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スター・ウォーズ / スカイウォーカーの夜明け

えー、EP7から始まる3部作の最終話ということだけでなく、42年前に公開されたEP4 「新たなる希望」から続くスカイウォーカー家の物語がここで終結するということで。まずはホントに終わるのか?という気持ちで観に行って来ました。「スターウォーズ EP9 / スカイウォーカーの夜明け」の感想です。

はい、ということで注目度が高い上に、ある種宗教的に崇拝(そこが「スター・ウォーズ」の面白さでもあるんですけど。)されている(からこそヘタなことも書けないという)作品なので、なかなか感想も難しいんですが。いや、まずですね、そもそも僕の「スター・ウォーズ」への向き合い方が、微妙(というか絶妙)というか。 僕は1970年生まれなので、最初の「新たなる希望」(1977年)公開当時は7歳なんですね。で、この時には劇場には観に行ってないんですよ。映画自体は幼稚園の頃から映画好きだった父に連れられて行ってたんですけど、恐らく最初に連れて行ってもらった洋画は'78年公開の「スーパーマン」なんです(当時、スーパーマンは実在すると思っていたくらいハマッてたのでよく憶えています。)。それまでは東映まんがまつりとかいわゆる子供が観る様な映画を観せられていて。だから、「スター・ウォーズ」シリーズを最初に劇場で観たのって、'80年に公開されたEP5「帝国の逆襲」だったと思うんです(10歳くらいの頃には、もう、自分の好きなものを友達と連れだって行ってたと思うので。)。で、その頃はレンタルビデオも普及してなかったし、映画のセルビデオも高かった(¥18000位してた)し、テレビでの放映もなかったはず(今、調べたら「新たなる希望」の最初のテレビ放映は’83年でした。たぶん、EP6「ジェダイの帰還」の公開に合わせた放映だったんだと思います。)なので、始まりのエピソードを観てないのにいきなり3部作の中篇を観るというかなり変則的な見方をしてるんですね。しかも、この何も始まらないし何も解決しない、ただ、登場人物たちが出て来てわちゃわちゃしてるだけのEP5が、僕は今だにシリーズ中最も好きなんです。で、このことが僕の「スター・ウォーズ」に対する見方を決定付けたと言いますか。「スター・ウォーズ」に関しては、ストーリー上よく分からないところがあってもスルーするみたいなクセがついているんですね。そのせいか、そもそも「スター・ウォーズ」が持ってる神話(マンガ的)なのかSF(現実的)なのかよく分からない設定のせいかは分からないんですが、僕にとっての「スター・ウォーズ」というのは、主人公たちがいろんな惑星に行って、いろんな星人たちと出会い、その世界の中で(戦ったり、恋愛したり、修行したり← この部分は割となんでもいい。)わちゃわちゃしてるのがただ楽しいってだけの映画だったんです。決してロジカルに観てはいけない(ロジカルに観たら、R2D2の言葉を理解出来る人とそうでない人がいるなんていう時点ですでに引っ掛かってしまうわけで。)。ある意味、映画的感性全快で観る映画だったんです。

つまり、ルークとハン・ソロの関係性とか、帝国軍と反乱軍がなぜ戦ってるのかとか、フォースとは何なのかなんてことは全然分からなくて良くて、その世界の中でトーントーンみたいな生き物が生きていたり(その生き物の腹を割いて内臓で暖をとったり)、AT-ATの様なすぐ倒れそうな乗り物で戦っていたり、小さいおじいちゃんみたいなビジュアルのヨーダが最強だったり、ハン・ソロとレイアのなんとなく秘密の恋にドキドキしたりするってことの方が重用だったわけです(「スター・ウォーズ」の面白さを人から聞かれた時に上手く答えられないのってこういうことなんじゃないかと思うんですよね。特に映画として良く出来てるわけでも革新的な面白さがあるわけでもなくて、雑で都合のいい話なんだけど、雑多な世界でみんながわちゃわちゃしてるのがいいっていう。)。

で、この雑で雑多な世界を筋のあるものにしてたのがルークの成長物語とその血筋の話だと思うんです。それがSFっていうジャンルの中で戦争とかそれに付随する政治っていう要素と絡んでいって、例えばフォースみたいな聞いたことないワードに彩られて行くのが新しかったんです。ぶっちゃけ言えば「スター・ウォーズ」って映画はそれだけでここまで押し切って来た様な作品だと思うんですね(だからこそ凄いというか、世界最高峰のカルト映画ってことですよね。)。だから、その世界設定や理屈に矛盾があっても「まぁ、今回もみんながわちゃわちゃやってたからいいか。」って感じで許されて来たんだと思うんです(正確に言えば許してくれる人たちが一定数いたということですね。)。で、そういう前提で観たら、今回の「スカイウォーカーの夜明け」は正しくそういう映画だったと思うんですよ。レイとフィンとポーは既に仲間で、その冒険にチューバッカとC3POが絡んで来て、先人としてのレイアがいて、フォースの闇の部分を象徴するレンがいて、みんながそれぞれの思惑の中で動いて、新たな惑星に行けば魅力的な新キャラが登場してっていうね。えー、それだけなんですけど。うーんと、だから、今回のシリーズはやっぱりレンの話だったと思うんですよね。フォースの光と闇の対決を描いたオリジナル(EP4~EP6)があって、なぜ闇が生まれたのかっていう過程を描いたプリクエル(EP1~EP3)があって、今回のシークエル(EP7~EP9)は、その生まれてしまった闇に憧れる者を救う話だったと思うんです。つまり、レンを救うことは同時にアナキン(ダースベイダー)を救うことにもなっていて、それって、シリーズを通したルークの想いを成就させる話だったとも言えると思うんですよね。だから、結局、同じ話になるのは致し方ないことで。スカイウォーカー家の話の最終話なんだから、これで良かったんじゃないかなという気にもなって来るんです(で、それじゃあ、レイは何だったんだよって話になっちゃうから、急に出自を示したり、レンを救う役ってことを強調する為に行き過ぎたラブ・シーンをさせる羽目になっちゃったんじゃないかなとも思うんです。あと、主役ということを強調する為のスカイウォーカー発言とかもね。)。だったら、最初からレンを主人公としたシリーズにすればいろいろ問題なかったんじゃないかなと思うんですけど、なぜ、そうならなかったかと言えば、即興リレー方式でシリーズを作っちゃったからなんですよ。

正直、僕は面白いなと思っていたところでもあるんですけど、制作がリレー式の即興劇みたいになっちゃってて。まず、最初の「フォースの覚醒」で、監督のJ.Jが「スター・ウォーズ」マナーにのっとったやり方で1本仕上げたわけですね。ただ、謎を出すだけ出して、その回収を全部続編に放り投げるってことをしたんです。次作は違う監督が撮るってことが決まってたんで。要するに「さぁ、いろんな要素入れといたんでこっから好きな様に広げてくれ。どうせ、まとめは最終章でやればいいんだから。」って感じで丸投げしたんです。そしたら、次作の監督のライアン・ジョンソンが予想以上というか、予想外にむちゃくちゃやっちゃったんですよ。あまつさえ「スター・ウォーズ」マナーなんかも全部無視して、それまでとは違う「スター・ウォーズ」を作っちゃったんです。要するに先人のやってきたことを破壊して新しいものを創造するっていうパンク的なことをやったわけです。で、そうやってめちゃくちゃになったものを「はい、次の人どうぞ。」ってリレーしようとしたんです。そしたら、最終章の「スカイウォーカーの夜明け」(つまり、今作です。)の監督として決まっていたコリン・トレヴォロウが途中で降りちゃったんですね(あまりにも前作がむちゃくちゃだったからかどうかは知りませんが。)。で、そうなると、ここまで破壊されたものをどうすんだよってことになって、ここは言い出しっぺのJ.J責任とってくれってことになったんでしょうか。自分で振り始めたこととは言え「どうするJ.J!」ってことになったっていうね。まぁ、面白いっちゃ面白いですけどね(全く上手くはいってないですけど。スクラップ&ビルドのスクラップだけやっちゃったみたいな感じになってますよね。)。うーんと、だから、そうか。観終わった瞬間は、なんていうか、42年間のサーガを見届けた満足感みたいなのがあって、割と良かったんじゃないかななんて感じてたんですけど、こうやって書いてるとあまり褒めるとこないですね(笑)。まぁ、ただ、個人的には、結局それかよって話にはなりますけど、レンを救うことでルークのシリーズを通した想いに終止符を打ったってことでフォースを巡るスカイウォーカー家の終幕としてみれば、まぁ、納得出来ないことはない!と、歯切れ悪くてすいません。

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