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古代より続く火山信仰の里🌋阿蘇市歴史さんぽ ① 【草千里ヶ浜&今後の史跡紹介】

こんにちは。今年初めての連載は、阿蘇市散策シリーズから始めたいと思います。最初に、今回の地震で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げますとともに、被災地域の一日も早い復旧をお祈り申し上げます。なお、阿蘇散策記事中では折に触れて熊本地震の被害や断層運動などに言及する場合がありますことをご了承頂きたいと思います。

シリーズ1回目の今回は、草千里ヶ浜にて阿蘇カルデラの成り立ちを学んだ後、阿蘇市の歴史文化ならびに今回のシリーズで取り上げる史跡についてご紹介したいと思います。(4900字)


阿蘇山と阿蘇市の位置

阿蘇市といえばやっぱり阿蘇山。阿蘇山は火の国熊本のシンボルであり、熊本県で最も有名な観光地です。因みに阿蘇山とは、阿蘇五岳を中心とした阿蘇カルデラ中央部の山々の総称になります。なかでも中岳は現在も活発に活動する活火山で、中岳の火口見学は阿蘇観光のハイライトです。そして阿蘇市は中岳火口を含む阿蘇カルデラの北側に位置しています。

阿蘇山の位置はここ!
阿蘇市は草千里ヶ浜・中岳を含むマップの北半分。
(画像は草千里ヶ浜の案内板より拝借)

そして草千里ヶ浜の展望所からはちょうど阿蘇市のある北側のカルデラを一望できるので、後ほど写真でご紹介します💡

草千里ヶ浜で阿蘇の成り立ちを学習しよう!

中岳火口から約3km地点にある草千里ヶ浜は、大草原と2つの池が織りなす景観が美しい阿蘇を代表する観光地の一つです。ここには阿蘇火山博物館もあり、阿蘇カルデラの成り立ちを学習するには1番いい場所です。(ブラタモリでタモリさんも訪れていたもよう。)まずは博物館や参考文献で学んだ内容を共有いたしますね💡

草千里ヶ浜駐車場に併設されている阿蘇火山博物館

阿蘇火山は27万年前、14万年前、12万年前、9万年前の計4回、巨大噴火を起こしました。その都度大規模な火砕流を噴出しましたが、特に9万年前の4回目の火砕流は、海を渡って島原半島はもとより中国地方や四国地方にまで流れたことが分かっています。現在見ることのできるカルデラ地形は最後の9万年前の活動によって形成されたものですが、カルデラは地下のマグマが大量に噴出したことにより山体が陥没してできた地形になります。

阿蘇カルデラは南北25km、東西18kmの楕円形に近い形をしており、その内部の面積は約380m2と世界的にも有数の規模を誇り、美しい形を残しています。カルデラ内には海抜高度300〜600mの火口原(カルデラ床)が広がっており、火口原は阿蘇五岳をはじめとする大小の火山(中央火口丘群)により南北に分断され、北側を「阿蘇谷」、南側を「南郷谷」と呼びます。(この呼び方は今後も記事中で使いますのでよろしければ覚えておいてくださいね。)そしてカルデラの縁が海抜600〜1200mの外輪山と呼ばれるものです。

阿蘇火山博物館の模型の写真を編集。画面左側のカルデラが一部切れている地形の箇所は後ほど写真でご紹介します

カルデラ内には過去3度にわたりカルデラ湖が形成されました。最初の「古阿蘇湖」が消失した後、南郷谷に「久木野湖」、阿蘇谷に「阿蘇谷湖」が出現し、阿蘇谷湖は約1万年前まで存在していたと考えられているそうです。

因みに、中央火口丘を形成するマグマはサラサラなもの(玄武岩質)からネバネバなもの(流紋岩質)まで多岐にわたり、様々な火山地形を見ることができますが、阿蘇火山は別府ー由布岳、鶴見岳ー九重ー阿蘇ー金峰山ー雲仙という東西方向の火山の並びと、阿蘇ー霧島ー桜島ー開聞岳ー南西諸島という南北方向の火山の並びとの会合点にあたり、そのことが阿蘇山の構成や岩質の複雑さに影響していると考えられているそうです。

お待たせしました!これから草千里展望所に登って阿蘇の雄大な景色を眺めてみましょう🏃‍♀️↓

展望所登り口

まずは早速、南側の草千里ヶ浜の風景から↓

今の時期ちょっと干上がってますが、草原の中央に池があるのが分かりますか?画面に入りきれてませんが、右側にももう一つ池がありまして、2つの池は約3万年前の噴火口の跡になります。2つの池に挟まれた小高い丘は「駒立山」と呼ばれ、溶岩ドームの残存部と考えられているそうです。
奥に見える高い山は、阿蘇五岳の一つ「烏帽子岳」です。草千里ヶ浜は雪景色の冬もいいのですが、やっぱり夏の緑の草原がおススメですかね〜、夏の美しい景色は最後のリンクの熊本県公式観光サイトの画像でご覧になってみて下さい❣️
では次は東側を見てみましょう↓

白い噴煙を上げているのが中岳火口です。そして、その奥に見えるピークは阿蘇最高峰の高岳です。(標高1592m)両方とも阿蘇五岳に数えられています。次は北側です。阿蘇市中心部のある北側のカルデラ(阿蘇谷)の風景です。↓

カルデラ内部に町や田畑があるのがよくわかりますね。奥に見える高い崖状の壁がカルデラの縁である外輪山です。因みに手前の可愛らしい山は「米塚」と呼ばれるれっきとした火山で、頂上のくぼみは火口です。

それでは最後に西側です。カルデラの西側には、阿蘇カルデラ唯一の切れ目「立野火口瀬」があり、その先に広がる熊本平野が望めます。その先に見える山は金峰山、更に先には有明海を挟んで長崎県の雲仙普賢岳が望めます。(雲の上)↓

直線上に火山が並んでいるのがわかります。
今矢印の方向を眺めている形ですね。

このカルデラの切れ目(立野火口瀬)から長い時間をかけて土砂が流れ出て、熊本平野を形成しました。神話の世界では、カルデラ湖を排水して田を作ろうと考えた阿蘇の神様•健磐龍命(後述)が外輪山を蹴破った場所とされています。地質学的には阿蘇ー熊本平野にかけて東西にのびる複数の断層群が存在し、これらの断層運動が立野火口瀬の形成に大きく関わったと考えられています。2016年の熊本地震(前震•本震)で被害をもたらした断層もこれらの断層に含まれ、阿蘇エリアも大きな被害を受けました。因みに神話に戻って、健磐龍命が外輪山を蹴破ってカルデラ湖の水を排出した際、湖底から大ナマズが現れたそうです。ナマズは地震と関係が深いですから、神話って本当に示唆に富んでいますよね。

赤いエリアが熊本地震で揺れが強かった場所。
画像はWikipediaより。

さて、これまでは自然史的な観点から阿蘇を観てきましたが、これからは有史以降の阿蘇市の歴史•文化を観ていきましょう❣️

阿蘇市の歴史文化

阿蘇山は古代より火山神として信仰の対象とされており、その記述は中国の史書『隋書倭国伝』(636)に初めて登場します。同書には、阿蘇山が噴火すれば住民は異変とみなして祭祀を行うと記載されているそうですから、聖徳太子の時代以前の5、6世紀には火口へ祈りが捧げられていたことがわかりますね💡時代は下って平安時代になると、火山神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)という人格神となります。健磐龍命の史料的初見は、『日本紀略』(823)で、その後も神位の高い神として『六国史』に度々登場するのですが、その記述から噴火口(中岳火口)は健磐龍命の神宮とみなされていたことがわかるそうです。

一方、阿蘇谷には古くから阿蘇谷を開拓した豪族がいて、古墳時代の古墳が多数存在します。これらの古墳を造成した豪族が以降戦国時代まで領主として君臨した阿蘇氏の祖先、阿蘇君と考えられていますが、神話(史書)中では以下のように記されています。↓

・『古事記』の神武天皇記 → 神武天皇の子の八井耳命(やいみみのみこと)が阿蘇君(あそのきみ)の祖である。

・『旧事紀』の国造本紀 → 八井耳命の孫である速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が阿蘇国造(あそくにのみやつこ)に任じられた。
※国造(くにのみやつこ):古代の世襲の地方官

上記の2つの材料により、以下の系図ができます。
(※横書きですが、縦の系図と見てください。)

神武天皇 ー八井耳命ー ❓ー 速瓶玉命 ー 阿蘇君

さて、❓にはどんな神が入ると思いますか?そう、火山神にして阿蘇最高の神様・健磐龍命です!こうして、朝廷も認める火山神を先祖にもつ阿蘇氏の強力な系図が出来上がりました。(?に健磐龍命が入る根拠史料は参考にした文献には書いてなかったので不明です。)そして阿蘇氏は祖神・健磐龍命をはじめ阿蘇の神々を祀る阿蘇社の神主となり祭政一致の領主として阿蘇地方に君臨します。平安時代後期になると、全国的なトレンドとして「大宮司」と呼ばるようになり、同時期に周辺の豪族との関係から武士化し、以降、阿蘇地方にとどまらず肥後国内に勢力を拡大していくことになるのです。

以上、分かりにくいウンチクを長々と述べましたが、要約しますと、長年の間に古代からの火山神と、阿蘇谷を開拓した阿蘇氏の祖神が健磐龍命として一体となり、その神威は朝廷や時の中央政権からも一目置かれるものでした。そしてその神を祀る阿蘇社(肥後一の宮)と、その神の直系の子孫である阿蘇大宮司家が、中世以降阿蘇地域にとどまらず肥後国内で力を持つようになるということです💡

本シリーズでご紹介予定の史跡

ここまで説明させて頂いてやっと史跡の紹介が可能になるのですが、今回散策する主な史跡は以下の通りになります。

1. 阿蘇山頂の史跡群
火山神・健磐龍命の神宮である中岳第一火口と阿蘇山上神社(上宮)、天台密教系山岳仏教の霊場跡・古防中とその本堂・西巌殿寺奥の院

2.国造神社(北宮)
健磐龍命の御子で阿蘇国造初代の速瓶玉命を祀る神社。神社の背後には阿蘇国造夫妻の墓と伝わる上御倉・下御倉古墳があり、あわせてご紹介予定

3.阿蘇神社(下宮)
健磐龍命を主祭神として祀る肥後国一の宮。日本三大楼門を有する阿蘇を代表する観光地でもある。湧水の湧き出る門前町商店街と、健磐龍命の御館跡と伝わる矢村社もあわせてご紹介予定。

そして以上の史跡の位置は、古代信仰において重要な遺跡が直線上に並ぶとされる、いわゆる「聖なるライン」上にあります。↓

阿蘇神社が阿蘇火山と国造神社を直線で結んだ中間の地に鎮座することが意味するのは、阿蘇の主神・健磐龍命が「火山の神」と「祖先の神」の2つの神性を併せ持っていることを象徴しています💡ここでちょっと疑問に思ったことがあります🤔聖なるラインは中岳と高岳の中間を通っているのですが、なぜ最高神である健磐龍命の神宮・中岳火口からではなく、中岳と高岳の中間地点なのか、ということです。この理由は私が読んだ参考文献には書いてないのですが、私の想像は以下になります。↓

阿蘇五岳で最も高い高岳の神は、阿蘇比咩(あそひめ)という女神で、健磐龍命の妃神です。つまり、健磐龍命と阿蘇比咩の間に生まれた御子が、国造神社の主神・速瓶玉命になります。その意味で、ラインは中岳と高岳の中間を通っているんだろうと思いました。因みに、阿蘇神社は健磐龍命を主神とした12神を祀っていますが、阿蘇比咩も祭神に含まれています。分かりやすい様に、今回ご紹介する史跡に関係する神々の系図のみ抜粋して以下に示します。↓

『阿蘇神社』p.34 阿蘇十二神系図より一部抜粋。
カッコ内は阿蘇神社において第何宮に鎮座する神かを表す

因みに、阿蘇神社の元々の祭神は『延喜式』に記載されている健磐龍命・阿蘇比咩・速瓶玉命の三神だったそうですが、平安時代末までに現在の12神体制となったそうでございます。

はぁ〜、ここまででやっとご紹介予定の史跡とその背景をまとめることができました〜😮‍💨次回は早速中岳火口へ向かい、草千里ヶ浜と火口との中間地点にある古坊中遺跡と、阿蘇山頂広場に鎮座する西巌殿寺奥の院並びに阿蘇山上神社をご紹介予定です。次回も宜しくお願いします❣️

草千里ヶ浜の縁から雪を戴く中岳•高岳を望む人々

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献】
•柳田快明『中世の阿蘇社と阿蘇氏』ー謎多き大宮司一族 戎光祥出版 2019年
•阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社 2007年
•杉本尚雄『中世の神社と社領』吉川弘文館 1959
•阿蘇町史 第1巻 通史編 2004年

アクセス情報はこちらから↓


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