多様性の実現は不可能である-『正欲』感想文-


正欲/朝井リョウ

最も残酷であり希望のある作品

 大学の頃、友人らと飯を食いに行った。その内のひとりが、酷くテンションが低かった。まあ、元々不健康そうな奴ではあったが、ワケを聞くととある本を読んだからだと言った。その本の名は『正欲』。彼はその本を読んで、酷く考え込んでしまったようだ。その時は笑ってからかったが、少しその本に興味を持った。
 それから約2年後。本屋でこの本を見つけ、大学時代のことを思い出して、手にとってみた。「読む前の自分には戻れない」。そんな謳い文句を疑いながらも、この本を読み進めた。
 そして、読み終えた。なるほど。確かにこの本を読む以前以後では考え方が違う。しかしそれ以上に、私はこの本に度肝を抜かれてしまったのだ。考え込んでしまうというか、正解は分かっているのに、その答えに辿り着くまでの過程がわからない。そんな気持ちになったのだ。

 世の中には一定数共通の価値観・考え方、そして性癖をもつ「マジョリティ」が存在し、民主主義が表すように、彼らにより法律は制定され、彼らによって社会のコミュニティは支配され、彼らの考え方が正しい・正義となるのだ。では、彼らではない、彼らの価値観に当てはまらない「マイノリティ」はどう生きればいいのだろうか、この本をそれを痛烈に描いている。
 近年、特にここ最近、「ジェンダーレス」や「LGBTQ」、そして「ダイバーシティ」つまり「多様性」という言葉が溢れ始めてきた。もはや世の中は、男女平等にとどまらず、いわゆる性的な「マイノリティ」や様々な価値観を持つ人々が幸せで豊かな社会を実現しようとしている。
 しかし、実現は難航を極めている。男女共用トイレができれば問題が発生し、それに対する賛成・反対意見が飛び交う。水着のイベントがあれば、フェミニストが声を上げ中止にし、参加者たちは涙を流す。ダイバーシティを謳いながらも、いじめは消えず、社会では集団が力を持つ。
 結局のところ、「マジョリティ」と「マイノリティ」、「こちら側」と「あちら側」には圧倒的なズレ、いやとてつもなく巨大で分厚い壁があるのである。
 
 「自分が想像できる多様性だけを礼賛して、秩序整えた気になって、それは気持ちいいよな」
 オードリーの若林さんも同様のことを言っていたが、『正欲』はこの一言に尽きるのだ。「マジョリティ」と「マイノリティ」の話をする時、必ず「マジョリティ」の立場が上なのだ。彼らが決めた「LGBTQ」「多様性」に当てはまる人々を、彼らが認めてあげて、理解してあげて、幸せにさせてあげているのだ。そして、彼らが決めた枠組みに当てはまらない人々は、認めず、理解せず、蔑むのである。先述した通り、彼らがルールや価値観、枠組みを決めているため、当然なのだが、しかしこの秩序のようなものがある限り、「マジョリティ」と「マイノリティ」の間にある壁は消えることはないのだ。そもそも、この「マジョリティ」と「マイノリティ」さえも、「マジョリティ」側が作った仕切りなのだから。
 そして、「マイノリティ」側も壁が消えることを必ずしも望んでいるわけではない。作中にもあるように、別に彼らは理解されようとか、認められようとか、「マジョリティ」側になろうとか、そういったことを必ずしも望んでいるわけではないのだ。彼らは理解されることを諦め、彼らだけで繋がり生きていくしかないのだ。
 この本を読む前、薄々感じてはいたが、確信を持たず言えずにいた。だが、この本を読めば、自信を持って言える。誰もが幸せに豊かになる社会なんて不可能である。我々は他人同士であるが故、必ず違う価値観が生まれ、それが「マジョリティ」と「マイノリティ」を生み出すのだから。それほどまでにこの世界は残酷なのだ。

 では、我々はどうすれば良いのか。どうやったら分かり合えるのか。実はその答えを、作者朝井リョウは示している
 物語終盤、「マイノリティ」側の登場人物が、「マジョリティ」側の気持ちに近づこうとする場面がある。そのきっかけは、「マジョリティ」側の苦しみや葛藤、不安を知った・理解した時である。そう、これが我々がわかり合う唯一の方法なのである。我々は互いの幸せを実現するのではなく、互いの苦しみを知る事で分かり合えることを、作者は暗示しているのではないのだろうか。幸せな人は一定数しかいないが、苦しんでる・不安がある・嫉妬やコンプレックスがある、あった人はこの世のほとんどではないか。これこそ最も大きな「マジョリティ」ではないのだろうか。
 我々の苦しみや不安という感情は、実は理解し合うのに必要なのだ。これは決して相手の苦しみを理解するという意味ではない。相手だって苦しみがあることを理解するのだ。それが我々に残された唯一の道なのだ。

 この作品では「性癖」を中心に描かれたが、これは他の場合でもいえる。健常者と障がい者、金持ちと貧乏、陽キャと陰キャ、この世に他人が存在する限り、ズレは生まれ、いずれそれは「こちら側」と「あちら側」に分ける仕切りとなる。しかし、別にその仕切りを取り払う必要なんてない。ただ丸く穴を開けて、互いに覗き込むだけで良いのだ。そして、互いに興味を持ち、仕切りが邪魔になれば、取り払えば良いのだ。
 しかしこの作品の最後は、「マイノリティ」側が救われない終わりになる。そして、「マジョリティ」側が、理解しようともせず、虐げな言葉をつらつらと語るのだ。そして、「マイノリティ」側も、どうせ理解されないと、覗き穴を塞いでしまったのだ。だが皮肉にも、これが現実なのだ。 
 実際に私もこの本を読んでも思う。私と違う「あちら側」に本当に苦しみなんてあるのだろうか。どうせ私の気持ちなど理解できないのだ、と。
 希望はあるのに残酷である。答えはわかるのに辿り着かない。この本はそんな思いをグサグサと刺してくる、そして読んだ後にどうすれば良いか考え込む作品であった。
 ただ、私はこの作品を読んで少し優しくなった気がする。他人に同じように苦しみがある、いやあるかどうかは分からずとも、ある可能性がある。それだけで少しだけ安心するのだ。この本はそういった意味でも、読む価値のある作品である。

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