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千人伝(百九十一人目~百九十五人目)

百九十一人目 忘却

ぼうきゃく、はすぐに何でも忘れてしまった。今やらねばならないことも、絶対に忘れてはいけないことも、美しい思い出も、何もかも忘れてしまうのだった。忘却と過ごした年月は積み重ねられなかった。嫌な思い出も傷つけられた過去も忘却には刻まれなかった。

日常生活に支障を来たすものだから、彼女の周囲にはいつも忘却を世話する人がいた。あまりに覚えてもらえないので虚しくなり、去っていく者がほとんどだった。「はじめまして」と忘却は両親や兄弟にも言うのだった。「はじめまして」という言葉の意味も実は忘れてしまっているのだった。

忘却に惚れてしまったが忘れられてしまったことを恨みに思い、忘却の食事に毒を入れた男がいた。忘却はその毒により致命的な内臓疾患を患うのだが、毒の味を忘れてしまうし、病気のことも忘れてしまうものだから、死ぬことも忘れて長く生きた。まだ生きている。毒気のある身体で毒気のない笑顔を絶やさないまま。

百九十二人目 怪談

かいだん、は怖い話が好きだった。心底怖い話に出会うと、嬉しくなって何度も思い出した。思い出すたびに鳥肌の立つ話がいくつかあった。鳥肌の立たない話もあった。怪談は何度思い出しても鳥肌の立つ怪談は、フィクションではなくて事実なのだと確信していた。友人にその話をすると馬鹿にされた。そのような話があるはずはない、と血走った目で友人は熱弁した。それならば私にも思い出すたびに鳥肌の立つ話がある、と続けた。怪談は興味深くその話を聞いたが、思い出しても鳥肌は立たないので、フィクションなのではと思った。しかし人にとって怖い話の受け取り方が違う、感じ方が違う、というだけの話なのかもしれないとも思った。

その友人が熱がこもりすぎて鼻血を出したり、拳でテーブルを打ち付けたりする様は、思い出すたびに鳥肌が立った。その友人は怪談と別れた直後に行方不明になったが、怪談自身は一度も恐怖体験を味わうことなく、寿命尽きるまで生きた。

百九十三人目 廃墟

はいきょ、は廃墟で生まれた。閉園後、施設が解体されないまま残された遊園地の廃墟で暮らす男女の間に生まれた。両親は廃墟を生んで間もなく廃墟に同化して朽ち果ててしまった。廃墟に住み着くネズミやら野生化したヒトやらに囲まれて、廃墟はポップコーンの種を主食として育った。ネズミの教育により、赤ん坊の頃より鋭く尖る歯が生えていたので、火を通さないポップコーンを食べることが出来たのだ。

しかし廃墟の生まれ故郷は廃墟遊園地として観光地となってしまい、廃墟は追い出されてしまう。抵抗した野生化したヒトは逮捕された。廃墟以外で生きる術を知らなかった廃墟とネズミは都会に旅立つが、ネズミは罠にかかり命を落とした。廃墟の歯は次第に丸くなり、都会に適応しかけたが、廃墟遊園地が盛況だという一報に触れる度に衰弱し、十歳になる前に二度と動かなくなった。死体は全身鉄サビに覆われていた。

*韓国には実際に観光地となった廃墟遊園地「ヨンマランド」があるとのこと。

百九十四人目 事故

じこ、は事故にあった。自分の運転判断の誤りが原因であった。位置が数センチずれていれば、死んでいた。事故の瞬間は妙に冷静で、周囲がよく見えていた。激突の瞬間に「これは死ぬやつだ」とさえ思った。しかし生き延びた。物損はしたが怪我はなかった。

かに見えたが、帰宅後に足が痛みだした。身体を捻った場所に酷い打ち身の後があった。翌日には歩けなくなっていた。事故直後には痛くなかったあらゆる箇所が痛みだした。本当は死んでいたのだ、と気が付いた。本来味わうべきであった傷と苦痛が現れだしたのだ、と事故は悟った。

実際は骨のヒビだけに留まったのだが、自分は事故の瞬間に死んだという意識だけは持ち続けた。五十半ばで病死する際も、「これは事故死だ」と周囲に告げた。事故で破壊された小屋は二度と建て直されることはなかった。

百九十五人目 パラレル

パラレルは物損事故を起こした際に、間一髪で死ななかった。一歩、一瞬判断を間違えれば死んでいた。しかしパラレルは自分は事故の瞬間に本当は死んでしまっていて、その後はパラレル・ワールドに生きているのだと思ってしまった。同僚の顔も家族の顔も以前と少し違って見えた。あらゆる感覚が少しズレていた。

しかし奇跡的に無傷と思われた身体も、少しずつ悲鳴を上げ始めた。足首が痛み、内出血が拡大し、事故の瞬間に物凄い力が入ったのか、一日遅れて、全身に筋肉痛が走り始めた。

痛みが治まると共に感覚のズレも収まっていき、パラレルはやはり自分は元の世界のままの住人だと思うようになった。パラレルはその後二度と死ぬことはなく、いつまでも生き続けた。そのことを疑問に思うようなこともなかった。


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「事故」「パラレル」は先日実際に物損事故を起こしてしまった体験を元にしています。一瞬の判断が別の物だったら、私は死んでいました。実際の怪我は打ち身と、軽い捻挫で済んでます。多分以前と同じ世界にいます。


入院費用にあてさせていただきます。