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アートとラップ、アート・ラップの再検討(Earl Sweatshirtとbilly woodsを例に)

はじめに

私たちの生きる現代が獲得したものは、全ての言動に対するやましさだった。
現代という「最新」の時代は、全ての時代にまして物質的な可能性が開かれるのと同時に、「最も経験した時代」として概念的な不可能性が現出する時代でもあった。

例えば思考と存在の統一の崩壊、動物倫理という破壊的な論理的正当性、自由意志が存在しないという事実の確認―そういった不可能さ、不条理が押し上げられ、現前されていくだけの時代。
しかしそれでも突き動かされなければならず、大きな物語を失いながら退屈と繰り返しという平和の暴力性と処世上の苦悩に悩まされ、より正義らしいものを選択するしかない時代。
つまり"自分の限界を避けることができず、さりとてそこに留まることもできない不可能性"をまざまざと見せつけられる時代。

そんな大きな苦悩の不在によってむしろ世界の病理を、ただ生きていくことの苦悩を掘り起こした現代を生きるにあたり、芸術を哲学的な営みだと根拠だてたアリストテレスからショーペンハウアー、ニーチェ、ハイデガーに至る西洋美学が解釈するところの、芸術が持つ本質や真実の提示性は煩わしく思われ、忌避されてきた。
いわゆるポリコレ的なものというよりも、世界の複雑さと劣悪さの表面化に伴って、そういったいわば存在論的な芸術観はますます肩身を狭くしていったように思われる。

ほとんど打破しえないほど高次で、かつ静かな葛藤のただ中にある私たちの神経を逆撫でしないように、アポロ的なヴェールで根底に渦巻く"途方もない不気味なもの"を覆う「心の安らぎ」という意味での表現が跋扈し、衛星無害な表現で満たされた。それが例えば「暴力」の内在に目を逸らし、表層的な「物」への憧れ、存在者の保持が戦争を産んだという事実に目を背けたまま。

根拠の届かぬ盲目的な意思、存在者の影に隠れる存在そのもの、つまり安心と思われてきたものを打ち砕く"不気味なもの"に出会う衝撃が芸術であった。
例えばランボーにおいて美、芸術は"苦々しく"、リルケにおいて"恐るべきもの"であった。
そういった芸術観は大衆にはもはや受け入れられない時代になった。

同時に感染症の流行も相まって、ソクラテス的合理主義、科学主義的楽天主義のナイーブさ(なぜ信じるのかという言語的に矛盾した命題を大真面目に考え出すに至るほどの)を無邪気にデーモンと断ずることのできぬ時代、"芸術を真理がおのれを存在せしめる最高の仕方"とは言えない時代にもなってしまった。

しかし、前期プラトンが神性や霊感を含みつつ合理的に説明出来ないものと高く評価し、後期プラトンが真理を顕さず、情緒にさえ役立たないとして低く評価された詩、芸術が、今日においては数多く暴かれる現実問題の不可能性への宙吊りの解答として表れうるということに自覚的なアーティストも少なからず残されている。

アート・ラップについて

Earl Sweatshirtは自身のキャリアの転換期となった大傑作「Some Rap Songs」の冒頭、作家で社会評論家James Baldwinの「The Artist's Struggle for Integrity」と題された公演をサンプリングし、"Imprecise words(曖昧な言葉)"と高らかに宣言する。
Earlが切り取ったこの言葉は、世界の複雑さとそれに伴う私たちの正義や正しさに対する疚しさ、現代人の矜恃を端的に示すと同時に、その公演で話されている内容、"言葉の背後に実在する何かに到達するために"、つまり存在者の影にある存在への探求という芸術家の使命を彼自らのうちに認識させるものであった。啓蒙化された合理的世界に模倣的態度による合理性のもと、非合理を浮かび上がらせるという力を働かせるのだ。

そんなEarl Sweatshirtを始め、インディーラップにおいて大きなムーブメントとなっている「アート・ラップ」という志向、ジャンルが存在する。

アート・ラップという表象はシカゴ生まれのラッパーR.A.P. Ferreiraが標榜した、そこに入るであろうアーティストの作品群に対してかなり後発のカテゴライズである。
彼はそのジャンルについて、通常「エクスペリメンタル・ラップ」や「アブストラクト」、「オルナタティブ」等々として括られるような"オリジナルであること"に立脚していると考えている。
そしてアート・ラップという表象の指示するものについて深く掘り下げていく前に、取り立ててまず話さなければならないのは、「アート・ラップ」という語に対するアート性とラップ性はどのようにあり、またどのように統合しうるのか、そしてそうカテゴライズすることがどういった意味を持つのか、ということである。

西洋美学におけるアート、ラップのアート性、その鑑賞者たることについて

まず彼らのアート性について再検討する際、私たちが広く共有している近代的な主観主義的芸術観、カントにおける"構想力と悟性の自由な戯れ"という芸術観を批判的に見つめなければならない。

プラトンから現代まで引き継がれる支配的な考え方として、芸術は欺瞞だとされた。
しかしアリストテレス以降多くの哲学者、美学者たちは他の学問に対して芸術が優位にある普遍性を高く評価し、そこに真実性を見た。
彼らが支持する芸術認知は近代的な主観的、自我的、想像的解釈とは離れたアリストテレス〜ハイデガー的理解、客観性において本質を見ること、つまり普遍的な真実性の結晶化、真実性を存在者としてうち立てることが芸術の本質であり、その結果が美として私たちに現れるというものである。
つまり個体性や美に根拠を持つ芸術観に懐疑的で、むしろ個人が破壊され、広く悲しみと喜びが一元化していき、秘匿された根源的ななにかの提示に美が現れるといった芸術理解である。
もちろんどちらの立場をとるにしてもその恣意性からは逃れられないが、Earl Sweatshirtの先述の宣言に代表されるアート・ラップという表象は、この立場を選びとっている。

しかしその意味で考えた時、広く「ラップ」はどうだろうか。
一人称の音楽だとされる(ここにもいくつか反論があるが)個別具体の一様を語ることにおいて、普遍性を欠くただ虚構性を交えた「経験としての真実」の提示に過ぎないのではないか。
例えばギャングスタ・ラップは「リアル」を追求する過程で現実への帰属性を備えたが、普遍性はどこに担保されるのだろうか。

ここにおいてアート・ラップは、個別具体性を保持しながら、抽象性と迫真性によって個々の体験に孤立させず、普遍性を欠くこともなく、必然性、蓋然性を保ちつつ人間存在への具体性を示すことによってアート的でありうるのだ。

今日のアート、つまり現代アートとされるものもそういった認知に基づいており、存在論的な、現代アート的なアート・ラップという表象の指示する作品を見ることは、鑑賞者の存在が必要不可欠であり、もはや"鑑賞者は芸術家でなければならない"のだ。
その意味で芸術作品は完全に開かれており、受け手による完成を待たなければならない。私たちは、そうあらねばならない。
そして今日において芸術家になることを強いられた私たちは、広くラップのアート性について再び考えなければならない。

存在論的芸術観において主観、個体性は断ぜられるが、声なき者に声を、光なきところに光をというHiphop概念は今日のそれと形式は一致しており、例えばパンチラインという考え方やライミングといった制約が生み出す抽象性を足がかりに個体性を押し広げ、深い場所に眼差しを向ける役割は私たちが担うべきだ。そうしてラップは普遍的な真実性を得ていく。
またそうすることは自分好みの文化表象によって現前せられるもののみにアプローチをかけるという疚しさと、今日本に住んでいるという疎外から解放されうる。

これは単なる現代アート観のみならず、東洋哲学や配分的正義を否定するイエスからロールズに至るまでの思想体系にも似ていて、つまりアメリカ的な個体性に伴う「自由と責任」、能力主義的なものを放棄しなければなしえない。
そのためHiphopは決して近代的な主観的芸術認知にのみ回収される体系ではないように思われる。
ただそれを認識の場においてだけでなく、創作の場において行っているのがアート・ラップという志向なのだ。

アート・ラップのラップ性、ブラックにおけるアート、音楽芸術について

ここまでアート・ラップのアート性について触れたが、アート・ラップについて考える上で重要なのはむしろそのラップ性がどこにあるのか、ということである。

まず目につくのは、彼らが大きなコンペティション性を放棄しているという点である。
ラップはコンペティションによって弁証的に高め合うこと、つまり個を語りながら場において発生するというのは多くのラッパーが頷く本質的な部分である。
その意味でオリジナリティの希求は孤立とそれに伴う生ぬるい「みんな違ってみんな良い」を再現してしまう危険がある。
そこであるのがアート・ラップというラベルである。それはブラック-ブラックのアプローチを可能にし、同じ志向を持つアーティストが弁償的に高め合うこと、コンペティションを可能にしたのだ。

そして現代アート的に芸術を鑑賞者が見いだし、作り上げたように、ラップ性、つまりコンペティション性、弁証法をも私たちが関わりあって見出そうという野心をアート・ラップという表象は燃え上がらせるのである。
それ故にアート・ラップのアーティストたちは、リスナーの解釈や批評を作品のうちに包含することを認め、開かれた芸術を現前せしめ、ラッパーとリスナーとの間にも場が生まれるという点において、よりラップ的でさえありうるのだ。

そしてなにより彼らのラップ性を最も強く証拠立てるのは、ブラックであることへの情熱とHiphopへの想いだろう。
ちょうどEarl Sweatshirt「Sick!」の表題作においてナイジェリアの作曲家、演奏家であるFela Kutiのドキュメンタリー映画「Music is the Weapon」のインタビューを引用しており、"芸術とは、ある民族が発展しているとき、あるいは発展途上であるときに起きていることです。だから、アフリカについて言う限りでは、音楽は楽しむためのものであってはいけないと思うんです。"
彼らはアートを変革の手段として用いており、多くのラッパーもそれを掲げているだろう。

芸術が、とりわけ「音楽芸術」が変革の武器になりうることには、「音楽芸術」というものが他の芸術に比べ、"概念なしの全くの感覚によって一層内側を揺り動かすもの"であり、まるで話し言葉の抑揚のように情感的な理念を伝達するという力があることを認識しなければならない。
ゆえにカントは「音楽芸術」それ自体が教えるもの、啓蒙性は少なく、「享楽」に役立ち、理性的には他の芸術に及ばぬところではあるが、「快適さ」の点において最高の位置にあると述べた。
これは多くの人が認めるところであろうが、今日の詩を内包した形での音楽は、最もエンタメ的な芸術でありうるのと同時に、だからこそ、真実性や革命可能性を私たちに緩やかに提示することが可能になる。
音が文字通り耳を塞ぎたくなるような真実性や革命可能性、理性的な教化を提供せず、「快適さ」を提供することは、「詩的芸術」の変革可能性を拡大させることに繋がるのだ。
そしてそれは、Hiphopのトレンドや大衆に迎合せず、音のディテールにこだわり続けるアート・ラップにおけるラップ性に他ならないだろう。

ここに付して、例えば無内容なリリックと激しくそれのみでありうるようなビートを駆使したPlayboi CartiやLil Uzi Vertに代表されるマンブル・ラップは徹底的に大衆迎合的であり、無が熱狂を生み出しうるほど不可能性が現れた、諦観に満ちた享楽主義的時代に完璧に合致した。本質的な美(悲劇と不可能性、無)が、迎合的な美に変わりつつある時代なのだ。
しかし彼らは教化なしに音楽的地位を向上させることによって、黒人それ自体の地位を高める物質的な変革可能性にラップ性を見出したと言って良いだろう。
つまり物質主義的であることはもちろん、大衆迎合的であることも全くカウンターとしてのラップ性と相反することはないのである。

アートとラップの両立、社会と伝統主義、新しさとオリジナリティについて

このアート性とラップ性を共に検討したところで、さらなる疑念が立ち上ってくる。
それは、ラップの強烈な伝統主義や社会的なものとアートの「新しさ」、彼らがいうオリジナリティの両立がどう可能であるのかという疑念である。
これについてはまず「新しさ」とオリジナリティについていくつか語らなければならない。

事実芸術において前衛は行き詰まり、「変質」させる情熱は燃え尽きていたし、芸術終末論は多く語られるところではある。
ラップにおいても復興と越境に「新しさ」を見出し、もしくはジャンルという力学(詳しくは後述するが)や流行に沿いながらの製作が行われているきらいは否定しがたいものになっている。
André 3000がいうように、"Hiphopは(ヒップホップという言葉の語源からわかるように)まずはヒップ(流行の最先端)である必要がある。"のはそうかもしれない。
しかし、現代においてHiphopが流行の最先端であるとしても、それが流行を形作る(主にサウンドにおける)「新しさ」やオリジナリティを希求する形であるかといえば、そうはっきりとは言えないだろう。

このことについてアート・ラップの一員であろうデトロイトのラッパーQuelle Chrisはこう語っている。
"90年代を振り返ると、(それぞれが)何か違うことをやっているように聞こえる。
素晴らしいヒップホップばかりだった。すべてが違っていて、違うことが普通だった。
自分自身であることがドープなことだった。でもいま自分らしくあることは、むしろ異常なことなんだ。(ヒップホップは)以前よりはるかに企業の機械のようになったんだ。"
このように、オリジナリティやコンセプチュアルなものは没せられているという認識からは逃れられないかもしれない。

しかしラップのような伝統主義と「新しさ」については言っておかなければならないことがいくつかある。
まずラップが近現代芸術において脅迫的な新しさ、アヴァンギャルド性に迎合しなければならないという観点には一ヘッズとして当然の異論がある。
その上で、一般的な学問体系とは異なり、連続性を断ち切ることが「新しさ」とされる芸術においても、歴史や伝統等の連続性を前提にしている。そしてそれを評することにも、連続性の系譜において相対的に見ることしかありえないといういわば独創性の逆説が成り立つ。
しかし、「新しさ」はその連続性の系譜に単に組み込まれる訳ではなく、連続性の系譜の秩序を変容させ、書き換えられる。つまり現在と過去が相互に作用するのだ。

ゆえに自我や主観的なもの、つまり個を称揚するロマン主義の拡張において伝統は否定されているのであって、個を社会に先立たせるある種ユートピア的ロマン主義を批判的に見つめれば、決して伝統主義と「新しさ」を含有する芸術表現は対立しないのである。
むしろ先行者と将来のアーティストとの共同制作ともいえる芸術において、伝統主義や社会的なものは進歩主義的かつ前衛でありうるのだ。
つまりアウトサイダーの実現不可能性にこそ、ラップの芸術性が生まれるのだろう。
(ここに付して、「大地」と「世界」の概念にラップの土着的な閉鎖性と雄大さ、閉ざされたものと開かれたものとの争いの間隙に結晶化された芸術を見るのだが、前提を多く必要とするため今回この議論は見送る。)

また今日における芸術史は、"進歩のパラダイムによって測りうるような種類の将来を持たず、むしろ個々の継起的な営みに分断される"ものであり、現代ほど多元的な営みを総和として大きく歴史的に語りうる芸術が終焉したという終末論は確かにその通りであるが、こういった意味での「新しさ」が現代の芸術のアヴァンギャルド性の指示するところである。

これらを総合的に俯瞰した時、アート・ラップというムーブメントに対する表象、カテゴライズは、広く「資本」や「人気」等の商業的ニュアンス、時に人を惹きつけるマチズモや過剰な暴力の力なしに作品にアクセスする妥当性と強制力を与えていることが分かる。

そしてそのカテゴライズを自らの力で創造し、獲得したという点においても大いに価値がある。
なぜなら黒人音楽はどこまで行ってもレイス・ミュージックとして扱われ、西洋の視点で不気味なストレンジャーに対する解釈道具として、ジャズやR&Bといった恣意的で時に侮蔑的なラベルを貼られてきたという歴史があるからだ。

それを認識しながら今回のように西洋的な価値観を中心にラップを物語ることについては方法論としていささか不躾ではあるが、アフリカン・アメリカン側の文化が西洋が作り上げた表象に対して巧みに解釈論的なアプローチをとっていたという点も、文化の力学の一つとして認めざるをえないだろう。
そういった倒錯しうる複雑な関係性も、例えばアート・ラップの文脈にあるジンバブエ生まれのラッパー、billy woodsが教えてくれる。

さて、ここまでアート・ラップの概念を追ってきたが、最後に具体的なラッパーについてもその観点から触れておきたい。
今回は私が特にお気に入りのラッパーでもあるEarl Sweatshirtとbilly woodsについて彼らの作品の趣向と生い立ちを、また彼らが今年リリースした2つの作品について簡単に紹介しよう。

Earl Sweatshirt

Earl SweatshirtはUCLA法学部教授の母親と、南アフリカの世界的に著名な詩人、政治活動家である父親、Keorapetse Kgositsileから生まれた異色のラッパー、プロデューサーであり、リリシストであることを宿命づけられたサラブレッドだ。
事実Keorapetseの友人であるアメリカの詩人、Sterling Plumppはまだ赤ん坊だったEarlに向けて、"銃撃の死亡記事がお前を迎えてくれる。その殉教者の血のすきが、昇ってくる太陽に溝を掘る。(中略) お前は支配以外のことをするつもりはないんだろう?"と詩を送っている。

そんなEarlはTyler, The Creatorに見出され、わずか16歳でセルフタイトルのデビューミックステープ「Earl」をリリースした。
それはTylerの、そしてSterling Plumppの呼びかけに呼応するように幕を開け、10代らしさ全開のユーモラスでインモラル、しかし詩的で示唆的なリリックに歪んだ電子音で不吉に仕上げられた。
これはいわゆる「ホラーコア」や「アシッド・ラップ」といったOdd Futureが得意とする方法に則っており、徹底的な悪意と暴力は、シンセサイザーで構築された病んだ世界に溶け込み、まるでそれが正当であるかのように振舞った。

そんな彼の内面を表した挑発的で破壊的な叫びが表面化しかけた時、彼は母親にサモアの更生施設に入れられ、物理的にも精神的にも引き裂かれ、誠実な世界認知と自己認知による燃えたぎる憤怒は、ニヒルで内向的なものに変わっていった。

そして3年後、"カムバック作品としては衝撃的なほど偏狭で控えめな作品"と評されたアルバム「Doris」をリリースする。
それは"不吉な予感"と自分の人生に真正面から向き合った結果であり、熱狂や破壊で覆い隠すことなく、ノイズ混じりに、そして静かに吐き出された。
しかしそれは諦観や抑鬱に終わる作品ではなく、Earlは正統派ブーンバップやピアノストリングスに加え、多様な引用や暗喩、潜在的なライムスキームを、"正しい表現を模索しながら"、"若く、黒く、疲れ果てた、霞んだビジョンで夜を彷徨い"続けるのだった。

続けてリリースされた「I Don't Like Shit, I Don't Go Outside」は簡潔にまとめられた作品であり、外的にも内的にもシニカルで侮蔑的な態度を持ち続けながら、孤独で陰鬱でありながら、今までにない表現に対する正当な自信を持ち合わせていた。
"これは自分に関する論文なんだ"と語るEarlは、自分自身をより無邪気に紡ぎ出したように思える。

そして先述のように、Earlは続く「Some Rap Songs」において明らかに趣向を変えた。それは絶大な批評的評価を与えられ、キャリアを決定づけた。

まず言えるのはサウンドに対する情熱だろう。"アヴァンギャルド・ジャズとHiphopの境界線を曖昧にするもの"と評された今作だが、Earlのサウンドはむしろ境界線を広げるわけでも越境するわけでもなく、むしろ無感情な解釈的カテゴライズのうちに収納されて、分断されてしまう"現実のコンセンサス"を破壊しようとし、無意識のうちに埋葬されてしまったものを掘り起こそうとする野心に起因していた。
つまりEarlが語るところのジャズといった"コピーされたもの、過剰生産のもの、過剰に批判されたもの、名称の犠牲者"を受け止め、広く黒人の表現に、"ラップの定義に立ち返ろうとする"情熱だった。

Earlはこの作品を"ブラックのためのアルバム"としたが、それはまさに"上書きの犠牲者である黒人"の本質を探求しようとする意思が、過剰に上書きされたジャズやHiphopといった黒人の表現の「存在」を掘り起こそうとするサウンドに現れた簡潔なプロダクトである。

ここで、本質、つまり"不気味で曖昧なもの"を存在させるにあたって、深く自分自身にアクセスするにあたって、知りえない場所、不可能性に気づき、より曖昧で深遠な言表をせざるを得なくなった
しかし、"このクソッタレにロマンを持たない自由がここにある。"と宣言し、世界の真実と自分自身を誠実に見つめるようとすることは決してやめなかった。

またEarlは"この作品は自分よりも大きな存在であることを証明するために時間を費やしたんだ"と語るように、Earlは作品の中に自分を見出していく。そして自分自身を真相に出会わせ、変質させる。
そんな無意識的なものや根源的なものに向き合う中で、客観たろうとする試みの中で、潜在的にあった可能的なものを実際的に可能にすることで、ユング〜現代思想の思想家がいうように作品が心的要因となって芸術家を作り上げるという倒錯も起こりうるのである。ここに繋がって、自我という意識的な領域から、自己という無意識的なものを包含したものを見つめようとする場合、さらに根源的なアプローチに、ある種客観的な問いに、霧がかった解答が生まれうるのだ。

さらにこの作品は自我を捨てた探求者、創造的「天才」の仕事でありうるように、穏やかで冷静なものになっている。
Earlの怒りは表層的なものから逃れ、さらに根源的なものに向けられる。
例えば今作はEarlの父親や叔父の死後リリースされたものであるが、Earlの怒りは"この奇妙な体験が自分の身に起こっていること"、自分だけが"泥の中を散歩"していること、"選ばれてある"ことだった。
その根拠はつまり自分を含めた世界がかくあることそれ自体に対する、訳の分からぬ根源的なものに対する眼差しに他ならない。

そんな不条理でどうしようもない根源的な深淵と恐ろしさを見つめながら、様々なものを喪失したEarlだが、この作品では父親の「Anguish Longer Than Sorrow(悲しみよりも永い苦悩)」と題された詩を引用し、激しくむき出しのノイズと調子の外れたピアノサンプルに乗せて父親に餞を送り、叔父であるアフリカン・ジャズの伝説的トランペッターHugh Masekelaのサンプリングで華やかに終わらせる。

それらによってなんの理由もなく生に投げ出され、根源に渦巻く不気味なものに自由を奪われながら、なにか得体の知れぬものに懊悩しながら、なんの理由もなく葬り去られる生の真実を結晶化し、父親や叔父の格闘をも不滅のものにしたのだった。

その流れを引き継ぎながらリリースされた「Feet of Clay」というEPは断片的でありながらより物語的であり、ジャズやR&Bといった黒人の表現を荒々しくアンバランスに歪ませながら製作された。

Earl Sweatshirt「Sick!」

そしてついに今年、父親となったEarlは「Sick!」と題された4th アルバムをリリースした。
まず今作のタイトルは当然今日のパンデミックが意識されており、それによって浮き彫りになった真実を語り、またそれを言葉遊びの道具に巧みに利用する。
ある存在者が真実の発見装置的に働くこと、つまりEarlにとってパンデミックは、芸術だった。
また「Some Rap Songs」や「Feet of Clay」とは異なり、クリーンにミキシングされた音像とリリックには希望的なものを感じ取れる。
例えばEarlの友人であったMac Millerの楽曲「2009」を示唆しているようにもとれる「2010」という楽曲では、"ギリギリのところで成功した、神に感謝だ"、"俺たちは再び燃え盛る炎を手に入れた。戦いの方向を変えよう。苦境と巨大な損失に打ち勝とう。"などと"カトリック教徒の尻をノコギリで突き刺すために地上に送られた"、"ねじ曲がっていて、狂った牛より病んでいる"と言っていた16歳のEarlとは別人である。
さらにアルバム「I Don't Like Shit, I Don't Go Outside」、パンデミックを対照させ、"外を歩けば、それはまだ華やかだった"と明るくバースを締めくくる。

しかしそれは、"自分自身をコンフォートゾーンの外に出したかった"と語るように、Earlにおけるコンフォートゾーン、パンデミックによってさらに表面化されたニヒルで陰鬱なものを意図的に少なくし、居心地の悪い希望に安住しようとした結果だった。

ただ今作においても徹底して真実を見つめることは貫かれており、先述のようにパンデミックというテーマは疎外や格差に加え、嘘と真実というアートにおいて決定的なテーマを内在していた。

また今作においてはサウンドや詩的表現に対する野心的なものは「Some Rap Songs」に比べるとそれほど見られないかもしれないが、ラップに対する愛が溢れている。
ソウルサンプリングから808を唸らすトラップビートまでサウンドは散漫でありつつも、洗練されている。

今作は楽曲のタイトルにもパンデミックを暗喩しながらの多義的な表現や引用が散見されるが、例えば「Lye」という楽曲では嘘(lie)と髪をストレートにする薬品(lye)に絡めて真実を見つめる大切さを説きつつ黒人をエンパワメントしている。
これは真実性と普遍性という意味でのアート性と、啓蒙や革命という意味でのラップ性の上でギリギリのバランスを保っているEarlを表すような楽曲だっただろう。

アリストテレスから理解されているように、悲劇はより世界に向き合った、より真実性を持った響きなのであるが、"終焉の酒に乾杯できないでいる"Earlは、ちょうど今作のように希望を見出しうる、"瞬きする間に変わってしまう人生"に自己の本質を、どこにも安住できぬ不可能性を逆説的に表現するのであった。

また"より創造的な人間になるために、人生を変えなければならない"と語るEarlは、そのことを"現実に対する新たな視点を得ること"と表現している。
"未だそれを見つけ出している最中で、それは生涯続くだろう。"としながら、"今自分にできることは、生きることだけだ。"と語る。
Earlにとって生きることは創造であり、創造とは真実を見つめることであった。
無であり、不可能である"私"に不滅のものを、可能なものを打ち立てようとした。

Earl Sweatshirtはこれからも自己を、深淵を見つめ、また私たちに見つめさせることによって、美しさと出会わせてくれるだろう。

billy woods

billy woodsはジンバブエ解放戦争に参加し、マルクス主義革命家で作家でもある父親と、ジャマイカ出身の英文学教授でフェミニスト作家の母親との間に生まれた。
またワシントンDCで生まれ、ジンバブエで幼少期を過ごし、父親の死後、ニューヨークで多くを過ごしたが、ワシントンDCをフッドと主張する複雑な生い立ちを持つラッパーだ。

"両親が開く晩餐会には学者や革命家が集まり、その人たちになにか面白いことを言えば、両親が私を誇りに思う。そんなことが普通だと思っていた。"とwoodsは幼少期を回顧する。

新聞を読んでそのトピックについて話したり、政治的なものと密接な関係にあったwoodsだったが、Hiphopに興味を持ったのは父親が亡くなり、アメリカに戻った時だ。

母親に映画「Do The Right Thing」を見せられ、Public Enemy 「Fight The Power」のMVを見て、自分の金で買う初めての音楽作品として、「it Takes A Nation of Millions To Hold Us Back」を買った。

またwoodsは全米最高峰の黒人大学とされるハワード大学在学中に出会った社会正義や左翼政治に傾倒していたユダヤ人のガールフレンドや、その紹介で知り合った友人にも影響され、少しずつラップにのめり込んで行き、小学校時代から詩のようなものを多く書いていたwoodsだったが、1997年、19歳の時コインランドリーで初めて「最初の本当の韻」を踏んだ。
そこから2003年に自身のレーベル、Backwoodz Studiozを立ち上げ、ファーストアルバム「Camouflage」をリリースした。

当時Company Flowの影響でアンダーグラウンドシーンに光が当たり始め、その副産物としてwoodsは見出された。
それについてもwoodsは自身を"メジャーの分配"とも理解している。
woodsの言うように、メジャーの影に隠れたアンダーグラウンドというよりも、メジャーが月光となってアンダーグラウンドに光が当たる、という理解の方が事実に近いだろう。
ゆえにメジャーたることに対して、Hiphopのコンペティションそのままに敬意を持つことは重要だ。

そんなwoodsが存在を広く認知され、脚光を浴び始めたのは2012年、ロバート・ムガベをアルバムジャケットに、フィデル・カストロの演説を題名に据えた「History Will Absolve Me」のリリース後のことだ。

「History Will Absolve Me」は、社会が許さなかったカストロやムガベをどう扱うかというアイデアから連想されたテーマで製作されており、つまり物事の二面性を見出し、二項対立を破壊し、陰に隠れた真実を見出すようなテーマを、woodsはキャリアを一貫して持ち続けることになる。

アフォリズム的詩人であるEarlに対して、woodsは自身の触れてきた本や映画の過剰な引用を駆使し、シュルレアリスムでアフリカ文学の役割を担うような物語的詩人だった。

woodsの物語は現実の事件や出来事を暗喩しながら、自身を写し取った「ある誰か」に憑依し、「ある経験」をサウンドとしても言表にしてもシームレスに語る。
この様々な視点を統合したところに彼自身の幻想世界が形成され、それが現実に向けて境界線を伸ばしていく。かといってメタ的な視点はほとんど無く、woodsと「ある誰か」の境界すら曖昧にする。

woodsの創作は個人的なものと非個人的なものとの統合にある。(存在論的美学ではこの個人的なものを高尚にすることはない。)
俯瞰した歴史的な情景から街の片隅まで視点を動かし、そしてそれは数多の引用によって多くの目線を織り成す。
それはHiphop的な一人称、エゴイスティックなものを批判的に見ているからだろう。それは作品の内部でも行われており、自身の力強く唸るバースに批判的な考えをてもなくユーモラスに引用したりする。
まさにwoodsが自身を評するように、"笑うのが好きで、真面目でちょっと変なやつ"なのかもしれない。

その意味でwoodsの作品は完璧に開かれており、"チェーホフの銃の扱いを引用した"やら"身内ネタがあると良いね"などと語ったように偶然性を内包させ、芸術作品の独立と批評の内在を認める。
あるインタビューでは、"アートはそれ自体で人生を歩む。芸術家が意図しなかった意味が芸術の中に存在することがあるが、それは問題の芸術作品の読み方として無効になるわけではない。
批評的な分析には確かに私が意図していないことが含まれることがある。ただ、それが本当に馬鹿げたものでなければいいのだが。"と語っている。
ゆえにwoodsの作品を読み解くにあたっては、ノンモラルを嚥下するか創作するか、という現代アート的段階が存在するのである。

そんな混沌とした幻想とブラックであることの情熱、そして"俺はお前らの模造プレミア・ビートCDで木をへし折るんだ。お前らは90年代のためにならない、"ともラップしているように、それらと音楽的前衛の統合を土台に持つラップを展開していくのである。

「History Will Absolve Me」はヘビーで擦り切れるようなビートから過剰なシンセサイザーを鳴らすビートを中心に、「ダックハント」をサンプリングしたユニークなビート、R&B調のボーカルをサンプリングしたソウルフルなビートまで多様で独特であり、そこに異様な強度を持ったwoodsのラップが乗る。

またそこで語られるのはアフリカ-ヨーロッパのシステムや音楽業界、ラップシーンについてである。例えば「Crocodile Tears」の"32小節で強盗や隣人を殺す方法、それでも神に救ってくれと頼む度胸がある"というギャングスタ・ラップを皮肉ったラインや"唯一の選択肢、司法取引は辞書にない"といったwoodsの妥協しない高い意識を切り取ったラインは今作のハイライトとなった。

また「The Man Who Would Be King」ではwoodsの中心的テーマでもあるポストコロニアリズムが反映されているが、"クリスチャンの義務は決して終わらない"や"白人の墓場と呼ばれたアフリカ"などと白人側の負担を強調するようなラインが多くあり、これも単一的なイデオロギーに終わらせないwoodsの包括的正義を持った視点が現れており、また"哀れな黒人を吊るした時、私はある種の安堵を感じた"と自由と革命への情熱も見てとれる。

続けてElucidとのデュオ、Armand Hammerとしての活動を続けていく中で、リリックと音楽に対する方法を維持したまま進化させ、軽く自由になったが、より切実で多様なビートを鳴らす「Dour Candy」、「Today, I Wrote Nothing」をリリースする。
これらはwoodsがアンダーグラウンドシーンを引っ張っていく覚悟と、行き過ぎたシーンを中庸に引き戻そうとするような、つまり二項対立のようなものを破壊する意識に裏付けられた動きだった。

続くBlockheadとの共作「Known Unknown」は全てに対し批判的だが、核心をついており、シニカルになりえず、あえて陳腐にされたコーラスが懐かしく響くほどであった。過ぎ去ったはずの時代に生きる人々を表現し、結論を提示しない。それが「Known Unknown」であった。このタイトルにも真実を探求する意思が受けてとれる。

そして2019年にリリースされたKenny Segalとの共作、「Hiding Place」は多くの批評的評価を与えられた。
これは彼の転換期といえるほど内向的な作品であり、匿名性を維持したアーティスト像を破壊するような恐れや怒り、諦めや死のイメージが強く現れていた。しかしそれは驚くほど外的なものと絡められており、歴史からwoodsへ、woodsから歴史へとアクセス可能なほどだ。
woodsは今作で言葉や歴史、文化のみならず、自身の「Hiding Place」を、つまり根源の不気味なものを探求するのである。

陰鬱で個人的なものが語られるこの作品だが、woodsの批判的な視点は貫かれており、「Spider Hole」では錆び付いてぼやけた街の片隅の情景を語りながら、フックで"カーネギーホールでオーケストラと一緒のNasを見たくはない。庶民の味方じゃないお前らとは死んでも付き合えない"とスピットする。

そんな不吉で切迫したムードが漂うこの作品は、アウトロの「Red Dust」でカタルシスと円熟を迎える。
1stバースではHiphopの現状を物語的に語り、2ndバースではまるで恋愛のようにロマンチックに、他のラッパーを殺そうとする、コンペティションに身を乗り出す覚悟を固める様子をユーモラスに語る。
フックでは
"それは暑さじゃない、埃だ
それは金じゃない、それは襲撃だ
それはウィードじゃない、それは松葉づえだ
それは欲じゃない、それは十分ではない"
と力強くラップする。
コカインや虐殺によって赤く染まる砂漠の粉塵、強盗という行為による感情の高まり、ウィードで一日をやり過ごすこと、いつまで経っても満たされないこと、そんな感情とエンパワメントを、woodsらしい抽象性を持って表現するのである。

そこからペンシルベニア出身のミュージシャン、アクティビストのMoor Motherとのジョイントアルバム「Barass」をリリースし、これも幻想的な雰囲気に植民地支配の痛みを語りつつ民族意識をより高めた作品となった。

billy woods「Aethiopes」

そして今年リリースされたPreservationとの共作「Aethiopes」はキャリアの中で最も批評的評価を与えられた作品となった。
woodsが"コンセプトとして最も幅広く、これまで取り組んだことのないような複雑なアイデアを盛り込んだアルバムだ"と証言するように、多様な視点を組み込んだ今作の全てを検討するには、本が一冊出来上がってしまう。
サウンドはタイトルやコンセプトにちなんで皆どこか民族的なサウンドである。

またwoodsは今作において現実おけるものとアイデアにおけるものとを対比させる。
例えばwoodsにとって"ヨーロピアンが黒人とはなにか決めた"という事実認識を持った上で、ブラックたることに対するアイデアを提示するように。

今作は聞き慣れない固有名詞と(主に土着的な)古今東西の文学作品と映画を中心とした芸術表現を暗喩に用い、時に卑近で鮮明なイメージを、また時に壮大で抽象的なイメージを想起させながら、その背景認知を私たちに要求する。

Preservationと綿密な打ち合わせの上で製作された今作はサウンドとリリックが相互に作用し、レイスミュージックに回収されないだけの複雑さを提示している。それに則って"時間の均一化"を試みながら、アバンギャルドを追求している。
また映画の中のセリフを切り取って自身を語らせ、全体の構成として他者性を重んじており、主観的なものを排除するきらいさえ感じる。
woodsは徹底的にビートに語らせるのであるが、それを覆い、サウンドを錯綜した世界を根拠づけるようにあらしめるほどのリリシズムを徹底する。

イントロの「Asylum」、つまり政治亡命を意味する楽曲では、ピアノを不吉に響かせ、民族調のコーラスを挿入し、"Mengistu Haile Mariamは私の隣人であると思う"とつぶやく。
Mengistu Haile Mariamはエチオピアの社会主義政権を率い、その後woodsが幼少期を過ごしたジンバブエに亡命した。
そこにかけて1stバースでは幼少期を鮮明なイメージで物語的に回顧し、2ndバースではMengistuの視点で飢饉や虐殺の歴史を示唆する抽象的な物語が始まる。またその意図は、後々明かされることになる。

続けてPreservationが各国のサウンドを探し回って手に入れた"不協和音とジャマイカンな音"が折り重なったビートの上で、シネマティックな視点で宇宙から一人の男の憂鬱に移行しながら権力構造を皮肉る「No Hard Feeling」。
反対に農地分配からマクロな視点に展開していき、"難破したヨーロピアンはウイルスと一緒に泳いでいる。神の精液のように発射される。Fuck the Worldとパックは叫んでいる"と今作で最も分かりやすいであろう超絶リリシズムを披露する「Wherves」と続く。
まずこのラインはアフリカを支配しに来たヨーロピアンが文字通りウイルス、そしてアフリカを「野蛮で未開の地」とする西洋的な価値観を伝播させていることを表していると解釈出来る。(ジンバブエにおいてもそんな価値観によって、多くの文明や遺跡が破壊された。)
それはまるで精子のように海を泳ぎ、神が知性と人間性を与えるかのような認知に基づいたヨーロピアンの価値観が反映されている。
ただウイルスも植民地支配の歴史もwoodsの苦悩も2PACの格闘も、全ては神、全能者の精液に原因は求められる。
そんな創造物としての世界に、2PACのニヒリズムを借用し、Fuckと叫んでいるのだ。
(woodsにとって往々にして神は批判の対象だが、聖書を始め様々な経典を引用し、ある時においては神を崇めさえする。)

そんな植民地支配を正当化するようなヨーロッパ人の認知を婉曲に批判する「Sauvage」、泥沼に足を取られるように資本主義に食い尽くされる"私"が、大嵐(国外取引)で救われるという歴史を比喩的に倒錯させた「The Doldrums」、民族と宗教と神と死に対するアイデアをマイクリレーしていくような「NYNEX」に、そのテーマを引き継ぎながら都合の良く利用されたトランスレイシャリズムを皮肉りつつ、自身のスピリチュアルをラップそれ自体に託すようなQuelle Chrisのバースに繋ぐ「Christine」、皮肉めいたアイデア(NOI内の政治的な動きから連想させながら)をもはや捉えどころのないほど婉曲に語る「Heavy Water」と、民族意識から拡張されたアイデアを途方もないほどの抽象性で紡ぎ続ける。

そして続く「Haarlem」は今作のリードシングルだろう。
開幕"パーム油の中を泳いでいる"と自身とブラックコミュニティの実情を表し、
"黒人の王、俺は人の心臓を食べる
俺は物事を崩壊させ、車がガレージで錆びついている
庭には野生のグラナディラ、つるが登り、空き巣に入られた
屋根は崩れ落ちたが、神々は星で満ちている
俺は暗闇の中で泳いだ、太陽は逃げ、月は大きい"と植民地支配側の視点で時間の経過が写真のように切り取られながら、シームレスに黒人の目線に切り替わっていく。(一応の情報として、このラインにも3つほど小説と映画の情景の引用がある。)

そこから
"切り刻んで燃やせ、過去は決して遠くない
ぶつ切りにされた腕、切り落とされた手を伸ばすがスペアはない
バンドは 「Those Were The Days 」を演奏し、俺は彼らが吊るされるのを見ていた。
俺はスタジアムのスタンドでred redを食べた"と展開していく。
プランテーションで行われた焼畑農業において、ノルマを達成しない者は実際に腕や手を切り落とすペナルティが与えられた。
今日では資本主義に支配され、まるで腕や手を切り落とされた状態で生きていかなければならない。ゆえにそんな"過去は決して遠くない"のだ。

また「Those Were The Days」は1969年のクリスマスの日、赤道ギニアで起きた反乱因子の処刑の際、実際にかかっていたそうだ。
そんな歴史が現代においては資本主義の犠牲と、ブラック-ブラックの犠牲に移り変わるようにして存在する。
しかしそれに対してwoodsはred redというパーム油で煮た豆料理を食べながら見ていることしかできない。ここは冒頭で示されたように"パーム油の中を泳いでいた"woodsや黒人コミュニティにかかって、woodsのふつふつと煮えたぎる憤怒と悲哀があえて無機質に描かれている。

2ndバースではオランダの街、Haarlemに見え隠れする支配の痕跡を辿りながら、"あなたの過ごした日々は綺麗にひとつにまとめられた"と個の人間性を埋没させた無感情な歴史認知に皮肉を向けてバースを締めくくる。

ここで今作において全編を通して引用されている「Kongi's Harvest」というナイジェリアの戯曲、映画が挿入され、
"国家の意志は至高である
運命は私たちの手に国家の意志を託した"
と独裁者の言葉が繰り返される。

続けてビートはけたたましいピアノの不協和に変わり、woodsの目線で悲痛な「黒人」が語られながら幕を閉じる。

さらにフランスにおける奴隷制に合わせて資本主義による搾取を検討し、「アメリカン・ドリーム」の欺瞞を暴く「Versailles」。
続く「Protoevangelium」は1stバースでラップゲームと音楽業界に対する意見を表明し、2ndバースでは死のビジョンを提示しながら、それにあたって3つの願いを叶えてくれるという寓話を挿入する。
woodsは過去を振り返り、生きているうちに感謝祭(休日)が欲しい、泣いていた叔母さんを抱きしめたいと願う。
そして
"俺は最後に立ち止まり、歩いてきた道を振り返った
彼らは言った。さあ、もうひとつだ"
と幕を閉じる。

「Remorseless」ではタイトルの通り、woodsのニヒリスティックな世界認知が分かりやすく直接的な言葉で語られる。
"この世界はその大きさを図ることすら難しい"、"良くなる見込みがないことを認めるのは自由だ"、"チェーンは羨ましいと思うが、PTSDは俺に数えさせ続け、決して使わせない、俺の会計士は嫌な記憶と悲しい結末で頭がいっぱいだ"、
"世代を超えた富は関係ない
それ自体が呪いだ
この呪われた地球で欲しいものは何でも自分で手に入れたほうがいい
価値がわかるはずだ"とバースを終える。
これらは確かにニヒルだが、誠実で正当な世界認知であり、むしろ希望的なヴェールで覆うことによって可能性は閉ざされ、本当の悲劇が起こりうる。
ゆえにwoodsは根源に渦巻くどうにもならない力と真正面から向き合うのだ。

2ndバースではここまで資本主義を目の敵にしてきたwoodsがついに社会主義に目を向ける。
まずwoodsは昔の恋人を想い続けるが、その恋人はwoodsに目もくれず自身の人生を歩んでいる様子を聖書のエピソードに関連させ、またひとつの「Remorseless」(無慈悲、残酷さ)を提供する。

続けて"俺を救ってくれ"、"人生は暗闇の中のジップライン"などと悲痛にラップし、
"マルクス主義者の刻印を俺に与えてくれ
Dollar Treeの休憩室でトランプをしていたら、壁には万引き防止のポスターが貼ってあった。"と語る。
Dollar Tree(日本でいうダイソー)で働いていたwoodsは、自分が資本主義にひれ伏しながら、その恩恵に与りながら生きてきたという事実に直面して打ちのめされる。さらには資本主義の大きな搾取に目を背けさせるようにしてある万引き防止のポスターを見て呆然とするのであった。(それはBLMでの暴動だけを大きく取り上げるメディアの方法にも似ている。)
ただwoodsはそれでも革命を、包括的正義を夢見ているのである。

"軌道上から惑星を眺めていた、Remorseless"
人生はジップラインのように決まっていて、ワイヤーは暗闇の中に隠されているだけである。
惑星が軌道からは逃れられないように、"私"は資本主義からも、もっと大きなシステムからも逃れられない。
woodsはそこからユートピアを夢見るしかない人間存在の残酷さ、神の無慈悲、そして根拠の届か盲目的な意思を提示しているのである。

最後の楽曲「Smith + Cross」でwoodsはついに時計を進め、"今日はここ、明日は過ぎ去って、悲しみ"、"古いもの、新しいもの、借りたもの"、"セピア色で話す、俺の知る皆は死んでしまった"と時間の均一性を破壊する。
また聖書の嘘を婉曲に示し、woodsらしいウィットと引用でキューバにエンパワメントする。

バースは
"サトウキビ畑の火事、世代間のトラウマ
美術館で、痛み止めのせいで目が曇っている
ジオラマの中の僕と彼女"と締めくくる。
世代を越えて引き継がれる差別、資産を提示し、悲痛な経験をしてきた黒人たちだが、結局は美術館のジオラマの中で、「解釈される」のだ。

アウトロは
"砂糖、糖蜜、ラム酒
太陽でしおれた不純な息子
私たちの行いをある者は笑い、ある者は呆然とした。"と繰り返される。
三角貿易の象徴と農業奴隷と奴隷主の間の非嫡出子、その歴史と現代まで続く副産物をどう考えるか。またどうするか。
それは人種に関わらず、woodsが今作において私たちに与えた中で最も難しい、最後の設問だった。

billy woodsは革命家だが、その視界に映るものは都合の良い嘘ではない。
woodsは徹底的に真実に、不気味ななにかに向き合ってきたのだ。

そして私たちに課せられるwoodsの言葉の、物語の懐を探るような試みは、まさにアート的な試みである。
そしてその回答が、私の解釈が、私の見た"根底にあるもの"がバカけたものでなければ、と願うばかりである。

おわりに

西洋美学において芸術は例えば信頼性や有用性を離れた存在者の真実性、つまり深みの中に輝く秘匿されたはずの存在の美、世界の(あるいは"その世界"の)開示を見るのだが、それ自体を独立な、自立した存在者とみなした時、それ自体がなにを秘匿しているのかをさらに立ち止まって考える必要性が生まれる。それが本来的な芸術の場であろう。ただ今日の消費主義においてはそれもありえない。次に控えるもののために出来るだけ早く消化しようとする気持ちが急くばかりである。
先述のようにこの消費スピードと今日の不可能性に迎合したのが例えばマンブル・ラップであり、それは"快楽において史上なもの"である享楽的な音楽を提供するに至った。

今日の現代アート的段階は性急で過剰なものであることは確かだが、新たな芸術の場では決してない。
哲学者が回答者ではなく設問者であるのと同様に、芸術家も根源的なものを明らかにすることによって、私たちに問いを投げかけるのだ。そしてそれに答えようとする私たちの営みは、芸術的創作に他ならない。

私たちは単一的なイデオロギーに支配されず、時に不愉快な真実を受け入れ、時に分からないものを嚥下し、生きていかなければならない。
正義を決定づけること、例えば当事者性を権威化すること、つまりカテゴライズのうちに個を奪うことの危険はアート・ラップという表象とそのアーティストが教えてくれた。

私たちを急き立てる全てに対して一歩立ち止まるように、言えないが、言わなければならない。また動けないが、動かなければならない。

私たちは不断に歩まなくてはならないが、時に立ち止まらなくてはならない。
そうすれば不気味で不可能なものを、明るく可能なものにすることが可能だろう。
意味もなく生まれ、意味もなく滅するものに、有意義で不滅のものを打ち立てることが可能だろう。
そんな衝撃も、芸術でありうるのかもしれない。


訳出元、一部解説はhttps://genius.com参照

酒井健「バタイユと芸術 ―アルテラシオンの思想―」青土社 2019年

渡辺二郎「芸術の哲学」筑摩書房 1998年

小崎哲哉「現代アートとは何か」河出書房新社 1998年

https://hiphopdna.jp/news/9967

https://www.complex.com/music/art-rap-2020

小田部胤久「西洋美学史」東京大学出版会 2009年

https://pitchfork.com/reviews/albums/18380-earl-sweatshirt-doris/

https://pitchfork.com/reviews/albums/earl-sweatshirt-some-rap-songs/

https://www.vulture.com/2018/11/interview-earl-sweatshirt.html

https://pitchfork.com/features/interview/earl-sweatshirt-sick-interview/

https://www.okayplayer.com/music/billy-woods-interview-hiding-places-underground-rap.html

https://www.thefader.com/2022/04/08/billy-woods-and-preservation-on-the-cinematic-chaos-of-aethiopes

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