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新たな部落問題の課題(4) 同和教育の弊害

確かに、一時期の同和教育で実践されていた「近世政治起源説」に依拠した「江戸時代の身分制度」の授業では、貧農史観や差別の実態を誇張した教材や学習内容が無批判に語られることはあった。各地の教委が主導して作成された社会科や同和教育、道徳の「教材集」や「学習実践集」には、ピラミッド型の身分制度が表示され、「さらに低い身分」として「えた」「ひにん」が貧困・悲惨を強調されたイラストで描かれてもいた。指導する教師は、それを鵜呑みにして、これでもかと差別の厳しかった状況を説明した。それは「差別は間違っている」ことを伝えたいがためであり、被差別者の苦悩や悲哀、差別の残酷さを伝えることで、「差別をしない」「差別をなくす」心情や態度を育てようとしたからである。

その結果、「えた」「ひにん」などの賤称語が「いじめ」や「からかい」「蔑み」の言葉・表現として一人歩きを始めた。差別をなくす目的の授業が、逆に差別を助長する授業となった。これらの事例は一部であったか、あるいは氷山の一角であったか、それは受け止める側によって異なるだろう。
その要因はいくつか考えられるが、一つには教師の知的理解の不足や認識の低さ、さらに教材化の準備不足がある。さらに、その要因は部落問題・部落史の研究者の少なさと研究不足、そして研究者と文科省・教委・学校現場との連携の不十分さがある。1970~80年代は解放同盟主導の部落問題学習であり、近世政治起源説による部落史が定説として学校現場に定着していた。


正直に書くならば、私が同和教育に関わるようになった頃、ピーク時は過ぎてはいたが、それでも解放同盟の顔色を伺いながら、ひたすら「糾弾会」を恐れて言いなりの対応をとる学校現場が多かった。生徒が賤称語を使って差別事象・差別事件を起こすことで、その後に開かれる「確認会」(糾弾会)を裂けるために、あえて賤称語に触れなかったり、部落問題学習を行わなかったり、あるいは賤称語を禁止する「説諭」の授業に終始したり…本来の目的とはちがう授業であった。事実、岡山県内だけでなく、県外の講演先でもよく聞いた実情であった。

だからといって、同和教育に関わる教師を同一化・画一化して一方的に「批判」する人間(福島県の隠退牧師吉田向学氏しか知らないが…)の安直な発想には呆れ果てる。「批判」と称して、同和教育の実際も知らず(本とインターネットからの聞きかじりでしかないらしい)、まして同和教育自体を検証もせず、関わった教師の「人格」や「人間性」を詰るように非難する。検証すべきは「教師」ではなく「同和教育」であるはずなのに、彼には自分が受けた過去の教師との交わりがトラウマかPTSDかルサンチマンかになっているようで、要するに<憎悪(復讐)の対象>として何かにつけて教師を非難したいらしい。実に愚かとしか思えない。


では、確認会を恐れ、生徒の差別言動にビクビクしながら、できることなら部落問題に触れたくないとタブー視していた教師ばかりだったのか。義務で同和教育の研修会に参加していたのだろうか。部落に対する差別意識(差別感情)を隠しながら表面上を取り繕って同和教育をしていたのか。一部にはそのような教師がいたことを否定はしない。
しかし、大部分の教師は部落差別に対して真摯に向き合っていた。どうすれば、この理不尽な差別の現実を変えることができるか、被差別の立場に生きる生徒に寄り添い、彼らの将来をよりよい世界にするために、何より彼らの不安を解消すべく、自分に何ができるかを必死に模索し、知識と実践を学ぼうと努めていた教師たちであった。多くの学校現場を見てきた私の知る限り、それが事実である。そうではない一部の教師との出会いをすべての教師であるかのように決めつけるのは不誠実で怠惰な人間の戯言でしかない。

たとえ部落問題に関する認識が乏しく、部落史の知識が不十分であっても、実践において部落出身の生徒たちのよく相談相手となり、差別への怒りと人権の大切さを説いて、多くの生徒たち(部落以外の生徒たちも含めて)から信頼を得ていた教師を何人も私は知っている。「知識」ではなく「実践」において差別と闘い続けた教師を何人も知っている。

穴蔵のような閉鎖的空間の中だけで、周囲の人間とも交わらず、本とインターネットという仮想世界に閉じこもって、ひたすら自画自賛と自己満足のあれこれをブログに書きなぐり、わずかの情報のみで他者を非難(愚弄)する偏狭な人間に同和教育も教師も批判する資格はないと私は思っている。


同対法が切れ、同和対策事業が終了して以降、人権教育・人権啓発に移行してはいるが、同和教育のように部落差別・部落問題を直接的に扱う学習や授業は極端に減少し、今やほとんど行われていないのが学校の現状である。そして、ここ30数年間に、同和教育の中核であった教師が学校から去ってしまった。私を含めて彼らの最大の失敗は、残念ながら後継者を育て切れていないことだ。
いくら先駆的な同和教育を行っていても、活発な同和教育の実践が行われていても、実践しているのは「教師」である。教師には転勤が宿命である。数年で教師は入れ替わってしまうのが実情である。学校の教育理念や教育方針も、それに基づく指導計画もまた変わっていく。文科省、県あるいは市の教育委員会からの方針も、時代に即して変化していく。それを発展的な進化ととらえるか変化ととらえるか。

黒川みどり氏は『被差別部落認識の歴史』の「補章 部落問題の“いま”」において、次のように警鐘を鳴らしている。

1969年に同和対策事業特別措置法としてはじまった特別措置法が、2002年3月をもって廃止され、残された問題は一般対策のなかで行われることになった。これまで「同和対策」「同和教育」が「人権」に置きかえられていったことも、部落問題のあり方に影響を及ぼした。人権問題のなかで対応するというたてまえのもと、長い歴史をもちながらも理解の難しく、“やっかいな”部落問題はこれを機に避けられてしまう場合が少なくない。かつては教員免許取得に必須であった同和教育の授業も「人権教育」と名称が変更になったことにによって、首都圏の大学などでは「人権教育論」などのなかからも部落問題はほとんど消え失せ、部落問題を何も知らないまま教員になる者が数多く生み出されている。いうまでもなく、人権全般に視野を広げることは重要である。しかし、それはともすると、耳心地のよい、誰も傷つくことのない「人権」への部落問題の流し込み、ないしは“解消”につながりかねない。

『被差別部落認識の歴史』

黒川氏が言うように「部落問題自体が人権問題のなかで顧みられることが少なくなった」のであり、「人権教育」に移行して20年が過ぎ、もはや部落問題が学校の授業で語られるのは、道徳でも学活でもなく「社会科」の「歴史的分野」と「公民分野」の中で、わずかにコラム程度が教科書記述に残るだけである。それさえも、どのように教えるかは、社会科教師の“匙加減”ひとつである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。