見出し画像

千人伝(百九十六人目~二百人目)

百九十六人目 読者

どくしゃ、は読みたい物を書こうと思った。自分が読みたいと思う理想的な書物は、どこにも見当たらなかった。好きな本はたくさんあったが、本当の理想の物語というと、見つけることが出来なかった。

読者は、自分のあらゆる好みを数え上げた。逆に苦手なタイプ、嫌いな話も数え上げた。読みたくない要素を一切書かず、読みたくなる要素だけを詰め込んだ話を書けば、理想の物語が出来上がるはずだった。読者は書き始めた。

しかしそううまく話は続かなかった。理想を詰め込んだ話はすぐに軌道を逸れた。気に入らない人物や逸話も入れなければ話は進まなくなった。自分の理想だけを書いていれば良かったはずなのに、「このようなことを書いて誰が受け入れるのか」と自分以外の読者の存在を意識した。

読者は結局何一つ書き上げることの出来ないまま寿命に到達してしまった。自分のこれまでを振り返り、これは理想の人生だったか、と自問した。もちろんそうではなかった。しかしこうするしかなかったし、他の道を選ぶこともなかっただろう、という確信を抱いて眠りについた。

百九十七人目 ロスト

ロストは失っていた。愛したものを失い、持っていた物を失い、人からの信頼や友情を失ってしまっていた。全てロスト自身が招いたことであった。人を愛しすぎたり物を持ちすぎたり人を信頼しすぎたり、友情を押し付けたりしていた。ロスト自身は失ったことに気付いていなかった。まだ全てが自分の物であると思っていた。一時的に離れているだけだと思っていた。

ロストはロストと同じような境遇の人に近付いた。ロストたちはどこにでもいた。何もかもを失っているのに、何もかもを失っていないような人たちだった。見えているのに見えておらず、知っているのに知らず、倒れているのに歩いているような人たちであった。年月とともに、本当は何もかもを失っていることに気付く、ということもなかった。歳とともに全てを積み重ねて、蓄積された膨大な物事や誰彼が自分を覆っていると勘違いしていた。

実際ロストは一人だった。周囲にいるのは通りすがりの人たちだけであり、すぐに壊れる物ばかりであった。すぐに忘れてしまうことは、あってもなくても同じようなものだった。ロストは鏡に映らなくなった自分の顔をよく思い出せないでいた。ロストは実はずっと昔にいなくなってしまっていたのだった。

百九十八人目 勇次

ゆうじ、は中学を卒業した後、家の近くの印刷所で働き始めた。六十四年間、働き続けた。生涯で一度の交通事故を除けば、怪我も病気もしなかった。結婚し、一男一女をもうけた。晩年、歯が少なくなり、食物の嚥下に苦労していた。死因は食べ物を喉に詰まらせてのものだった。同居していた息子は夜勤の勤めに出ていた。認知症になっていた妻は勇次を助けることが出来なかった。

棺桶に横たわる勇次を妻は「お疲れ様です」と言って長い間撫でていた。その時は夫の死を理解していたように見えたが、斎場の近くの料亭で親類と食事をしていた際に、家から遠く離れているのにも関わらず「もう家近いから帰る」と言い出して皆で止めた。

お骨上げの際に、まだ熱い勇次の骨を妻は素手で拾おうとして皆に止められた。お骨上げが終わった瞬間、真夏の空に夕立ちが降り始めた。勇次の死を悼んでの涙雨だと皆が言った。勇次と、その二年前に亡くなったもう一人の親類が、葬儀の間もずっと皆の隣に並んでいるようだった。

※ほぼ、先日急逝した叔父さんの話。

百九十九人目 漂流

ひょうりゅう、は船乗りの一人であった。大嵐に遭い船が半壊し、無人島に漂着した。無人島には人を見たことのない動物たちが、人を恐れず暮らしていた。だから簡単に殺して食うことができた。恐れぬどころか自ら寄ってきてペタペタと漂流に触れるものもいた。それらを漂流は食って生き延びた。

浜辺に船はやってこなかった。木切れを集めて船を作ろうとしたが、繋ぎ合わせるための釘がなかった。いかだではすぐに波に呑まれてしまうことは明白だった。鋸も鎚もないので、島に生えている木を押し倒そうとすると、島の獣たちは遊んでいるのかと思って寄ってくるのだった。

獣の肉ばかり食べていた漂流は、身体から獣の臭いがするようになった。誰とも言葉を交わさないので、話し方を忘れてしまい、獣のように鳴いた。
ある日五人の船乗りが、こちらも船を砕かれ、漂着した。その頃には周囲の獣と区別がつかなくなっていた漂流は、彼らが漂着して七日目に、頭を砕かれ、食料となった。

二百人目 金作

きんさく、は人に借りた金を返せなくなったので、金策に走ったが、どこからも断られた。金作の両親はもう彼に出せるだけの金は出していて、彼らの生活もままならなくなっていた。他の親類も同様であった。金作は人に返すための金を借りて、それを返すための金策であったので、金作の眼の前を金が流れていくだけであった。彼の働きで稼げる金が少なかったので、食べるものはどんどん貧しくなっていった。子どもたちも飢え始めた。

金作は金を借りることを諦めると、持ち物を手放していった。愛読した本や昔は弾けた楽器やら、あまり使わない家具類やら。衣類は必要最低限だけを残して売り払った。大した金にはならなかったが、わずかに命は延びた。そのわずかな命の延長を繰り返していけば、永遠に生きられるのではないか、と金作は気が付いた。一秒の延長を一分に伸ばし、一分を一時間に、一時間を一日に、と、粘土を限りなく平たくするように、糸を限りなく細くするようにすれば、わずかな金でも生きていけるのではないか、と。

金作の思いつきは錯覚でしかなかったので、彼の命は一年ともたなかった。しかし彼の意識だけは、延々と引き延ばされた僅かな命の中で、今でも金策に走り続けている。


入院費用にあてさせていただきます。