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お金の動きでみる世界史

歴史を学ぶときに1国だけの歴史を見てもわかりません。
少なくとも周辺の国のことも学ばないといけないです。
特にお金、交易といったところは周辺国家が大事になります。

そういった点で言えば日本はかなり特殊で
陸続きの国がないという点では1国の歴史で完結しやすいです。
しかし、周辺国家の影響を知らないとやっていけません。
日本人の視野の狭さは日本史を単一で教えているからじゃないのかな?

古代中東史

古代の歴史はまさに中東の歴史です。
肥沃な土地でもありますし、何にせよ3大宗教の生まれた地でもあります。

そこは西洋史観でも否定のできないことです。

BC650年頃、ペルシア(今のイラン)が大帝国を築いていました。

アケメネス朝の領土

東はインダス川、西はシナイ半島、バルカン半島に及ぶ巨大国家です。
帝国の定義としては出口先生の定義がいいかなと思います。
2つ以上の地域(自家国語ともう1つ別の言語を扱う地域)を支配した国家」を帝国としています。

実際のアケメネス朝は2つどころではないでしょうね。
3つや4つ、更に多かったかもしれません。

アケメネス朝が優れていたのは
寛容な政策(宗教・言語・言論の自由)
②統治システム
です。

特に①は帝国を築く上で大事な要素です。
しかし、寛容な帝国は崩壊し始めると脆い性質を持っています。
②はのちにアレクサンダー大王がペルシアの王になった際も何も変更せず踏襲しました。
ギリシアのシステムより優れていたのでしょう。

お金でみる古代中東史

GSR

各国の特徴をまとめました。
GSRはGold−Silver ~Rateです。
要するに金と銀の交換比率です。

インドは銀本位制で銀高です。逆に言うと金安。
なのでインド商人は自国で金を買って、ペルシアに持って行き、金売って銀を持って帰りました。

ペルシアは金本位制の国です。
金の量が国の信用となります。
詳しくは下記

金本位制(Gold Standard)は、通貨制度の一形態であり、国の通貨の価値が特定の量の金と直接に結び付けられている制度です。具体的には、国の通貨単位が一定の量の金(通常は金貨や金塊)に対して換算され、その換算率が法的に確立されています。

金本位制の主な特徴は以下のとおりです:

1. **固定された換算率:** 通貨と金の交換レートが固定され、法的に規定されています。通貨の発行量は、国が保有する金の量に基づいて制御されます。

2. **国際的な取引の基準:** 金本位制は国際的な経済取引の基準となり、異なる国の通貨が相対的に安定した価値を維持するのに役立ちます。

3. **信頼性と安定性:** 金は比較的安定した価値を有しており、金本位制が採用されることで通貨の信頼性と安定性が向上すると考えられています。

金本位制は19世紀から20世紀初頭まで広く採用されていましたが、第一次世界大戦後の経済混乱や恐慌、そして第二次世界大戦後の国際金融制度の変化などにより、多くの国が金本位制から離れました。現在では、ほとんどの国が浮動為替制度を採用しており、通貨の価値は市場の需要と供給によって決定されています。

ChatGPT

金本位制では持ってる金以上の通貨は発行できません。
ですので、金の保有量が大事であり、金を大切にしてました。

ところが、どんどんインドに銀を取られてしまい、銀が枯渇。

そこに救世主であるギリシャが登場。
ギリシャは銀の産出国であり、銀本位制の国でした。
銀本位制なのに銀が取れるため、銀安でした。

なのでペルシアはギリシャと友好的にトレードして
金と銀の量を健全に保ってました

この辺りの流れは1国単独の歴史では絶対にわからないところです。

ちなみにですが、金本位制の国は金の量に応じた貨幣した発行できないと述べました。
その影響が大きくでたのが第1次世界大戦後です。
各国復興しようとしてもお金が発行できない!となってしまいました。
当時の派遣国家はイギリスで、イギリスが金本位制だったため各国こぞって金本位制になりました。

ただ、その分波及が大きかったようです。
1920年初頭から続く不況は1929年には世界恐慌に陥ります。
この後、為替経済への変更期になります。

金本位制から浮動為替制度への変更は、各国で異なるタイミングで行われました。以下に、いくつかの主要な国の例を挙げてみます:

1. **アメリカ合衆国:** アメリカは1933年に一時的に金本位制を停止し、その後1971年に完全に放棄しました。この出来事は、ニクソン大統領によって「ニクソン・ショック」として知られています。

2. **イギリス:** イギリスは1931年に金本位制を放棄しました。この措置はスターリング危機として知られています。その後、イギリスは浮動為替制度に移行しました。

3. **フランス:** フランスは一時的に金本位制を放棄し、1958年に再び導入しましたが、その後1968年に再び金本位制を放棄しました。

4. **日本:** 日本は金本位制を放棄したのは1931年で、その後浮動為替制度に移行しました。

5. **西ドイツ:** 西ドイツは1951年に金本位制を放棄し、続いて浮動為替制度に移行しました。

これらは一部の国の例であり、他にも多くの国が異なる時期に金本位制から浮動為替制度への変更を行っています。移行の主な要因には、経済の変動、国際的な金融システムの変化、通貨の需要と供給の変化、貿易の拡大などが挙げられます。

ChatGPT

1929年の世界恐慌のあと、第1次世界大戦の戦勝国はこぞって金本位制を手放したのがわかります。
そしてフランスを除いて、基本的に今日まで為替制度に変わってます。

ギリシアの銀山開発

ペルシアとギリシャの関係はうまくいってましたが、
・ギリシャが新規に銀山開発したこと
・国境を接したこと

などから少しまずくなってきます。

ギリシャで銀の産出が増えました。
そしてギリシャで更に銀安になりました。
これをみたペルシアの商人は大事な金を売りまくったのです。

金本位制の国で金が枯渇する。
それはあってはならないことで、ペルシアはギリシアと喧嘩モードになります。
それがペルシア戦争です。
(そこまで大規模な軍事規模ではなかったらしい)

サラミスの海戦は、紀元前480年に古代ギリシャの都市国家アテナイとペルシア帝国との間で行われた歴史的な海戦です。この海戦は、ギリシャの自由を守り、ペルシア帝国の侵略を撃退する重要な戦闘の一環として知られています。

背景:
ペルシア帝国の王ダレイオス1世が紀元前490年にマラトンの戦いでアテナイを攻撃しましたが、ギリシャ連邦はこれを撃退しました。数年後、ダレイオス1世の後継者であるクセルクセス1世が再びギリシャ遠征を計画し、紀元前480年にペルシア軍がギリシャに侵攻しました。

サラミスの海戦:
サラミスの海戦は、ギリシャとペルシアの海軍がサラミス島の海域で対峙した戦いです。ペルシア帝国の海軍は数で優れていましたが、ギリシャ艦隊は戦術的な巧妙さとサラミスの狭い海域を利用して有利に戦いました。

アテナイの提督テミストクレス(Themistocles)は、ペルシア軍がサラミス海域に進出するよう仕向け、狭い海域での戦いでギリシャの機動力を活かしました。ペルシア軍の大艦隊が海域の狭さから有利に機能せず、ギリシャ軍はペルシアの船を撃破していきました。

結果:
サラミスの海戦はギリシャの勝利に終わり、ペルシア軍は大きな損害を被りました。この勝利により、ギリシャ諸都市はペルシア帝国の侵略から解放され、その後のプラタイアの戦いやミュカレーの戦いといった戦闘にも繋がり、最終的にギリシャはペルシア帝国の侵略を撃退することに成功しました。サラミスの海戦は、西洋史において重要な出来事の一つと見なされています。

ChatGPT

ちなみにギリシャは銀の産出国であったがために、軍事費の調達はうまくいったようです。

ペルシア戦争の産物

ペルシア戦争によって歴史を変えるものが生まれました。
それが「民主政治」です。
今の社会では当たり前です。

当時、戦争は貴族がするものでした。
そして国を守る貴族が政治をするのも当たり前でした。
しかし、軍事費はあっても戦う人がいないと勝てません。

そこで大帝国を前にしてアテネも一般市民を導入しました。
特に職なしの人たちを。(食えない人が軍に入るのは歴史の流れです

ペルシアを撃退した市民たちは自分たちにも「参政権」を求めます。
これが認められ、民主政治がスタートしました。

ここでもう1つ小話。
ペルシアを撃退したアテネ。
お金も手に入れたようです。
そこで揉めました。
民衆は配れと言います。当然でしょう

しかし、当時のアテネの政治家はこれを民衆に配らずに次のペルシアの侵攻に備えて「軍船を作る」ことを選びました。

そしてそれが10年後の再侵攻の際に役に立ちました。

政治家はポピュリズムに流れてはいけない。
長い目を持たないといけないというのはこういうことです。

ただ、民主政治というのは歴史的に見て50年しかもたないことがわかってます。
古代ギリシャもアメリカも戦後日本もそうです。

マケドニアの台頭

ギリシアは小さな国です。
森林も少ないです。
ペルシア戦争に備えて軍船をつくるにも木材が要ります。

その木材をギリシャに提供したのがのちにアレキサンダーを生む「マケドニア」でした。

ペルシア戦争後、ペルシアは周辺地域で解体され、弱体化していきます。
そして周辺地域の人たちが民主政治のあるギリシャに流れ込みました。
しかし、ギリシャは小さい国であるがゆえに住むところが限られてました。
そこで土地を持てない人(無産市民)が増えました。

そこからペロポネソス戦争などギリシャ内での争いが続き、疲弊していきます。

そこでギリシャに木材を売ってお金を得ていたマケドニアがギリシャの無産市民の受け皿となります。
そしてこの人たちが軍人となります。
繰り返しますが食えない人が軍に入るのです。

アレキサンダー大王の登場

有名なアレキサンダー大王の父であるフィリポス2世の治世で軍拡がなされました。
そしてついにペルシアに攻め込むぞ!となったときにフィリポス2世は暗殺されます。
しかし、跡を継いだアレキサンダーは予定通りペルシアを攻め、滅亡させます。

アレクサンダーの凄さにおいて
①ギリシャが疲弊していた
②ペルシア帝国も疲弊していた
が挙げられます。
まぁ早い話、歴史上に残る人物はタイミングがよかったのです。
おそらく同じくらい有能な人はもっといたと思います。
しかし、運やタイミングの問題なのでしょう。

黄金の国ジパング

日本は資源のない国といわれます。
しかし、金・銀・銅に関しては世界屈指です。

特に江戸時代初期
銀の産出は世界の50%を占めていました。

戦国時代から金山も豊富ですね。
近代でも別子銅山や足尾銅山が有名です。

先日、モンゴル帝国が資本主義を西洋に輸出したという話をしました。
銅銭経済だった女真族の国「金」国が中国北部を支配してました。
しかし、銅が取れずに困っていた。
そこで誕生したのが「手形取引」であり、「信用」という概念でした。

同様に日本の江戸時代に中華を抑えていた「清」も同様に銅不足でした。
清に銅を提供していたのは日本だったのです。
しかも揚げ足取りで通常レートの1.3倍ほどで売っていたのだとかw
日本の商人やるじゃん。

ってこんなこと歴史の講義では習わないですよね。
江戸時代の講義は江戸幕府の否定ですので。

ちなみに先日上記記事にて経済音痴だったと述べた新井白石
日本の鉱物(金・銀・銅)の輸出制限をかけました。
(この政策は正解)

この白石の政策により、清は困ってしまいました。
そこで自前で銅山開発に乗り出し、清朝末期には逆に銅を輸出するくらいの国になっていました。

そう、歴史とは流れです。
流れを知るのが大事であって、決して暗記教科ではないのです。

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