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『十角館の殺人』実写化でもう止まらない!推理小説の映像化に湧き立つ(個人的な)期待と不安(4)

     つづきです。

 前回はこちら。
『十角館の殺人』実写化でもう止まらない! 推理小説の映像化に湧き立つ(個人的な)期待と不安(3)|涼原永美 (note.com)

 綾辻行人による傑作ミステリー「十角館の殺人」の実写ドラマが3月に配信されるというニュースを聞いて以来、推理小説の映像化についてザワついてどうしようもない思いを、あれこれ綴ります(もはや『十角館~』と関係のない話になっていますが、自分のなかでは繋がっているのでタイトル続行します)。

 今回は、「宮部みゆき作品の映像化にほぼ満足できない理由」です(作家名や俳優名は敬称略にさせていただきます)。

 ――と、その前に。

 これを書いている間に、とても受け入れがたい、悲しいニュースが入ってきた。・・・胸が張り裂けそうな気持ちで、このまま「実写化」について書き続けたいと思う。

 いろいろあるが、強く思うのは、どんなジャンルにせよ作家は特別な人達だということだ。ゼロからものを生み出すのは、万人にできることではない。感受性のかたまりで、時に命を削るくらいの熱量を注いで創作しているということは、想像するだけでもわかるし、想像できる人間でありたいと思う。

 私は若いころ、職業を問われて「文章を書く仕事」と言うと、たまに「小説を書いているの?」と聞かれることがあった(当時はまだ一般の人が気軽に文章を投稿したりする時代ではなく、雑誌や広告のライターより作家のほうが一般的にイメージしやすかったのだろう)。
 そして即座に「いや違う」と否定していた。――自分に小説は書けない。あれは才能が違う。「既にある事実」を文章化したり、伝わりやすく構成し直したりする仕事と、ゼロからものを生み出す仕事は、まったく違う。魂の熱量が違うのだ(両方できる人もいるけれど)。

 だから私は、作家という人達を尊敬している。特に好きな小説が映像化される時、「できるだけ原作通りのものが観たい!」と心が湧き立つのは、作家や作品への尊敬と感謝があるからだ。


 また原作ファンとして可能な限り「手を加えずに作ってほしい」と願うのは、おもしろい小説(物語)を多くの人に読んで(知って)もらいたいから。私自身は単なる本好きだが、優れた物語は人を励ますから「これいいよ!」と広めたい。エンタメは共有財産で、共有の癒しだからだ。


 そして映像化は認知度アップに絶大な力を発揮する。するのだが、それは諸刃の剣で、別ものとなってしまった映像作品のほうを「その話そのもの」と大勢の人に思われたら、「いや原作は・・・」と説明するのが大変になる。本当はこういう話じゃないの、というもどかしさは、好きなものや大事なものに対するとてもピュアな想いだ――ただのいちファンでも、そうなのだ。

 ――素晴らしいものを、どうかそのままでと願う。
 ほとんどの原作ファンは、映像化において無力だ。
 だから、願うだけだけど。


 さて、本題に入るが、私は宮部みゆきの小説が大好きだ。



(1)「肝心の部分が・・・」と感じてしまう宮部みゆきの映像作品


 特に「魔術はささやく」「龍は眠る」「火車」「蒲生邸事件」「クロスファイア」など1990年代に刊行された初期の作品群には、励ましと救いをもらい続けた。それらの読書体験は、生きづらかった20代の私にとってかけがえのないものだ。

 けれど、残念なことに宮部みゆき原作のドラマや映画を観て、「よかった」と満足できたことがほとんどない(ゼロではないです)。

 理由は簡単で、「肝心の部分が薄められている・・・」と思うことが多いからだ。ではその「肝心の部分」とは何なのか――を語るために、そもそも宮部みゆき作品をとはどういうものなのか、いや個人的にどう感じているのかを書いてみたい。

(2)事件の真相の「その先」「奥底」に輝く宝石のような主題


 宮部みゆきの小説は、たとえて言うなら箱根の伝統工芸である寄木細工の秘密箱のようなものだと思う(からくり箱ともいうらしい)。

 いうなれば、まず外側からして素晴らしい。ひと目で精巧な造りで、全体の構造や緻密な柄の組み合わせをずっと見ていても飽きないだからそれだけで満足する人がいても全然かまわないと思うのだが、じつは仕掛けがあり、よく観察して開けてみると中に宝石が入っている――とこんな具合だ。

 
 私はいつもこの宝石に心を鷲づかみにされる。
 そして映像化されるなら、この宝石はどんなふうに表現されるんだろう・・・と期待するのだが、これがけっこう「なかったかのように」扱われていることが多いのだ。

 ーーあれ? ないじゃん。と思う時の落胆は、けっこう大きい。



(3)「魔術はささやく」最終章は、息をのむ2人のやりとり

 
 たとえば初期の名作であり、1989年に日本推理サスペンス大賞を受賞した「魔術はささやく」(新潮文庫)という作品がある。

 主人公は16歳の日下守。両親はすでになく、伯母夫婦のもとで暮らしているのだが、タクシー運転手である伯父が起こした事故をきっかけに、ある事件に巻き込まれ、やがて事件の関係者が自分の生い立ちと密接に関係していることを知る・・・という物語だ。事件の展開も真相も興味深いのだが、いちばんの読みどころは、犯人も真相もわかったその先にある。


 守が「ある人物」を許せるかどうかという点だ。16歳の、幸せとは言えない境遇で育った少年が、その元凶をつくったともいえるある人物を、裁くことができるのか――。

 具体的には、「最後の一人」という最終章で書かれる12ページほどの場面が、この小説のクライマックスだ。

 私は初めて読んだ宮部作品がこれで、確か20歳だったが、この章に感動し、なぜ自分がミステリーを貪り読み続けているのか、腑に落ちた気がした。

 ただ生きているだけで、なかば強制的に社会の暗部を見せられるような世の中だけど、どこかに光があるのではないかと、自分は道標を探しているのかもしれなかった。生きるための、心のありようを知りたい。宮部みゆきの小説で書かれる、絶望のなかの光は宝石のように私には見えた。

 ――だから、そんな大好きな小説が映像化される時は大いに期待する。するのだが、いざ観てみると、たとえばこの小説でいう最終章にあたる部分がかなり薄められていたり、時にはシーンそのものがなかったりするのだ。


(4)あまりに改変された2時間ドラマに疑問が・・・

 
 2011年にこの「魔術はささやく」がフジテレビで2時間ドラマ化された時、主人公が「守の姉・和子」というオリジナルの人物(原作では和子は脇役)に変更されていたばかりか、連続殺人の犯人や犯行の方法がメインにクローズアップされ、守の心の葛藤は中途半端な扱いで終わっていた。

 この小説は、守のように「傷つけられた側の人間が、憎しみのまま裁く側にまわることはできるのか」・・・がひとつの主題になっている。守が最後にした選択は、小説で丹念に描かれてきた周囲の人間とのあたたかい交流が土台となってなされたもので、すべてが繋がっている。
 だがドラマでは主人公が違うために「傷つけた側の人間の罪悪感、贖罪」がメインテーマになっていて、これは似ているけれど、違う話だと感じた。

 改変されたものが「つまらない」と言っているのではないし、あのドラマを楽しんだ人もいるはずだ。再視聴のハードルが高い過去のスペシャルドラマ1作に関してどうこう言いたいのではなく、私が感じたのは

 ーー愛読者がかなり多いであろうこんな名作でも、簡単に改変されてしまうのか・・・という一種のおどろきだった。主題を変えたら、そもそもその作品を扱う意味すらないのではないか?

 

(5)映像化するなら観たかったクライマックス「雪の夜のシーン」

 
 今でも思う。
 仮に原作に忠実に映像化したら、守が怒りや悲しみ、しかし拭えない情愛を抱えながらその人物と対峙する雪の夜のシーンは、感動的に仕上がっただろう。せっかく映像化するのなら、観てみたかった。

 宮部みゆきの書く事件は、現実社会のそれに独自の視点を取り入れていて、際立っておもしろく、驚かされる。だから外枠だけでも映像化すれば及第点の仕上がりにはなるのだろう――けれど、それでもやはり「人の心がどう動いたか」を、映像版でも丁寧に表現してほしいと願う。繰り返すが、それが私には宝石に見えるからだ。


(6)巧み過ぎるあの文章なしに本質を表現するのは難しいだろうけど・・・

 
 ――ただ、じつはある程度「仕方ない」とも思っている。
 宮部みゆきは文章がうますぎるのだ。

 
 掬い上げたいであろう感情は、作者によって余すところなく、日本語表現を駆使し、リズムよく、ズキューンと、読み手に伝わるようにいつも表現されている。常人に書ける文章ではない(当たり前)。その類まれな文章表現を手放し、映像によってその本質を表現するのは至難の業だろうと思う。

 だけど、ならばせめて設定を大幅に変えたり、主題を描いた場面を薄めたり、削らないでほしい

 
 ドラマの展開を映像としてそのまま作れば、主題は視聴者が引き受けてくれることだってある。わかりやすく作り変えなくてもいい。
 原作の「地の文章」を使えないなら、せめてセリフをあまり変えないでほしい。

 ・・・という感じで、宮部みゆき原作の映像作品に辛口評価をしている人は、主に原作ファンなのではないだろうか、とたまに思う。原作を読んだ時と違わぬ感動を期待するのは、そもそも難しいのかもしれない。



 ーーもちろん、個人的にけっこう好きな作品もある。小泉孝太郎が好演した杉村三郎シリーズや、上川隆也主演の2時間ドラマ版『火車』などは、わりと良かった(『火車』が大失敗しづらいのは、展開を追うだけでもそこに物語の主題が乗っているからで、そもそもアレンジできる余地が少ないのかもしれない・・・というか、あれほどの名作なのだからいちどしっかり映画化してほしいとも思うけど)。
 

 原作の魅力を真摯に映像化してくれたら、原作ファンとしては
「この原作も、映像作品も、どちらもおもしろいよ!」と断然人に勧めたくなるものだ。

 そんな作品がひとつでも増えることを祈っている。

 ――さて、つづきとして

好き過ぎて、ぜひ再映像化してほしい宮部作品『クロスファイア』

 について書きたいと思います。

 つづきます。

 つづきはこちら。
『十角館の殺人』実写化でもう止まらない!推理小説の映像化に湧き立つ(個人的な)期待と不安(5)|涼原永美 (note.com)
 

 

 

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