「哲が句」を語る 一番ホットな私

「語る時が来た」
そう言って書き始めましたが、その理由の一つは、半世紀の間、好き勝手に考えていた脳みそが、なぜか考えるのをやめたからでした。
脳みそが考えるのをやめた理由や原因は、たぶん複合的なものだと思います。
だた、それは決して考えるべきことがなくなったということではなく…、と、普通なら書きそうなものですが、実は、もはや考えるべきほどのことはすべて考え終えたと思っていたからです。実に不遜な人間です。

ところが最近、なぜか私の脳みそが少し考え始めました。
それも、相当に根本的なことなので、今回の記事はこれまでと趣向を変えて、一番ホットな私について書いてみたいと思います。


前回の記事で、「私とは何か」という問いについて、「私」と「私以外(非私)」とを分けるところから始めて、徹底した問いを進め、私なりの答えにたどり着いた、といった体のことを書きました。
自分としては、これでもかと言うくらいに、問いの根底から洗いなおして問い進めたつもりでした。
ところが、問いの最も初めの部分で、実は、根本的な思い込みに陥っていたのではないか。そのような疑いを、ごく最近、持ちました。

「私とは何か」という問いを発するとき、いきなり「私」と言っているようでいて、すでにその前に「世界」を想定しています。
その一つの表れが「とは何か」という問い方です。
「私とは何々である」という答えに至るとした場合、その「何々」に対しては何らかの了解をするはずです。その了解とは、すなわち既存(既知)の世界の中に位置づけられた何ものかであると受け止めた、ということになります。
「私」が「既存(既知)の世界の中に位置づけられた何々である」というのが答えであれば、すなわち「私」は世界の中に位置づけられた何ものかである、ということになります。
従って、「私とは何か」という問いを発した段階ですでに、私とは世界の中に位置づけられた何ものかである、ということを含意していることになります。
(ちなみに、「私とは何々である」という答えに至らないようなことを想定するのであれば、そもそも「私とは何か」というのは問いではないということになります。)

「私とは何か」と問うとき、「私」が「世界の中にある」、「世界に属している」、つまり「世界の一部である」ということを、私自身、当然のこととして考えていました。
いま上記で、「私とは何か」という問いが「私は世界の一部である」ということを前提にしていることを改めて確認しました。

でも本当にそうであろうか。
「私は世界の一部である」というのは根拠のない思い込みにすぎないのではないだろうか。
ふと、そのような疑問が湧きました。

そんなことを言うと、こんな声が聞こえてきます…
<<「私は世界の一部である」というのが間違った思い込みだということは、「私は世界の一部ではない」「私は世界に属していない」ということを言おうというのか。
お前はバカか。
世界とはありとあらゆるものをひっくるめて「世界」なんだから、お前がそこにいる限り、お前もひっくるめて「世界」であるのに決まっているではないか。
世界があって、お前がいたら、即、お前は世界の一部だ。>>

世界(宇宙)はすべてを含むもの、というのが定義であるならば、「世界に属さない」とか、「世界の一部でない」とかいうのは、文言自体がそもそも語義矛盾ということになるでしょう。

でもささやかな抵抗心が浮かびます。
論理的意味での「すべて」と、私たちが体験しているこの「世界」「宇宙」とは、原理的に果たしてくっつくことができるものなのでしょうか。
ここ数日、ふとヴィトゲンシュタインの断片を2,3、見かけました。
「世界は、成立していることがらの全体である」とか、
「世界の限界は、論理の限界でもある」とか。
表面的な理解でしかないとは存じますが、ヴィトゲンシュタインは「世界」を「すべて」(論理)の側に引っ張り込んでしまった印象です。
さっきまで手で掴み触っていた「世界」が、するするっと持っていかれた気分です。

さてここから反撃に転じたいと思います。
百年前の人々が夢にも想像できなかった宇宙像を、現代の私たちは持っています。
百年前の人々は、「宇宙」が百数十億年の大昔に「誕生」した、なんて思ってもいませんでした。
現代の私たちは、「宇宙」が無数にあるとか、一切の関係や情報のやり取りが不能な「宇宙」があるとか、そういうことを、それほど無理なく、それなりのリアリティをもって理解することができます。

「すべて、宇宙、世界」というものがほぼ同義だとする場合、一切の関係や情報のやり取りができない「宇宙」をも、「すべて、宇宙、世界」という言葉は含むと考えるべきなのでしょうか。
五十歩譲って、「すべて」という超自然的な言葉はそれも含み得るとしてもいいかもしれません。しかし、我々が問題にし得る「世界」とか「宇宙」というものは、思考や関係が到達し得る範囲としなければ、それは不毛なものとなるでしょう。

「世界とは思考し得る範囲」としたいと思います。

さて、問題を戻して言い直すと、「私は世界に属している」というのは「世界から見て私が思考し得る範囲にある」ということになります。
さて、私は世界から見て思考し得る範囲にあると言えるでしょうか。
「私」は、様々なことを思い考え経験し記憶して生き、そののち死んでいく。
この、生きて死んでいく「私」の全体を、あるいはその細部を、世界の側から見て、果たして「思考し得る」のでしょうか。

議論のヴォルテージを、いったん、平場まで下げてみようと思います。
「私」ってものは、死んだらどこへ行くのだろう。
私が考えたこと、記憶したこと、それらはどこへ行ってしまうのだろう。
そんな風なことを考えた方も少なくないに違いないと思います。
この私もよく考えます。
そして漠然と、私はこの世界に属しているのだから、そのような考えたことや記憶したことも、世界の中の何かの痕跡として残っていくのではないか、などと思っていました。
昨晩食べた晩飯の味わい、その記憶は、何らかの神経回路の信号として存在し、それが何らかの微細な痕跡を残していくのかもしれない。
だが、「私」とは、晩飯や昼飯が残した微細な痕跡の寄せ集めではない。「私」という一つのまとまりだ。では、「一つのまとまりとしての私」の痕跡が、この世界の中に残っていくのだろうか。
(その考えの延長線上で考えたのが、以前に記事に書いた「人間=素粒子」説です。その説では、「私」の存在確率は低下していくが、「死ぬ」ということはない、と言うことになります。)
でも、どう考えてもどこかおかしい。
考えの筋道に何か間違いがあったのではないか。

そう考えた果てに見つけたのが、「私が世界に属している」と前提していることに間違いがあるのではないか、という疑いでした。
私は世界の一部ではないのではないだろうか。
確かに「私」は端から端まで「世界の一部」であるモノで構成されている。すなわち、晩飯の味も昼飯の記憶も世界の一部である何らかのモノや痕跡で作られ、世界とつながっているかもしれない。だが私と言うまとまりそのものは「世界の一部」によって構成されているのではない、のではないか。
そうだとすると、冒頭で検討した「私とは何か」に対する答え、「私とは何々である」という答えの「何々」が、「既存(既知)の世界の中に位置づけられた何ものかではない」ということになるのではないか。(その場合、答えは正確には「何々とは言えない」ということになるとは思うが。)
すなわち別の言い方をすると、「私」は世界から見て思考し得る範囲にない、「私」は世界の側から見て到達不能なのではないか。

宇宙論の極大な場面で、この世界から到達不能な領域というものを想定してみた以上、この「私」という極小な場面においても、世界からの到達不能性というものを想定し得るのではないか、そんな考えをしてみた次第です。

そして、その事態を一口で名づけた言葉、私のいま最もホットな概念、それが
「底抜け」
です。
「私」は、この世界の中にありながら、「底が抜けて」いて、その抜けた深みは世界から到達不能な領域なのではないか、という意味です。

宇宙に生じるものは
宇宙の一部であり宇宙に属すると
考えるのが順当であろうが
宇宙の底抜けのようなことが
あってもおかしくないかもしれない
例えばブラックホール
例えば我々の心
2023.08.05

我々の心が
ちょっとでも宇宙の所属から
外れていると考えると
説明の幅と質が
大いに変わるのではないだろうか
2023.08.05

私は底抜け
2023.08.19

最後に一言、余計なことを…

語りえないことについては
沈黙しなければならないような
人にはなりたくない
2023.08.31

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