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千人伝(二百四十一人目~二百四十五人目)

二百四十一人目 ヘヴィメタル拾い

重いギターリフが繰り返されるヘヴィメタルが、長距離トラックからこぼれ落ちると結晶化する。ヘヴィメタル拾いはそれらを拾い集めて生計を立てていた。

シティポップ拾いに転向したかつての親友が、小銭しか稼げないヘヴィメタル拾いを眺めて呆れていた。ヘヴィメタルを鳴らしながら走るドライバーも年々減っていた。

売り払わなかった結晶の一つを家に持ち帰ると、「またそんな物を」と言いながらも、ヘヴィメタル拾いの妻は嬉しそうな顔をした。


二百四十二人目 オソレル

オソレル、は神話からはみ出した大男だった。病に倒れ、回復はしたものの、軽度の症状は残った。オソレルは病の悪化を恐れた。どのようなことをしても心身の負担にはなる。重い負担を課せばたちまち自身は倒れてしまう、とオソレルは恐れた。

オソレルを診察した医師は「良くなってきています。悪化はしていません」と言うが、それは安静にしているからで、安静にしていなければ、同じ距離をまた引き返すように、病状は悪化していくと信じていた。

オソレルは何にも踏み出せなくなった。走り出せなくなった。飛び込めなくなった。何もかもが怖くなったオソレルは何もしなくなってしまった。

オソレルは別の病を得た時「もう助かりません」と言われた。オソレルは喜んで無茶をした。そうするととっくに全治していた以前の病も含めてすっかり健康になってしまった。以来オソレルは神話に戻れなくなった怪物として生き続けている。


二百四十三人目 食欲

食欲は食べても食べても腹が空いていた。食欲は病を経て入院生活を送っていた頃、栄養バランスの取れた病院食で満足していた。量に不満も持たなかった。しかし退院が決まった途端、これまで食べたことのなかった、病院内の自販機で売られているパンや菓子類を買って食べた。

退院後も最初の内はあまり食べるわけではなかった。退院後二週間が経ち、ある程度動いても以前のような痛みに襲われなくなった頃、退院直前に味わったような飢えを感じ始めた。朝食の直後から腹が空くのだった。昼食の直後から腹が空くのだった。入院中に、食器を片付けている最中のナースに向かって次の食事をねだる患者がいた。それは認知症のせいではなく、本物の飢えから来たものかもしれなかったのでは、と食欲は思い始めた。

退院後の食欲はあまり動いているわけではないから、食べる量が増えると太ってしまう。不健康になってしまう。しかし食欲の食欲は衰えることがなかった。摂取したエネルギーを使わなければいけない、と食欲は退院後初めて、積極的に体を動かし始めた。

※このままでは太るので自制中。

二百四十四人目 夢の中の本屋

夢の中の本屋は、あまりにたびたび本屋を訪ねる夢を見るので、現実でもその本屋を探すようになった男である。夢の中では多少形態を変えたり、新刊の本屋であることも古本屋であることもあったが、どれも同じ店であるという設定であった。

夢の中の本屋は夢の中の本屋で現実と同じように、好きな作家の本を探していた。そしていつもなかなか見つからず、見つけたと思ったら中身は全て白紙ということもあった。

ある時「ここそ夢と同じ本屋だ」という喜びとともに、一軒の古本屋を発見した。しかしせっかくの現実だというのに、夢の中の本屋は夢の中のような行動をした。早売りの漫画雑誌を購入しようとしたが手持ちの金がなかったため、いくつかの文庫本を売り払った。しかし数十円にしかならず、欲しい雑誌は買えなかった。店の奥から現れた老婆が、夢の中の本屋が売り払った文庫本を店員から奪い取り、本をかじりながら去っていった。以来夢の中の本屋はその本屋から去らずにいる。


二百四十五人目 最後のバイバイ

最後のバイバイ、は幼稚園卒園時に、何度も何度も別れをシミュレーションしていた子どもであった。一番の仲良しの子とは別の小学校に通うことになるのがあまりに悲しくて、卒園一週間前から、帰る時に必ず「最後のバイバイ」と言って大きく手を振った。

最後のバイバイは運悪くインフルエンザにかかり、卒園式に出られなくなってしまった。卒園式前日に手を振ったのが、本当に最後の別れとなってしまった、と嘆いた。卒園式では最後のバイバイ抜きで、最後の別れの儀式が行われてしまった。

最後のバイバイは泣いて過ごした。卒園式に出られなかった悲しみ、仲良しの子と会えなくなった悲しみ、もうすぐ始まる小学校生活への不安が、彼女の目からとめどなく涙を流させた。

ある時最後のバイバイの家の前で、多数の子どもの声がした。
「最後じゃないよ!」
「また会えるよ!」
「家は近いよ!」
たくさんの子どもの声の元へ最後のバイバイは駆け寄ろうとしたが、まだ熱は下がりきっていなかったため、母親に止められた。

後日、給食試食会というイベントが春休み中に幼稚園で開催された。そこには卒園児たち全員が揃っていた。最後のバイバイは楽しく友達と交わりながら、別れの際には「また遊ぼうね」と言って一日を終えた。彼女が「最後のバイバイ」と再び口にしたのは、天寿を全うした生涯最後の日のことであった。隣にはかつて一番仲の良かった、あの幼稚園の男児が手を握っていた。
「またね」とかつての男児は口にした。

※モデルとなった、息子と仲良しの女児は、実際には倒れることなく元気に登園しています。


入院費用にあてさせていただきます。