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音楽随筆集「ヴィラン」flower・てにをは

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 Adoのニューアルバム「Adoの歌ってみたアルバム」を聴きながら、昔の曲より最近の曲のカバーの方が似合うよな、と思う。「夜明けと蛍」ってヨルシカの人の曲か、と知ったりしながら、「ヴィラン」を繰り返し聴く。オリジナルの方が娘のココのお気に入りだったので元々知っていた曲だ。歌詞はあまり気に留めていなかった。悪役の歌なのだろう、というくらいで。元の動画を見て、歌詞を読み込むと、LGBTについての曲らしかった。

逸脱の性(さが)をまたひた隠す
(Keeping the deviant sex secret)
雄蕊と雄蕊じゃ立ち行かないの?
(A dead end with stamens and stamens?)
ねぇ知ってんのか乱歩という作家のことを Import you
(Hey Do you know a writer named Rampo? Import you)
造花も果ては実を結ぶ
(Someday, artificial flowers will bear fruit)

flower・てにをは「ヴィラン」より

 我が家のヴィランが増えていく。父子そろってウルトラマンを観たことなどないのに、ソフビの怪獣人形が増殖している。攻撃力やHPの数値で「無量大数」が出てきた。6歳になった息子の健三郎は数の単位を「垓」までは把握している(億、兆、京、垓)。その次のジョ、ジョウも教えはしたが最近では忘れてしまっているようで、飛ばして無量大数にまで行く。ある程度固定された数値として

ゼットン先生 120
ウルトラマンコスモス 400
ウルトラマンヒカリ 600
ウルトラマンサーガ 800
エンペラ星人 1000
ザム星人 3200
カオスヘッダーイブリース 数万
ベリアル軍団 数億
アークベリアル 1垓、あるいは無量大数

 一番古くからいるゼットン先生は旧世代の代表として弱く設定されている。ウルトラマン系は総じて弱い。なぜなら「怪獣ではないから」だ。時にコスモスが悪の道に目覚めて怪獣に変身して強くなっていくことがある。
 怪獣はかっこいい、正義のヒーローより悪者の怪獣の方が強い。健三郎の価値観を責められないのは、私と共通しているからだ。苦手なのだ。正義とか、正しさとか、ヒーローとか。

 村田沙耶香「信仰」を読む。凡人の考え及ぶ「奇想」などというものは、もっとぶっ飛んだ形で村田沙耶香が形にしている、などと思う。「気持ちよさという罪」というエッセイが収録されており、こんな一節があった。

 確か中学生くらいのころ、急に学校の先生が一斉に「個性」という言葉を使い始めたという記憶がある。今まで私たちを扱いやすいように、平均化しようとしていた人たちが、急になぜ? という気持ちと、その言葉を使っているときの、気持ちのよさそうな様子がとても薄気味悪かった。全校集会では「個性を大事にしよう」と若い男の先生が大きな声で演説した。「ちょうどいい、大人が喜ぶくらいの」個性的な絵や作文が褒められたり、評価されたりするようになった。「さあ、怖がらないで、みんなもっと個性を出しなさい!」と言わんばかりだった。そして、本当に異質なもの、異常性を感じさせるものは、今まで通り静かに排除されていた。
 当時の私は、「個性」とは、「大人たちにとって気持ちがいい、想像がつく範囲の、ちょうどいい、素敵な特徴を見せてください!」という意味の言葉なのだな、と思った。

(村田沙耶香「気持ちよさという罪」より)

 村田沙耶香は、作風からか「クレイジーさやか」というあだ名がメディアで使われるようになる。深夜テレビ番組の打ち合わせで「村田さん、今はずいぶん普通だけれど、テレビに出たらちゃんとクレージーにできますか?」などと聞かれたという。そのようなラベリングを安易に受け入れてしまったことで、「この作家は自分に似ている」と感じた読者たちを傷つけてしまったと、作者は後悔してしまう。

「ヴィラン」を聴いたり「気持ちよさという罪」を読みながら、娘のココのことを考える。現在不登校が続いている。インフルエンザで一家全滅した九月末から始まり、昼まで登校したりもしていたが、この一ヶ月ぐらいはほとんど登校できていない。二年前には同級生の問題児からの暴力がきっかけではあった。今回はもっと根が深そうで、学校そのものを受け付けていない節がある。そして具体的な話を私とはできていない。来年には健三郎も同じ小学校に入学する。六年生のココと一年生の健三郎が手を繋いで学校に通う、そんな姿を想像していた。

 ココと一、二年生時、同じ支援級に通っていた初恋の子は、緊急事態宣言中に転校してしまっていた。最初の不登校のきっかけとなった男児とは和解し、その後仲良くもなっていたが、五年生になった際に、彼の名前はどこのクラス名簿にも載っていなかった。支援学校へと移ったのか、家庭の事情なのかは、知るよしもない。一般からはみ出した存在が、はみ出していない存在からは「なかったこと」にされているような気になる。異物を排除する体内機構のようだ。多数派を生かすために少数派は消えてなくならなければならない、とでもいうような。

 学校には我慢して通うものだ。学校は苦しくて当たり前のところだ。学校は多様性を大事にしている振りをしているところだ。などと言いたいが言っていない。

素晴らしき悪党共に捧げる唄
(A song dedicated to the great villains)
骨まで演じ切ってやれ悪辣に
(Completely playing the villain)
残酷な町ほど綺麗な虹が立つ
(A cruel town has a beautiful rainbow)
猥雑広告に踊るポップ体の愛
(Dancing on obscene ads, it's pop fonts love)

flower・てにをは「ヴィラン」より

 勝手に「悪役の方がかっこいいよね」みたいな歌だと思っていたら全然違っていたように、私の目も耳も真実なんて見えてないし聞いてもいない。四年生の時は楽しそうに学校に通えていたのは、仲の良い面子が固まっていたからだ。インフルエンザ明けでまだ体調が万全ではなかった娘に「運動会これるかな」と投げかけた教師の声は、圧を伴って聞こえた。中学進学のことを考える時期も近づいている。軽度の知的障害と判定されている娘にとって、通常学校に進むことは、苦痛を増やすだけかもしれないと思い始めている。

 大人しいヴィランが凶悪なヴィランに迫害され、両者とも社会から抹殺される結末が訪れる。ヒーローはいつまで経っても現れない。現れたところで、ヴィランは守られない。

(了)

Ado版

 音楽との関わりを徒然と綴るシリーズです。
 新都社で連載中の「音楽小説集」がほぼ随筆集になってきたので、こちらに移行/収斂していこうかなと思っています。



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