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牟田都子『文にあたる』(毎日読書メモ(480))

昨年、新聞の書評欄で牟田都子『文にあたる』(亜紀書房)の大変好意的な評を読み(評者は稲泉連さん)、気になっていたら、みるみるうちに注目度が上がってきて、最近は朝日新聞で隔週のコラムも書いていらっしゃるし、今週の「AERA」の「現代の肖像」という欄でも大きく取り上げられていた。校閲と言う、出版にかかわる業務の中で黒衣的立場にある仕事が、例えば「校閲ガール」というドラマ(宮木あや子さんの原作もとても面白かった)でぱっと話題になったり、NHKの「プロフェッショナル」で大西寿男さんという校正者が取り上げあられたり、ふっと波の上に浮き上がってくるように話題になることがある。
それは、誰もが、出版物を刊行するにあたって、校閲という作業が介在していることを、なんとなく意識しているからに違いない。

誤植がある本を読むのは気持ちが悪い。
昔だったら活字が横になっている本があったりもしたが、現在のコンピュータ編集の書籍ではそういうことは起こらなくなった、とはいえ、かなの入り間違えなどのミスは今でも見かける。
でも、校閲というのは、そういう、文字のあて違いを探すというよりももっと深い、繊細な作業だ。
表記されている文章の中に誤謬がないか、全体の辻褄は合っているのか。
でも、ただの文法的な正確さだけが使命ではない。文学作品などで、作者があえてそのように書いた、ぱっと見おかしいように見える文章もある。
朱を入れるのではない。牟田さんの校閲は、基本的に鉛筆での書き込みだという。ここはこうではないでしょうか、という指摘をゲラに鉛筆で書き込み、それを見た作者が、修正することもあるし、ここはあえてこうしたい、と言われることもある。
顔を合わせて打合せするわけではないが、作者と校閲者が対話し、書籍がかたちを作っていく。
研究者の人が書いた文章の中にも、本人の思い込みでこうだった筈、という前提で書き進められたことの中に、事実とちょっとずれがある場合もある。例えば有名な格言の出典が、本人が思い込んでいるのと違う著作からの出典であるなんて場合もある。丁寧に読み進め、自分でも参考図書を積み上げて、それにあたりながら読んで、ここはこうかもしれない、と指摘をすることも出来るし、内容によっては専門的過ぎて見つけられず、刊行されてから、読者から指摘を受けて、再版の際に修正が入る、というようなこともある。

1冊の本を作り上げるのに、作者がいて、編集者がいて、本のデザインをする人がいる。それ以外にこんなに丹念な、目に見えない作業がある。
本だけではない。雑誌とか、商業的刊行物(カタログとチラシとか)、ウェブに掲載される記事だって、それぞれ、作成者が責任を持って世に出すものとして、校閲にあたる作業が入るだろう。その性格によって、校閲のポイントも違えば、スピード感も違う。それぞれの現場にそれぞれのルールがある。
牟田さんは主に文芸出版に近い部分の校閲を担当されていて、今は、本の作者から牟田さんで、と指名されることも多い、フリーの校閲者だ。ずっと校閲一筋で生きてきたのではなく、大学卒業後は図書館の職員として働き(図書館のレファレンスの仕事にも、校閲に通じるものがある、と書かれていた)、その後、販売員の仕事などもした後、家族の勧めで校閲の仕事を始めたという。多くの人に認められる、丁寧で的確な校閲をしていても、本人はそれが天職と言う気がしない、と書かれている。自信満々な校閲はたぶん、校閲として、逸脱している部分があるのかもしれない。「かんなをかけすぎてもいけない」、そのバランスを見るのが上手な校閲者が、作者たちに支持されるのだろう。

校閲とは全く関係ないが、牟田さんの趣味はマラソン、ということで、そんなところにも親近感。初めて走ったフルマラソンが2012年の京都マラソン、と「AERA」のインタビューに書かれていて、あ、その京都マラソン(第1回大会だった)はわたしも走ったーー、と嬉しくなったり。
わたしの場合、仕事が終わってからジョギングとかしていると、気持ちがリセットされて、頭の中がクリアになる感じがあるのだが、牟田さんも、走ることで、一旦気持ちをリセットして、また新たな気持ちで仕事に向かったりしているのだろうか、などと想像したりもする。

読者としてでない本の読み方。
そういう世界への憧れを、こんな形で見せて貰えて、幸せな読書だった。


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