見出し画像

(えー、今回、僕もバンドをやってる手前、映画の核心部分に触れずには書けなかったので派手にネタバレしてます。まだ観てない方は観てから読んで頂けるとありがたいです。まぁ、ネタバレ云々という映画でもないんですが。)

大橋裕之さんの原作漫画を岩井澤健治監督が7年の歳月を掛け4万枚もの作画をひとりでやり抜き完成させた究極のD.I.Yアニメ映画『音楽』の感想です。

映画の中で不良高校生の研二たちが無意識のうちにやってる音楽ってジャンルにしたらミニマル・ミュージックなんですよね。60年代にアメリカで生まれた音楽ジャンルで、スティーブ・ライヒとかテリー・ライリーとかジョン・ケージって人が有名なんですけど、ミニマルって言葉の意味が表してる様に"必要最低限の"音の反復で出来ている音楽なんです。で、この音楽の価値は既存の音楽フォーマットありきなんですね。普通はあるべき展開とか、普通はあるべき旋律がないことにハッとする様な音楽(なので、映画の中でロックを聴き込んでいる森田くんがその演奏に衝撃を受けるのは当然と言えは当然なんです。)で、そういうものを描くのに(ひとりで手描きっていう)正しくミニマルな作り方をしてるこの映画は理に適ってるし、結果、その精神性を表すのにもベストなチョイスだったと思うんですけど。例えば、ラストのフェスのシーンで、ただ同じリズムを反復してる演奏に、観客たちがゆらゆらと踊り出すのにあまり違和感がないのは、映画自体が最初からミニマルっていうものの気持ち良さを体感させてくれていたからで。この映画自体が研二たちのやってる音楽の面白さを無意識のうちに教えてくれる様な作りになっていたからだと思うんですね。それがラストのシーケンスで結実するからあのシーンは感動的なんだと思うんです。で、それだけでも(扱っている音楽の精神性と映画のメッセージが剥離していた『セッション』なんかに比べると)、音楽映画としてめちゃくちゃよく出来ているなと思うんですけど。ただ、だからこそ、その音楽の限界というか、音楽に対する虚しさも描いちゃってると思うんですよね。そこがちょっと残念に感じたと言いますか。この映画がミニマルさの他にもうひとつ描いてるのが"無意識の力"だと思うんですけど、その"無意識の力"とバンドをやるっていうことの精神性の葛藤の話なんだと思うんです。

えーと、あの、どこか地方都市に住む(これ、背景の旨さだと思うんですけど、アニメなのに地方都市感凄かったですよね。記憶の中の故郷感というか。シラけた様な青空の感じとか。僕はこの辺りの表現でかなり引き込まれました。)研二、太田、朝倉の3人は研二がベースを手に入れたことをきっかけにバンドを始めることになるんですけど、そこに音楽やバンドをやることに対する憧れっていうのはないんですね。単純に暇だから。暇でベースがあるからバンドでもやろうかってスタンスなんです。で、音を出してみたら思いの外楽しくて、じゃあ、次に進むべき道としては誰かに聞いてもらわなくちゃだから、誰か聞いてくれる人を探そうって感じなんです(楽しくていてもたってもいられないから誰か聞いてくれっていうのではなくて、ただ、次の段階はそれだねっていう感じなんです。)。で、そうやって(物語上は)バンドをやることでなんだか暇で意味なくケンカなんかしていた日常が充実してきたみたいな雰囲気になるんですけど、それはあくまで無意識のうちになされていることなんです。

で、この"無意識性"っていうのを映画で(特にアニメで)表現するのって凄く難しいと思うんですよ。なぜなら映画って意識的に積み上げて作っていくものだからで(特にアニメーションは背景まで含めて全て計算で描いてるわけですからね。)。で、この映画はロトスコープって手法を使っているんですけど、それって、そういう意識的な演出をしない為なんじゃないかと思ったんですよね。映画を観て。えーと、ロトスコープっていうのは実際に人間が演じた映像を後からトレースして絵にするってやり方で、楽器の演奏シーンなんかの複雑な動きをアニメーションにするのには向いてるんですね。もちろん、この映画の演奏シーンもそれによってリアルなシーンになってるんですけど、個人的にはそれよりも登場人物の日常の動きに惹かれたんです。演者が何気なくやった動きをそのままトレースすることで、監督が意識的にキャラクターを動かすことを封じてると言うか、そこに正しく"無意識性"を感じたんです。で、更にそれがバンドっていう特殊な共同体を描くのにぴったりだったんじゃないかなとも思ったんですね。

バンドっていうのは他人と一緒にやるものなので、誰かひとりの精神性でやることって究極を言ってしまえば不可能なんですね。で、研二たちのバンドも、研二の"ただの暇潰しとしてバンドをやる"っていう精神性に対して、それに賛同した太田と朝倉っていうメンバーがいて成立してるわけなんですけど、研二っていうのは言ってみれば"無"なんですよ。研二の言うことに意味はないんです。その意味のないことを形にする為に太田と朝倉がいるんです(だから、じつは研二を描いても何もドラマは生まれないんですね。その無意味さに意味を見出そうとする太田や、もうひとり、研二たちの演奏に感動する森田くんがいるからドラマになっているんです。)。で、ドラムの朝倉はその意味のないことを単純に音として具現化する為の役割としているんですけど、もうひとりのベース(研二たちのバンドはベース×2、ドラム×1って編成なんです。)の太田はもうちょっと違う役割を担っていて、バンドという共同体を運営というか成り立たせる為の役割を持っているんですね(こういう人がいないとバンドは前に進んでいかないので絶対に必要な人なんですけど。)。つまり、太田には、自分たちは音楽をやっていて、それを他の人と共有したいという気持ちが少しだけあるんです。だから、研二や朝倉に比べて音楽そのものに興味を持っていて、森田くんにオススメのCDを借りたり、ライブをすることに積極的だったり、バンドをやること自体に喜びを感じているんです。でも、朝倉と、特に研二は違うんです。単純に初めて音を出した時の衝撃が続いていて、それが楽しいからやってるんです。要するに初期衝動なんですけど、この映画はその初期衝動でバンドが出来る限界というか、その終焉を描いてしまっていると思うんですよ。

だから、物語的に言ったら、バンド活動に興味を持って音楽への愛を募らせて行く太田と、音楽を知り過ぎてしまったが為に研二たちの様な初期衝動を自分は2度と出せないということに絶望する森田くんの話なんですけど、それが渾然一体となってスパークするのが最後のフェスのステージなんですね(フェスと言っても地域のお祭り的催し物のステージなんですが。)。ここ、要するに研二たちの初期衝動と無意識によるバンド"古武術"と、森田くんの覚醒によりバカテク超エモロックバンドに生まれ変わった"古美術"の合体によって、最強の音楽が生まれた的な、そういう解釈が出来る様な、要するにアガるシーンになってると思うんですけど、僕はそうじゃないと感じたんですよね。これ、無意識のうちにバンドをやること、つまり、初期衝動の敗北のシーンだと思うんです。

(これは僕の勝手な解釈なんですけど、)たぶん、森田くんは"古武術"と一緒に演奏することで初期衝動を取り戻せると思ったんじゃないかと思うんですね。でも、無理だったんですよね(森田くんが路上ライブで覚醒した時も、このフェスで " 古武術 " とのセッションが終わった後も塞ぎ込んでしまっていたのはそのせいなんだと思うんです。)。結局、自分には知識とテクニックしかなくて(いや、それがあることは素晴らしいと思いますけど。)、それでは"古武術"の持ってる"無意識性=純粋さ"には勝てないと感じたんだと思うんです(しかも、もうそれは自分には取り戻せないんだと。)。で、それを決定的にしたのは研二自身の笛の演奏で(なぜ笛かは映画を見て下さい。ここ最高に面白かったんで。)、あの演奏が出来るってことは研二にはもともと音楽の素養があったってことですよね(つまり、研二は天才だったってことです。)。だから、研二はあえて、あの意味のない音楽をやりたかったんだと思うんです。だけど、あのステージを見て、それはもう出来ないんだと直感したんじゃないかと思うんですよ。それは"古美術"の超絶エモーショナルな演奏と合体したからというよりは、太田のせいだと思うんです。太田はあのステージで弦をスライドさせるっていうテクニックを初めて使うんですね。で、それはいろんな音楽を聴いたり、個人的にベースを練習したりしていた中から出て来た「この演奏を音楽にしたい。」っていう意識的なもので、無意識の中から出て来たものではないんですね。それを感じて研二はあの笛の演奏をしたんじゃないかと思うんです。結果的にステージは盛り上がったけど、それは研二がやりたいことではなくなってしまったと。だから、研二はこのステージを最後にバンドを辞めてしまうんです。

つまり、この映画で言ってる"音楽"というのは、無意識のうちに鳴らした初期衝動の一発だってことだと思うんですけど、僕が残念だと言ったのは、個人的に"音楽"というのはそれを知った後にあるものだと思っていて。その初期衝動の無意識のうちに鳴らされた一発というのをその後も追い求め続けるのが音楽(バンド)をやるってことだと思うから(だし、そういうバンドを沢山知ってるから)なんです。だから、本当に"音楽"を描くのであれば太田と森田くんのその後こそを描くべきなんじゃないかと思ったんです(いや、たぶん違いますね。正直に言うと、ほんとに残念だったのはこの映画の結論ではなくて、「確かに最高の音楽を求めるならあそこで辞めて正解だよ。」って研二に対して思ってしまった自分自身の弱った心と、バンド界隈を取り巻く現状のせいかもしれません。)。

はい、ということで、まぁ、結末に関する解釈は多分に僕の現在の精神状態を含んでしまってるのでアレですけど、音楽映画として音楽の無意識性とか匿名性とか、純粋に音楽そのものを描いてるのはとても面白かったですし、そのテーマにそって坂本慎太郎さんを研二役に起用したのはほんとに大正解だったと思います。研二は音楽を辞めてしまいましたけど、坂本さんは今だに新しい音源を出す度に、更なる無意識性と初期衝動を感じさせてくれてるので、もしかすると、それこそが答えだってことなのかもしれないですね。

http://on-gaku.info/

サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。