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道徳観の欠如がもたらす新たな可能性

外出禁止令がもたらす可能性

私はアパルトマンの屋根裏部屋で二ヶ月もの間監禁状態に置かれている。

わざわざ手書きで外出証明書を書くのが面倒という理由もあるが、早く抑制されない生活に戻ることを願うばかりだ。 

それに加え底の見えない螺旋階段の上り下りも大変億劫だ。

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ということもあり誰かと顔をあわせることがない。二ヶ月間もの間ほとんど誰とも顔をあわせることなく過ごしていたら、至極当然に他人への意識が薄れていく。普段は見る、見られるという意識があり社会的な制度、道徳観に従いながら装うという行為を行わなければならい。 

道徳とファッション

公衆の面前では服を着崩す限界値というものが存在してはいないだろうか。私たちのご自然で、自明であるかのような道徳として設定されているのと考えている。しかし私たちはこれに気づかない。公衆の面前で出してはいけない身体部位があるし、視覚的な美的価値観も存在する。これらの秩序を疑問に思う人間はいないだろう。

それに加え着るという行為でどういう人間であるかというジャンル付まで行われてしまう。不良には不良の格好、サラリーマンにはサラリーマの格好、ほとんどと言っていいほどに各それぞれにには正しい格好というものが存在しこの一つの言語の概念の中に様相までも内包されている。

パリのモードでさえそうだ、どれだけ新規で新しいものを打ち出そうが最終的にモードに吸収され、一つのジャンルとしてストックされ皆に多用されてしまう。

全てが権力による言語のストック趨向性なのである、私たちはいつに期限があるかもわからないこの制度というものに知らずに知らずに従っているのである。しかしストックにも限界値があり、今やファッションも飽和状態にあるのではないだろうか。

そしてこの二ヶ月間人との接触がないためか見る、見られるなどいふくを着ることの持つ二元性が欠如しているのを心底感じる。人間は言語論で言う二項対立の上で成り立っているために、自身と他者、反対給付「贈与とお返し」、人間は同じ状態にとどまることができない生き物で「絶えず新しい状態」になるようなシステムの中で生きている。

他者の欠如がどう言った意味を与えるのか、他者の欠如はこのシステムを瓦解し衣服の限界性をもっと広げていくのではないかと思う。最近パリでもコロナウィルスの影響で数正規にわたって一番の不況と、観光地に全くと言っていほど人がいないため、ホームレスが資金調達のため町中に移動しているのか買い物に出た時増えているように感じた。その中で極たまに突拍子もない格好をしている人を見かけることがある。彼は社会という秩序の枠外にいる、社会における道徳観なんていうものは持ち合わせていないし多分他人の視線など意に介していない結果だろう。

僕自身も同様に他人、社会を意識しなくなった途端に着実にみすぼらしい格好になっていっている。推測するにコロナ太りとか言っている連中も同様な理由な気がするのは自分だけか。

マスクの危険性

その一方で不安要素もある。

ファッションをする上で何よりも危険なのがマスクという存在だ、いわば顔というものは自身のアイデンティティであり顔を覆うマスクは特定を曖昧にして意味を散逸させる機能を持っている。北イタリアの修道院での話で、そこのトイレには扉も仕切りも無い、代わりに入り口には仮面が備え付けている、用をたす時はそれを顔面に装着する。仮面さえつけていれば排泄している姿を見られてもいいというわけだ。自分が誰であるか、その点を不明にしておけばなんでもできる。とここまでの昨日は持ってはいないとは思うが少なからず社会への距離感を表出するためのツール、ファッション、あるいは化粧など機能そのものを奪取してしまわないだろうか。

まとめ

自分人心もこの期間中に装う、纏うことへの関心が薄れ、道徳観の欠如とでも言ったらいいのか大変醜くなったなと感じる。しかしここにファッションへの新たなる可能性も感じている、美的価値観など時代ごとに違うようにこの道徳観の崩壊に新たなる可能性も感じている。

川久保玲氏などの西洋史ファッションにおける秩序の破壊からやせ細った発展の過程が枝分かれしたようファッショんの歴史における過渡期となるかもしれない。

醜いという価値基準が常識へと転換すること、今後直に体感することが楽しみである。

今回は新規の内容を書いたのだ今まで書いた記事と内容的に関係があるので興味があれば是非他の記事も読んでみて下さい!!!


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