるがなあ。それでいいのか。まだ若いし、国際的な活躍もおまえなら望めるだろ」
「ぼくは研究ができれば、それでいいんです。研究の成果はボリス研究室に帰属し教授名で発表すればいい。研究の結果が世の中に役立つなら、それが本望です。本来、研究ってそういうものだと思います。栄誉のためにするものではないし、特許にも興味はありません」
 そういって清々しく笑った顔を思い出す。あいつはやっと、すべてから解放されたのかもしれない。そうして、家族というかけがえのないものを手にいれた。
 
「行っちまったな」山際が目を眇める。
「そうですね」シンも見あげる。
「空が鏡のようだ」
「レイリー散乱の美しい空ですね」
「まさか飛行機ごと越鏡したんじゃねえだろうな」
「どうでしょう」
 どこまでも高く青い空にひと筋の飛行機雲が直線を引いていた。

(完)
 
 
 


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