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いつかイチョウの木の下で。

秋の終わりの少し前のこと。近所にあったとてもきれいなイチョウの木を、彼女はほんのひととき、楽しみにしていたらしい。

うちの奥さんは、パート先の店まで自転車で行くのだけど、毎朝、その途中にあるイチョウの木を眺めつつも、急いでるので、どうしてもそのまま通りすぎてしまう。

いつかちゃんとペダルを止めて、その木の下から見上げるように眺めてみたいと、いつも心に思っていたそうだ。

「だってね、すごくきれいなのよ。そのイチョウの木はね、赤く染まったところと黄色く華やいだところとがあって、それを下から眺めたらきっと、きれいだと思ってたの」

そんなふうに語る彼女は、まるで小さな女の子みたい。でも、その華やかな言葉の最後が過去形からもわかるように、そのささやかな願いはとうとう叶わなかったらしい。

朝、いつものように自転車でそのイチョウの木を、見ようと思っていたら無残にも太い枝が何本も切られていたようだ。どうしてそんなことになったのかわからない。

イタズラというよりも、必要があって切られた感じだったらしい。ただ、はっきりしていることは、彼女の”いつかきっと”はとうとう永遠に来なくなってしまったということだ。

こんなちょっとしたことが、小さな傷のように気になって、思わずとても寂しくなる。彼女も、私も。

こんな小さな日常の叶わぬことって、気づけばいっぱいあるんだろうけど、それすらきっと私たちは、気づかないでこの日常を生きているのだろう。

彼女がそのイチョウの木を、何気なく見てたなら、そんな哀しい思いをしなくてすんだのだろう。でも、とても愛しく思っていたからこそ、そのひとときが幸せだったに違いないし、それでその結果、哀しいことになったにしても、やはり私は、それは幸せなことなんだと思う。

何も気づかないで哀しまない幸せ。
気づいたからこその哀しい幸せ。

どちらがいいかなんて、私にはわからない。

この人生は人それぞれだし、生き方も、考え方もみんな違っている。だからというわけではないけれど、ただ、哀しいことがすべて、哀しいわけではないのだと、私はそんなふうに、ただ、気づきたいのだと思う。

彼女のように、そんなささやかな哀しい幸せを、私もこの何気ない日常の中でほんのひととき、見つけられたなら・・・なんて思った。

「寂しいね・・・」と彼女に言うと
「寂しいね・・・」と返してくれる。

私はそれが、ひとつの幸せなんだと思った。

こんなふうに、彼女は私に気づかせてくれる。
見えないものも、見えるものも。
すべて同じようにして。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一