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濡れた頬

父が、私の二人の子供をひざに抱え、とても幸せそうに笑っていた。

”どうしたの?父さん?どうしてここにいるの?
父さんはもう、死んじゃったんだよ。忘れたの?”

微笑むように父にそう言いかけたけど、私はすぐに思いなおした。その言葉で、まるでその魔法が消えてしまいそうな・・・そんな気がしたから。

私は夢を見ていた。
それは夢の中で夢と分かる夢だった。

私の父は、私の二人の子供が生まれる前に、病気で亡くなっていた。もう昔のことだ。それにしてもなんて幸せな風景なんだろう。部屋中に光りが満ち溢れていた。まるで映画のワンシーンのようにすべてが輝いて見えた。

”どうしたの?ねぇ、父さん。僕の夢なんかに出てきたりしてさ。ちょっと寂しくなったの?”とからかうように私は笑った。でも、父は微笑むだけで何も答えなかった。

そう言えば、父は無口だったことを私は思い出していた。

場面が変わった。

そこはすべてが白に包まれた病室だった。父は眠っていた。たぶん、あの頃、病室で寝たきりだった頃の父だ。父はもう長くは生きられなかった。父の死に際に間に合わなかったことが、私の心残りになっている。

あの頃、遠く離れた仕事先で、父の危篤の知らせを受けたとき、飛び乗った新幹線の途中の駅で、父が亡くなったことを電話で知らされた。病状が急変したとのことだった。私の中で覚悟はすでに出来ていたとはいえ、失ったものの計り知れない大きさに、ただ、立ち尽くした。そして強い自分でいなければと思った。そのとき不思議と涙はこぼれなかった。

病室から場面が変わった。

父は私の夢の中でとても健やかな笑顔を浮かべていた。一番元気だった頃の若い父だ。いつしか私は夢の中で12才の少年になっていた。私は父の胸の中で声をあげて泣いていた。あの頃、すぐに泣く弱虫だった私のことだ。たぶん友達にでもいじめられたのだろう。

若い父が泣いてる私の頭を撫でながら、やさしく私に話してくれた。

「お前はやさしい子だ。悲しければ泣けばいい。恨んだり、怒ったりするより、泣くお前のほうが立派なんだ」

私はそれを不思議な気持で聞いていた。学校の先生はそんな事を言ったりしないのに・・・そんな思いだった。

さらに父は続けて話した。

「怒ったり恨んだりするのは、相手に向けられた一方的な気持ちだ。相手の気持ちはわからない。ただ憎しみを増やすだけだ。しかし、泣くと言うことは自分の内側に向けられた素直な気持ちだ。相手を憎むのではなく自分の弱さに、自分の力の無さに、ただ、泣くんだ。そういう人ほど本当に強くなれる。悲しいとき悔しいときに泣けるお前は、本当にやさしい子なんだ」

夢の中の父の言葉は、どこか遠く空の中から聞こえてくるような声だった。その言葉が、あの頃の父の言葉だったのか、それとも今の私の思考が父の言葉となって夢に出てきたのか、それはわからない。あのとき、私が父の死に対して、泣かなかったその事実が、私の中でしこりになっていたのかもしれない。

でも、それは決して忘れてはいけないと思った。

父は本当は、何を伝えたかったのだろう?いろんな問題がありすぎて、押しつぶされそうな今の私に、何か想いを伝えたかったのだろうか?

幼い私は夢の中で声を上げ、わんわん泣いていた。まるであの時、流れなかった涙が一気に押し寄せたかのように。

父がそんな私のことを、あの笑顔で静かに見ている。それを今の私がぼんやり眺めている。まるでその幸せの終わりを知らせるかのように、日はもうすぐ暮れようとしていた。

私は目が覚めた。
まだ早い薄闇を抱えた朝の中、もうあの夢には戻れないことを儚く思った。それでも父への感謝の気持ちであふれていた。

静かな時が流れ、やがて私は自分に気づく。

この頬が濡れていることに。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一