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聖なる鹿殺し

えー、前回ミヒャエル・ハネケ監督の「ハッピーエンド」の感想を書きましたけど、じつは同じ日、その「ハッピーエンド」の直後にこの「聖なる鹿殺し」を観たんですね。で、ああ、完全に観る映画のチョイス失敗したなと思ったんです。監督の前作「ロブスター」も観ていて、その時はそんなに思わなかったんですけど、この「聖なる鹿殺し」かなりハネケっぽいんですよね。つまり、人に対する悪意と、皮肉と、不快感が満載の映画なんです。(しかも、大事なところはほとんど説明してくれないので、普通に観てたら意味不明なところが多くて、こっちで考えて解釈していかないと何のことやらさっぱりなんです。)そういう映画、どっちかと言えば好きなんですが、これが2本連続となると、もう2本目は考えるの放棄ですよ。『ああ、2本目は「リメンバー・ミー」にしとけば良かったな~。』そう思いながら観て来ました。ヨルゴス・ランティモス監督の「聖なる鹿殺し」の感想です。

はい、まず、「聖なる鹿殺し」ってタイトルですが、別に鹿も出てきませんし、殺しもしません。まぁ、いかにも、何か意味ありげではあるんですけど、今回、こういうのは全部スルーしますね。(もう、「ハッピーエンド」の解釈で疲れたので。)で、こういう何か意味ありげなプロットを全部スルーしていきますと、割とマンガっぽい話なんですよね。(最初は社会派な感じで始まったのに、途中から完全に荒唐無稽になっていく70年代のホラーマンガみたいだなと。だから、前回、「ハッピーエンド」で、ハネケは人間の狂気に対して更に踏み込んだって書いたんですけど、これは踏み込まないバージョンのハネケ作品に近いんですよね。「ファニーゲーム」とか。プロットだけ見たらかなりマンガっぽいですしね。「ロブスター」もそういうバランスの映画でした。)えーと、話としては、中年の心臓外科医がいるんですけど、このお医者さんの患者で手術中に亡くなってしまった人がいて、その人に息子がいたんです。で、医者はその子のことを自分の子供の様に面倒見ていて、男の子の方も無くなった父親代わりだと感じている様なんです。で、たまに会って食事したりしてたんですけど、自分の家族に紹介しようってことになって、(家には、この男の子と同い年位の長女と、その弟、妻がいるんですが。)食事に招待するんですね。で、男の子と医者の家族は親交を深めていくことになるんですが…っていうのがいわゆる映画のフリの部分です。この時点でヤバーくなりそうなプロットがだいぶ仕掛けられているんですが、そういううがった見方をしなければというか、こうやって文章だけで見たら割かしハートウォーミングな展開も期待出来そうな設定ですよね。なんですけど、この監督の映画、このフリの時点からめちゃくちゃ不穏なんですよ。(本来は、ホラー映画であれば、フリの時点ではこの不穏さはバレない方がいいんですけどね。)でね、それは主にキャラクターたちの見た目に起因しているんです。

この自分の父親を手術中に亡くして、その手術をしてた医者になついている(この時点でもうそうとうおかしいですけどね。)男の子マーティンていうんですけど、この子が、登場した時点ですでに「あ、こいつヤバイな。」って雰囲気満載なんですよ。なんていうか、脳に酸素が行き渡ってないって言うか、ボンヤリしていて、ちょっと何考えてるか分からない感じなんですよね。(で、まぁ、結局最後まで何考えてるかは分からないんですけど。)だから、最初の時点で医者が何の為にこの子を構っているのか理由がよく分からなくて、その分からないままヤバみだけが増して行くって感じなんです。なので、このマーティンがヤバイやつって認識で映画を観ていくんですけど、個人的にはそれよりも、主人公のスティーブンていう医者のおっさん。この人がですね、(あの、「ロブスター」の主人公もそうだったんですけど、)この監督、こういう小太りで毛だらけなんだけど、金持ちそうで一見清潔感のあるオヤジ好きですよね。僕は、この一見清潔感があって服装とかもちゃんとしてるのに脱ぐと身体がだらしないおっさんダメなんですよ。(自分もおっさんだから言いますけど、)正直気持ち悪い。でね、これはわざとやってるんですよ。監督が。だって、主演のコリン・ファレル(ちなみに「ロブスター」の主人公もコリン・ファレルです。)って、この監督の映画じゃない時ってこんなじゃないんですもん。ちゃんとスタイルいいんですもん。わざとだらしなく太らせて、それでわざと脱がせてるんですよ。(ほんとに悪意を感じます。)だからさぁ、ヨルゴス監督は、こういうオヤジがニコール・キッドマンみたいなキレイな奥さんもらって、かわいい子供ふたりも作って、いい家に住んでっていうのがほんとに許せないんだろうなと思いますよね。(「ロブスター」の主人公もこの映画の医者も徹底的に酷い描かれ方するので。)

でもね、ほんとにそういう映画なんですよ。なんていうか、人間て裏を返すまでもなく裸にしたらほんとに気持ち悪いっていうか。あの、金持ちの奥さんで旦那が変態っていう役どころをニコール・キッドマンが演じてるので、どうしても、キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」を思い出しますけど。それだけじゃなくて、先に上げた「ファニーゲーム」もそうだし、見終わった後のポカーンって感じは去年公開された韓国映画の「コクソン」みたいだし、全体的な不穏感は「メッセージ」や「ブレードランナー2049」で人気監督になったドゥニ・ビルヌーブの「複製された男」なんかにも近いんですよね。近いというか、そういう変態映画の気持ち悪いとこを抽出したみたいな。だから、今上げた映画全部気持ち悪いと言えばそうなんですけど、例えば、「アイズ・ワイド・シャット」が気持ち悪さよりも映画としてのスタイリッシュさが勝ってた様に、「ファニーゲーム」が気持ち悪さよりも狂気が勝ってた様に、「コクソン」が気持ち悪さよりも映画的展開の面白さが勝ってた様に、「複製された男」が気持ち悪さよりも不穏さが勝ってた様に、この「聖なる鹿殺し」は、スタイリッシュであり、狂気であり、展開も斬新で不穏なんですけど、そのどれよりも人間の気持ち悪さの方が勝っている映画なんです。

で、そのマーティンと医者のスティーブンとの気持ち悪い合戦みたいになって行くんですけど、マーティンはある意味純粋なんですよね。要求が。それに比べてスティーブンの方は全て手に入れて自分は分かってると思ってた人の驕りなんです。その驕りの部分を純粋な狂気で責められるという、純粋さと不純さの狂気一騎討ちみたいな展開にね、要するに純粋に狂ってる人と自分は常識人で他人に対してマウント取って来てるけどお前もそうとうおかしいぞっていう、どっちが狂ってるかみたいな、そういう展開になって行くんです。(何の闘いか分からないけど、何だか凄い対決が行われてるっていう感じがとても「コクソン」ぽかったですよね。) で、そもそもそこに常識とか正義とか倫理とか、人が人たる所以の物が無い世界の話なので、人たり得ない様なことが起こっても、まぁ、不思議じゃないと言いますかね。

そうやって観てるこっちのタガを外していく仕掛けみたいなのは割と丁寧にやってくれてるんですよね。(最初にも書きましたけど、恐らくいろいろな暗喩みたいなものはある映画だと思うんですけど、さっき書いた様に、この映画自体が途中でそういうのを反故にする様な展開を見せるんです。「考えても無駄」みたいな。)ただですね、その展開の飛距離が小さいと言いますか、マーティンが覚醒してからとるスティーブン家の人々の行動とか、(こういう人間の嫌なところ描きます系映画としては)割とベタですしね。音楽もベタっちゃベタなので。個人的には、どこかで「アイズ・ワイド・シャット」のニコール・キッドマンの「FUCK!」っていうのとか、「コクソン」の國村隼の写真を撮るシーンとか、「複製された男」の巨大グモとか、ああいう一発で凄い飛距離出るやつがあるとより好みだったと思うんですよね。だから、たぶん、ほんとにヨルゴス監督は、真摯に「ああ、人間て気持ち悪い。」ということを描きたかったんじゃないでしょうか。(そういう飛距離出る様なキャッチーさはいらないみたいな。)もしくは、ヨルゴス監督自身の変態欲求に従順に映像化したらこうなっただけかもしれないです。なぜなら、試しにヨルゴス監督を画像検索してみたら、まるっきりこの映画の主人公みたいな風貌だったので。(しかし、この映画が存在することで、「アイズ・ワイド・シャット」と「ファニーゲーム」と「コクソン」と「複製された男」が同じ系譜の映画になるのって、それだけでそうとう面白いですね。)

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