いじめや差別が悪い理由。それらを許容する社会が最後は大きなツケを払うことになる。

なぜいじめや差別がいけないのか。第一はもちろん本人が傷つくから。不条理なことで、恥や屈辱感を与えて傷つけるのがいいことではないのは当然だ。そしてもう一つは不条理に排除されたり傷つけられたりした人が最後は社会全体(もしくは所属する会社や学校)に対して復讐心をもつようになるから。恨みや怒りに基づいて一つの観点だけから社会の「改善」を求めるようになるかもしれない。

心であれ、身体であれ傷つけられることがあれば、防衛反応として自分を守ることに精一杯になる。そうすると目の前の脅威を取り去ることに意識が集中することになり、思考や視点がそこにとらわれてしまうことになる。冷静でバランスのいい思考や視点が減っていき、どんなものでも自分が被害者意識をもっているものに結びつけるようになる。自尊心が低下し、治まらない怒りや恨みの気持ちに慢性的にとらわれる。そうすると「~のせいで自分が脅かされたのだから、それがない社会に変えることが何より大事で、他の事情は無視してもよい」というような狭い観点からものを考えてしまう。それはそうだ。自分の尊厳が傷つけられたり脅かされたりすれば、それを取り除かなくてはやってられない。そう考えるのも無理はない。それにそのようなつらい経験こそが他人の気持ちを理解するのに役立ったり、その人らしさを形作ったりもしている。だが、傷が閾値を踏み越えてしまうとき、そのような有益な人格形成を超えて被害者意識にとらわれるようになってしまう。疎外感や孤独感でもそうなるかもしれない。
しかし世の中はいろんなものが協働してまわっている。一つの観点や価値観だけを絶対視すると、社会全体としては危険であったり息苦しくなることもある。また、視野狭窄になるといわゆる「釣られ」やすい状態になり、社会的政治的思惑に動員されやすくなる。

つらい思いをしてる人、その集団や組織の責任者、社会全体の誰もが不幸だ。これを避けるにはどうしたらいいのか処方箋を示したい。まずつらい思いをしてる人は、ありきたりだが、助けを求めたり、頼ったりすることだ。怒りや慢性的な憤りの裏には悲しみがあったりする。その悲しみこそが本当の感情だろう。まずはそこに素直になって周りに助けを求めてよいのだ。家族や友人、学校の先生や会社の上司、公的な相談機関、もし体調やメンタル面の不調があればメンタルクリニックでもよい。甘えではないかと自分を責めたり、問題や人間関係を回避する前に相談したり頼ってみるとよい。聞いてくれない人もいれば聞いてくれる人もいる。そんなもんだと思いながら、まずは相談してみて、それから甘えなのか回避すべきなのか決めてもよいではないか。
学校の先生や会社の責任者は、責任回避こそがより大きな責任問題になるということに強く想像を巡らせてほしい。昨今の報道を見ていればわかるだろうが、学校や会社全体が大きな損害を受けることになる。
みんなが心豊かに暮らせる土壌を作らないと結局は社会が大きなツケを払うことになる。

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