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その階段を前に私は考えた。『

 地下につながる階段は細長いビルの脇にあり、一見すると通り過ぎてしまいそうなほど目立たない看板がその階段口に立てられている。

 階段を降りて行き、突当りの扉を開けると、カランコロンとドアベルの音が静かに響き、空調の効いた店内が私を迎える。夏の眩しい陽光と雑踏から逃れた私には、間接照明の穏やかな明かりと物静かな他の客に、無言で迎え入れられたように感じられ、すぐにその店に馴染み深いものを憶えた。

 カウンターの後ろでカップを洗っているマスターに、私はまずブレンドを頼んだ。

 あいにく私は繊細な舌を持っているわけではないが、コーヒーがうまいかどうかは分かる。ブレンドなら店が考えて出しているものだし、マスターとコーヒーの好みが合えば、すでに店内の雰囲気に好意を抱いている私にとっては行きつけにしたいところだ。

 カウンター席の一番端っこに腰を下ろすと、トートバッグからペーパーバックの本を取り出した。休日に読む本は、平日のそれとは分けてある。平日は大概ミステリやSFなんかのエンターテインメント性のあるものを選んでいる。反対に休日には明治期以降の純文学や思想家の小説などを読む。仕事前や後に少しでもポエティックな一文を目にしたり、深奥をつくような至言を読んでしまうと、特別感受性の強くない私でも仕事に手がつかず物思いにふけってしまうからだった。

 さてそれでは休日の私が店に持ってきた本はというと、結局ミステリだった。と、いうのも――


 マスターが静かにカップとソーサーを私の前に差し出してくれる。

 私は会釈しながらそれを手元まで滑らせると、カップを持ち上げた。白地に青い花模様が、うるさくない程度に入っているカップだった。

 猫舌の私は恐る恐る一口目を少し啜ると、安心して多めの二口目を啜った。コーヒーを淹れるときの適温は、豆のローストの具合にもよるが、沸騰しない程度の80~90℃前後。挽き具合は、さっき横目で見たところネルドップだったから中挽きだろう。苦味や酸味のバランスがよく、まろやかでグァテマラやマンデリンのようなコクがある。

 つまりはブレンドとしてはスタンダード、ゆえに落ち着ける味だ。


 話を戻そう。

 どうも私は散文型の人間らしい。詩を読むのは好きだが、書けないだろう。

 さて、なぜ私が午後の喫茶店に持ってきたのが鴎外や太宰やヘッセやドストエフスキーではなく、ミステリなのか。

 答えは単純に、コーヒーの味に集中できないからだ。普段家でインスタントコーヒーをがぶがぶ飲んでいるときならいいのだが、うまいコーヒーを飲むときには考え込んだり、思想に耽ったり、まして世俗に未練がありながら世捨て人にならざるを得ない人のような、陰鬱で厭世的な気持ちになりたくないのだ。ミステリを軽い気持ちで推理しながら、コーヒーを味わうのが丁度いい。


 午後の喫茶店は、時間の大河のほとりに建っている。

 時間や社会の流れから少しだけ逸れてみたいとき、私は喫茶店を訪れる。店内でも変わらず時間は流れ、客は出入りし、カップの中のコーヒーも減っていくが、私はたしかに時間や社会から目を逸らすことができる。

 コーヒーの味と小説の文字と私の思考は混合し、なにか神聖で濃密な一滴となって、次のコーヒーの一口に加えられ、私はそれを味わい飲み下しながら、また新しいフレーバーを造り出す。次第にコーヒーからはミステリのトリックの糸口が滲み出て、小説の上では私の将来にわたる茫漠とした不安の投影によって視線が揺らぎ、その実私の思考は鈍化し、味覚や視覚や触覚なんかが減色混合のように重なり黒く澄んでいく。シナスタジアのごとく感覚だけが鋭敏になり、一つ一つ、一瞬一瞬の刺激に快楽を感じるようになった頃、二杯目のコーヒーがなくなった。

 コーヒーカップの一杯は丁度いい。

 それ以上の快楽は甘ったるくて気怠いだけだ。コーヒーカップ一杯、それを飲み終えたらちょっとだけ時間をおいて、店の雰囲気や客の会話にそぞろに気を散らし、また次の一杯を頼む。

 午後の喫茶店は、時間の大河のほとりに建っている』


 と、私は、初めて目にする喫茶店の看板を前に考えた。

 期待通りだったらいいけれど。

 喫茶店巡り、休日の冒険だ。

 私は階段を下りはじめた。

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