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月とビールとおじちゃんと

異常に暑かった夏が終わり、シャインマスカットが非常に安かった秋も終わり、いよいよ冬がやってきます。

だいぶ空気が乾燥してきたので、そろそろ手荒れしないようにハンドクリームを買わないといけません。

家の中も乾燥してきたので、寝る時は濡れたタオルを寝室にかけなければなりません。

カンカンカン、火の用心、カンカンカン、火の用心。

そして、何より気をつけないといけないのは火の元です。

心の火種はそのままに、火事の原因となる火の元だけは徹底的に始末しないといけません。

カンカンカン、火の用心、カンカンカン、火の用心。
カンカンカン、カンカンカン、、、

遠く、彼方から聞こえてくる拍子木の音に耳を傾け空を見上げると、そこには月がくっきりと漆黒の夜空に浮かんでいました。

私は右手に缶ビールを持ち、うっとりとその月を眺めています。
すると、20代半ばの忙しない日々の様子がふと頭に浮かんでくるのでした。

今からは想像もつかないほどに、ぎゅうぎゅうに人が詰め込まれた朝の通勤ラッシュ。
熟鮓なれずしの気持ちになりながら、1時間かけて仕事場に到着した時の疲労感。
座ることも許されずに働き続け、なんとか最終電車に飛び乗る無常感。

今でこそブラックと言われる飲食業界ではありますが、当時は私も含め、仕事とはそういうもんだと誰もが思い込んでいた時代でもあったのです。

そんな忙殺された日々の中で、私は思うように進まない人生に四苦八苦していました。

なかなか上達しない自分の腕。うまくいかない人間関係。先の見えない不安。理不尽な先輩たち。

余裕の「よ」の字を持ち合わせていなかった私の身心は、軒先に吊るされた干物のごとく痩せ細り、カラカラに干からびてしまっていたのでした。


そんな私の心を潤してくれたのは、やはり、よく冷えたビールと人のあたたかさでした。

地元の駅から我が家への帰り道、商店街を抜けた先に一軒の酒屋さんがありました。

お月様のように丸い顔をしたおじちゃんが営む、小さな酒屋さんです。

その酒屋さんは私のような終電族のために深夜の1時まで営業してくれていたので、私はいつも閉店間際に滑り込み、帰り道に飲む用のビールとお風呂上がりに飲む用のビールを一本ずつ買っていました。

私がレジにビールを持っていくと、店主であるおじちゃんはいつもニコッと笑って「おつかれさま」と優しく声をかけてくれます。

しかし私は人見知りでとても無口な性格だったので、軽く会釈を返すことくらいしかできません。

それでもおじちゃんは飽きることもなく、雨の夜も、風の夜も、雪の夜も、台風の夜も、私がビールを買いに行くたびに顔をくしゃっとさせて、「おつかれさま」と優しく声をかけ続けてくれるのでした。

私はいつからか暗い住宅街の先に、その酒屋さんの灯りを目にすると「ああ、今日も無事に終わったんだな」と、安堵のため息を漏らすようになっていました。

今思えば当時の私にとって、そのおじちゃんの笑顔はきっと、暗い夜道を優しく照らしてくれるお月様のような存在だったのです。


カンカンカン火の用心。カンカンカン火の用心。

私は今、右手に缶ビールを持ちながら家路についています。

痩せ細っていた当時の私とは違い、今はしっかり脂も溜め込んで、ぷっくりとお腹も出ています。
そして、若い時よりもちょっとだけタフになれたような気もしています。

つい最近友人から、あの酒屋さんもおじちゃんもいまだ健在だと聞きました。

「今度近くに寄ったらビールでも買いに行ってみようかな」

そう呟きながら夜空を見上げると、まん丸な月はニコッと笑って、雲の中へと隠れていきました。

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