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【読書記録#16】頭のよさは国語力で決まる(齋藤孝)

以前読んだ『読書力』と同じ著者の本。
そんなタイトルつけられたら読むしかないじゃない!と思いまんまと購入。

著者の問題意識としては下記の通り。

 現代社会では、言葉を通じて意思をやりとりする、感情をやりとりするということが、より精密に、より高速に行なわれるようになりました。これほどまでに、読んだり書いたりすることが多い時代というのは、歴史上なかったわけです。
 つまり、最高レベルの実用的な言語活動が求められているにもかかわらず、自分の国語力に自信がもてない人が多い。能力的には江戸時代の子どもたちが身につけたものに劣る国語力であり、それが心配だ、という点。

齋藤孝『頭のよさは国語力で決まる』

確かに、著者の言っている「自分の国語力に自信がもてない人」は自分の周りでもちらほらいる。「コミュニケーション能力を高めたい」「語彙力を増やしたい」と嘆いている人がいるが、そういう人に限って、活字の本を読むのは難しそうとか、アニメとか他のことに時間を使いたいとか、何かと理由をつけて避けようとしている。

著者の言う「江戸時代の子どもたちが身につけたものに劣る国語力」というのは、漢語的表現に慣れ親しんでいる生活の土壌があったからこそ身につく読解力のようなもので、現代語のように読みやすい文章ではないため、勉強量が要求されるものである。
難解な文章を読むという一点においては江戸時代の子どもの方が優れていそうだが、現代語のように多種多様の言語を交えながら、さまざまな略語を使いこなす様式はそれはそれで難解なものではないかとも思うので、一概に負けっぱなしというわけではないと個人的には感じている。

さて、国語力はどのようにして鍛えていけばよいのか。ここでは過去にスピーディーに問題解決を行ってきた人々は漢語の素養があるなど伝統的な学力を非常に大事にしていると述べている。これは現代にも同様のことが言えるとして、本書を展開している。

一見すると、読書をしっかりすれば読解力が身につくからたくさん難しい本を読もうね!といった内容になりかねないが、国語力というものは文章を読む力とイコールではない。日常会話での文脈を読み取る能力であったり、自らが話したり、書いたりするときにも発揮される。これらの言語能力だけでなく、相手の表情や所作からも何かを読みとれるかもしれない。人間のコミュニケーションの基盤を支えるものとして「国語力」をとらえている。

本書を読み進めていると、実際のコミュニケーションの取り方で、お互いに気持ちよく会話ができるようなテクニックも記載されているし、使ってみようと思うような技がちりばめられている。

あとがきには、著者の「伝統的な学力」観と、「新しい学力」観も記述されている。最近学び直しをしようと自分自身心掛けているところがあるので、わずかなページだが背中を押される内容となっている。

国語力がないと嘆くのは結構。だが打開するために努力してみるのはどうだろうか。(noteで表現活動をしている人には釈迦に説法か…)

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