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無毒の病

それでも私は牙を剥かない。 




noteでは度々話にしてきたけれど、元気じゃない状態になってから気がつけばそれなりに長い時間を過ごしてきた。
いつから弱っていたか、なんて明確に線引きできたタイミングは、たぶんないけれど。

憂鬱を振り切ったり、あるいは精神科を受診したり、そういう勇気はまだない。
でも、信頼できる人にあまり元気じゃないことを打ち明けられることは少しずつ増えてきた。

いや、いくらかの場所で打ち明けざるを得ない場が生まれてきたと言った方が正確だろうか。
平気なふりは無限じゃない。
最初から、平気なふりなんてしたいわけじゃない。



とはいえ幸いにも私は人に恵まれているようで、やむを得ず自分の状態を少しお話しては、相手はそれぞれの言葉で私を労わる言葉をかけてくれる。
腹の底ではシビアな心配とか呆れとかを抱かれているのかもしれないが、私にとってプラスになる形を考えて、言葉を選んでくれている。

それだけで、とてもありがたい話。
わがままながら、今後もそうやって言葉で癒してほしいという気持ちはある。

しかしながら、やっぱり他人は他人。
自分の頭からは生まれない言葉、であることはおろか、そもそもまっすぐに受け止めて共感することが難しい言葉をいただくこともある。

たとえば。
かなり雑な概略ではあるのだけれど、「犯罪者ですらのうのうと生き延びてるような世界なのに、君なんてめっちゃ素敵な人じゃん!」みたいな感じのメッセージ。
(飽くまでも、かなり雑な概略)

もちろん、私を思って言葉をくれているのだから、それ自体のありがたみは変わらない。
しかしながらここ数年の私は、誰かに「悪」のレッテルを貼るのが極めて苦手なのだ。


どんな人にも、どんな悪事にも、自分の知らない背景がある。
いつの間にかそう考える癖がついた。

「嫌な奴だな」「あんな人間」なんて思っても。
そういう自分はその人の何を知っている?
たまたま良くない見てしまったから、平然と蔑むことができるだけなのでは?
と、半ば自動的にそんな問いかけが浮かび上がり、知らぬ背景を妄想する。

人の知らない物語を見えないまま、人を論じて簡単に見限ろうとする、それを少し滑稽に感じてしまっているのだろうか。

こうなってしまった経緯に心当たりはあるけれど、まあただでさえ長い話がさらに長くなるので割愛。



そんなわけで。
何か絶対悪を見つけて、それを討つ味方になってくれるような。
自分が正義側にいて、報われるべき立場であると教えてくれるような。
そういうメッセージを正面から受け止めることができないでいる。

気持ちは本当にありがたい。
不満とかじゃない。

だけど、正面からその気にはなれない。
人の汚点を抽出して、心の中で牙を剥く気には到底ならない。

そいつが無条件に軽蔑されるべき人間であるのか、そんなの自分には判別のつくものではない。
仮に本当にどうしようもない悪人であったとしても、願わくばちゃんと更生の機会を得られて活かせる未来がくるといいな、とすら思ってしまう。





易々と心の牙を剥かない癖がついて、確かにメリットは得た。
誰かにきつく当たられても、反射的に敵意を返すようなことはなく、「相手視点だとどう見えるのだろう」と考える方に頭を回すことができるようになった。
傷つくことは普通に傷つくけれど、相手が分かり合えない人間だと分かったら、自らの復讐欲と戦う必要もなく、今後同じ目に遭わないように避けることを優先できるようになった。

それでも、私の敵対心に対する排除性は極端すぎた。
「敵対心」自体に強い拒否感の皺寄せがいった結果、自分とは関係のない誰か同士の投げ合う毒に心を痛めるようになってしまったのだ。

極端な例だけど、犯罪者だったり高齢者だったり政治家だったり元恋人だったり、誰かが快く思わない他の誰かに対して向けられている、無条件にすら思える非難の眼差しや言葉。
悪意のふんだんにこもった揶揄のためだけの語彙。

「そんな言い方しなくていいじゃん」
「そう捉えなくていいじゃん」
心は人の勝手なのに、偉そうにも私はもやもやする。

スルースキルを獲得したようで、ただ失っている。


闘おうとするから戦に巻き込まれるのか。
戦に巻き込まれたから闘うのか。

少なくとも、自分から攻撃を仕掛けなければ避けられる戦はある。
反撃するよりも、逃げた方が傷を受けないでいられることも多い。

とはいえ、「攻撃は最大の防御」という言葉もある。
私はその防御のための攻撃すらも手放してしまったのだろうか。

私が毒を吐けるのは創作の中でだけ。
あるいは、デフォルメされたコミュニケーションの中でだけ。
リアルの、脚色のない本音はずっと、無毒に拘る病に罹っている。
「誰かの全てを軽蔑してはいけない」という呪いにかけられている。



だから本当は、もっと「しょうもない人間」判定をどんどん出していくべきなのだろう。
第一印象とか肩書きとか過去の行いとかから、暴虐に相手を心の中で下に見てしまえばいいのだろう。
人間、「しょうもない人間」と勝手に判断した相手の意見なんて聞く耳は持たない。
そうして「しょうもない人間」の言動を受け流して蔑んでしまえば無傷。
何の配慮もなく、残酷に。
そんで生活の流れた先でそいつへの同情に値する裏話を知ったときが来たら、「私が間違ってた」って言って、今まで軽蔑してきたこととかは全部棚に上げて、話をちゃんと聞いてあげるようになったらいい。

本当に大切な人から特に関わりもない人まで、その全てを尊重しようとしてしまうから、「誰かA」と「誰かB」の相反する持論に挟まれて混乱し、自分の苦手な言葉に心をすり減らす。

別に、どうあるのが善いかとか、善くあるべきだとか論じるつもりはない。
自然が倫理でできているわけじゃないことは知っている。

ただ、私は無遠慮の毒牙が苦手ということ、それだけ。



みんな上手いこと悪者を作って生きているのだろうか。

別にそれを厳しく批判したいわけではない。

生きるコツはそこにあるように見える。
それが身に着けば少しは楽になるのだろうか。
そういう、単純な問いが生まれるだけ。

きっと、どうかしているのは私の方だ。




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