理想の自分
山岳部合宿の疲れと深夜テンションで闇落ちしてしまい、見苦しい文章になっています。ご容赦下さい。
僕は中学受験期、自分に対して物凄い自信を持っていた。
その自分に対する自信が中学受験合格へと導いてくれたと言っても過言ではないような気がする。
今思えば、その自信は熾烈な中学受験を乗り越えるため、塾の先生方や家族など周りの人が着けてくれたものだと感じている。
しかし、その自信は中学校に入ってから一瞬にして崩れ去った。
きっかけは入部したサッカー部だ。
中学受験期にやっていたサッカーで、僕は上手いわけでもないのにも関わらず、キャプテンシーを買われ周りから高い評価を得ていた。
しかし、中学サッカー部に入って中1のキャプテンを決める投票で見事に惨敗した。
僕より明らかにキャプテンシーを持った奴が居たのだ。
彼はチームを上手くまとめていき、最終的には最高のチームを作ってくれたと思う。
他に自分の強みを持っていなかった僕は、自分より足が速く、自分より体力があり、自分より技術のある奴らを前に、何も自分の武器を使えなかった。
案の定、レギュラーからは外れ、中々ポジション争いに勝つための自分の武器を見つけられなかった。
結局中3になって限界を感じ、サッカーを辞めてしまった。
僕が所詮、島国の小さなサッカーコミュニティーの中でのみ評価されることを突きつけられた。
井の中の蛙であることを知った。
このサッカー部で失った自信を機に、雪崩れるように他の自分の自信を失った。
親しい友人に全科目の成績で敗け、予算委員正委員選挙で敗け、学年行事委員長選で敗けた。
自分に対する自信を失った自分は、中2頃から自己肯定感の高い人を演ずることにした。
演ずるだけでも少し気持ちは落ち着いた。
ただ僕もそうである様に、調子に乗っている人を見かけたら現実を突きつけてやりたくなるものだ。
自己肯定感が高い人を演じるようになってから他人から現実を突き付けられることが増えた。
現実逃避しかできない僕は、そういう人から逃げてしまった。
そしてそういう弱い自分に、惨めな気持ちを抱いてしまう。
僕と同じ様に自己肯定感の高そうな人を演ずることで現実から逃げようとしている人をよく見かける。
そういう人にはどこか同情心を覚える。
ただ、そういう人とは互いに傷つけあうことで互いの自己肯定感を上げようとしてしまう。
結局互いに傷つくだけなのにも関わらず…
互いに傷つけあっていたりしても、腐り縁で縁が切れていない人はこの同情心でつながっている様な気がする。
この文章を読んでいるか分からないが、もし僕との関係が曲がっていても腐れ縁で縁が切れていない人はそういうことだと思って下さい。
話が逸れたので話を戻す。
自己肯定感の高い人を演じ、現実から逃避するために僕はあることが全く出来なくなってしまった。
他人の良い所、好きな所を認めることだ。
勿論、心の内で思うことはある。
と言うか逆に心の中ではいつも他人の良い所を見つけては自己嫌悪に陥っている。
Twitter等の非対面空間などの話しやすい場で他人のことを認めることは無いこともない。
ただ、人前で他人のことを認めることはほぼなくなってしまった。
だからこそ僕は人前で他人の事を認めることの出来る人は同輩や後輩であっても尊敬するし、仲良くありたいと思う。
周りが成長したのか、運よく周りに他人を認めることの出来る人に恵まれたのかは分からないが、中3になってからそういう人と多く仲良く出来ている。
僕も人前でも他人を認められるように人になりたいなと思う今日この頃である。
他人の事を認められない奴は次第に孤立していくことは明白だ。
以上。
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