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ゼロックスのパーソナルコンピューター「アルト」

Alto

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Alto

縦型ディスプレイ、キーボードとマウスを備えたXerox Alto
開発元XeroxPARC製造元Xerox PARC発売日1973年3月1日 (51年前)標準価格US$32,000 in 1979 (2020年時点の$110,467と同等)[1][2]出荷台数Alto I: 120
Alto II: 2,000[3]対応メディア2.5 MB hard disk that used a removable 2.5 MB single-platter cartridgeter[4]OSAlto Executive (Exec)CPUTTL-based, with the ALU built around four 74181MSIchips. It has user programmable microcode, uses big-endian format and a CPUclock of 5.88 MHz[5][4]メモリ96[6]-512 kB (128 kB for 4000 USD)[4]ディスプレイ606×808 pixels[4]入力機器Keyboard, 3-button mouse, 5-key chorded keyboard外部接続Ethernet関連商品Xerox Star; Apple Lisa, Macintosh
Altoアルト)は、後にデスクトップ・メタファーを使用し、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) をベースにしたオペレーティングシステム (OS) をサポートするように設計された最初のコンピュータである[7][8]。最初のマシンは1973年3月1日に動き始めた[9]Appleが大規模市場向けGUI搭載パソコン「Macintosh」を発表する10年以上前のことである。
Altoは比較的小さなキャビネットに収められ、複数の小規模・中規模集積回路から作られたカスタム中央処理装置 (CPU) を使用している。10年 - 15年後の「パーソナルコンピュータ」の一般的な性能を想定して設計されたため、マシン1台当たりのコストは高級車の販売価格に達した。当初は少数しか製造されなかったが、1970年代後半までに、ゼロックスの様々な研究所で約1,000台、いくつかの大学では約500台が使用されていた。製品化計画もあったが、社内での駆け引きに敗れ一旦は破棄された。しかし1977年11月の社内向けカンファレンス「フューチャーズ・デイ」での成功をうけてゼロックス本社上層部の興味を引き、1970年代終盤にはホワイトハウスなど限られた顧客にも販売されるなどして[10]、総生産台数は試作機としては異例の約2,000台に達した。
Altoはシリコンバレーでよく知られるようになり、そのGUIはコンピューティングの未来とみなされるようになった。1979年、スティーブ・ジョブズ (Steve Jobs) とビル・ゲイツ(Bill Gates)はパロアルト研究所 (PARC) への訪問を手配した。Apple Computer(現:Apple)は従業員がゼロックスの技術のデモンストレーションを受ける代わりに、ゼロックスがAppleのストックオプションを購入できるようにした[11]。2人は別の日時に複数回に渡ってAltoを見学した後、AppleとMicrosoftの技術者たちは、そのコンセプトを利用して、Apple LisaMacintoshと Windowsを開発・発表した。またXerox社は2人に1ダース以上のAltoを提供した。
ゼロックスは最終的に、Altoで培われたハードウエア技術を転用し、PARCとは別の部署で秘密裏に開発を進めていたOSを搭載したGUI搭載ワークステーション「Xerox Star」を商品化し、1981年に最初に販売した。完全なオフィスシステムは、数台のワークステーション、ストレージ、レーザープリンターを含み10万ドルもしたため、同じく高価格路線で商業的に失敗したApple ComputerのLisaと同様に、Starは市場に直接的な影響を与えることはほとんどなかった。

歴史[編集]

Altoは、SRIインターナショナル (SRI) のダグラス・エンゲルバート (Douglas Engelbart) とダスティン・リンドバーグ (Dustin Lindberg) によって開発された oN-Line System (NLS) に触発されて、1972年にバトラー・ランプソン (Butler Lampson) が書いたメモの中で考案された。設計は主にチャールズ・P・サッカー (Charles P. Thacker) が担当した。工業デザインと製造はゼロックスに委託され、そのスペシャルプログラムグループのチームには、プログラムマネージャーとしてダグ・スチュワート (Doug Stewart)、アビー・シルバーストーン・オペレーションズ (Abbey Silverstone Operations)、工業デザイナーのボブ・ニシムラ (Bob Nishimura) が含まれていた。最初の30台はゼロックスエルセグンド(スペシャルプログラムグループ)によって製造され、PARCのジョン・エレンビー (John Ellenby)、エルセグンドのダグ・スチュワート(Doug Stewart)、アビー・シルバーストーン (Abbey Silverstone) とともに、Altoのエレクトロニクスの再設計を担当した。パイロット運転の成功により、チームはその後10年間で約2,000台を生産した[12]
Xerox Altoのシャーシは現在、カリフォルニア州マウンテンビューコンピュータ歴史博物館に数台、ジョージア州ロズウェルのコンピュータ博物館に1台が展示されており、個人の手に渡ったものもある。ランニングシステムは、ワシントン州シアトルのリビングコンピュータ博物館 (英語版) に展示されている。Charles P. Thacker は、Alto の先駆的な設計と実現により、2010年3月9日に Association for Computing Machinery の 2009 チューリング賞 を受賞した[13]。2004年のチャールズ・スターク・ドレイパー賞は、Altoに関する研究に対してThacker、アラン・ケイ (Alan C. Kay)、Butler Lampson、ロバート・テイラー (Robert W. Taylor) に授与された[14]
2014年10月21日、Xerox Altoのソースコードやその他のリソースがコンピュータ歴史博物館から公開された[15]

アーキテクチャ[編集]

以下の記述は、主にゼロックスPARCの1976年8月発行のAlto Hardware Manual[16]に基づいている。
Altoはマイクロコード化されたデザインを使用しているが、多くのコンピュータとは異なり、層状化デザイン上でマイクロコードエンジンはプログラマから隠蔽されなかった。ピンボールなどのアプリケーションは、これを利用してパフォーマンスを高速化している。Altoは、Texas Instruments74181チップをベースにしたビットスライス算術演算論理ユニット (ALU) を搭載し、書き込み可能なコントロールストア拡張機能を備えたROMコントロールストアを備え、16ビットワードで構成された128 kB (512 kBに拡張可能) のメインメモリで構成されている。大容量記憶装置は、IBM 2310で使用されていたものと同様の着脱可能な2.5MBのワンプラッタカートリッジ(後にゼロックスが買収したDiablo Systems社)を使用したハードディスクドライブを使用している。ベースマシンとディスクドライブ1台は、小型冷蔵庫ほどの大きさのキャビネットに収められ、デイジーチェーンを介してもう1台のディスクドライブを追加することができる。
Altoは機能要素間の線引きを曖昧にしたり、無視したりしていた。ストレージや周辺機器への電気的インタフェースシステムバスなど)が明確に定義されている個別の中央処理ユニットではなく、Alto ALUはメモリや周辺機器へのハードウェアインタフェースと直接相互作用し、コントロールストアから出力されるマイクロ命令によって駆動される。マイクロコードマシンは、固定の優先度を持つ最大16の協調タスクをサポートする。エミュレータタスクは、ほとんどのアプリケーションが書かれた通常の命令セットを実行するが、その命令セットはData General Nova[17]の命令セットと似ているものの同じではない。その他のタスクは、ディスプレイ、メモリリフレッシュ、ディスク、ネットワーク、その他のI/O機能を実行する。例として、ビットマップ表示コントローラは16ビットのシフトレジスタに過ぎず、マイクロコードは、表示リフレッシュデータをメインメモリからそのシフトレジスタに移動し、メモリデータの1と0に対応する表示画素にシリアル化する。イーサネットも同様に、最小限のハードウェアでサポートされており、出力ワードのシリアル化と入力ワードのデシリアル化を双方向に行うシフトレジスタを備えている。その速度が3Mビット/秒に設計された理由は、マイクロコードエンジンはこれ以上高速化することができず、ビデオ表示、ディスクアクティビティ、メモリリフレッシュをサポートし続けるためである。
当時のほとんどのミニコンピュータとは異なり、Altoはユーザインタフェース用のシリアルターミナルをサポートしていない。イーサネット接続を除けば、Altoの唯一の共通出力デバイスは、傾斜&回転の台座を備えた2値 (白黒) ブラウン管 (CRT) ディスプレイで、一般的な「横向き」ではなく「縦向き」に取り付けられた。入力デバイスは、カスタムの着脱式キーボード、3ボタンマウス、オプションの5キー・コードキーボード (英語版) (コードキーセット)である。この2つはSRIのOn-Line Systemで導入されたもので、マウスはAltoユーザーの間で瞬く間に成功したが、コードキーセットは人気が出なかった。
初期のマウスでは、ボタンは3本の細い棒状で、左右ではなく上下に配置されて、ドキュメント内での色にちなんで命名された。動きは、互いに直角に配置された2つの車輪で感知されていた。これらはすぐに、ロナルド・E・ライダーが発明してビル・イングリッシュが開発したボールタイプのマウスに取って代わられた。これらは、フォトメカニカルマウスで、最初は白色光で、次に赤外線 (IR) を使用して、マウス内の車輪の回転をカウントした。
このキーボードは、各キーが一連のメモリロケーションにおいて個別のビットとして表わされる点で興味深いものがある。その結果、複数のキーを同時に読み取ることができる。この特性を利用して、ディスク上のどこからAltoを起動するかを変更できる。キーボードの値は、起動するディスク上のセクタアドレスとして使用され、特定のキーを押しながら起動ボタンを押すと、異なるマイクロコードやオペレーティングシステムをロードすることができる。これは「ノーズブート」(nose boot) という表現を生み出し、テストOSリリースの起動で必要なキーにが、思いつくよりも多くの指が必要であった。ノーズブートは、指定されたキー配列を使用できるようにディスク上のファイルをシフトする move2keys プログラムによって廃止された。
テレビカメラ、Hy-Type デイジーホイールプリンター、パラレルポートなど、他にもいくつかのI/OデバイスがAlto用に開発されたが、これらは非常に稀であった。Altoはまた、ファイルサーバとして動作するように外部ディスクドライブを制御することができた。これはマシンの一般的なアプリケーションである。

ソフトウェア[編集]

Altoの初期のソフトウェアはプログラミング言語BCPLで記述され、後にMesa[18]で記述された。この言語はPARCの外では広く使われていなかったが、Modulaのような後のいくつかの言語に影響を与えた。Altoは初期バージョンのASCIIコードを使用していたが、これはアンダースコア文字を欠き、代わりにALGOL 60や多くの派生で使用されている左矢印文字を代入演算子に使用した。この特殊性が、複合識別子キャメルケーススタイルのソースであった可能性がある。また、Altoはユーザーがマイクロコードでプログラムすることも可能であった[16]
Altoは、テキストやグラフィックを含むすべての出力でラスターグラフィックモデルの使用を普及させるのに貢献した。また、ディスプレイへの基本的なプログラミングインタフェースとして、ビットブロック転送操作(ビットブリット、BitBLT)の概念を導入した。その小さなメモリサイズにもかかわらず、以下のような多くの革新的なプログラムがAltoのために書かれた。

表計算ソフトやデータベースソフトウェアはなかった。そのようなソフトはメインフレームなどには存在したが、個人が専有して使用するコンピュータ向けに販売された最初の表計算ソフトであるVisiCalcが登場したのは1979年のことである。

暫定ダイナブック[編集]

詳細は「暫定ダイナブック」を参照
アラン・ケイらによってAlto上で開発された世界初のGUIベースのオペレーティングシステム (OS) 的存在であるSmalltalkは、パーソナルコンピューティングの方向性をエンドユーザーに示すだけでなく、オブジェクト指向の概念を本格的に取り入れた設計で開発者にもアピールし、このときのオブジェクト指向によるOS(APIフレームワーク)設計は、現在最先端と言われるOSにも今なお色濃い影響を与え続けている。
1970年代半ばにはすでに、ウインドウシステム、メニュー操作、アイコン付きパレット、WYSIWYGエディタなど、現在のパソコンに匹敵する特徴も備えていた。出資受容の条件に要求してこれを見た、Apple Computerのスティーブ・ジョブズに大きな影響を与え、LisaMacintoshを開発させるきっかけとなったとともに、PARCからAppleへの転職が相次いだ。

普及と進化[編集]

技術的には、Altoは小型のミニコンピュータであったが、当時のメインフレームコンピュータや他のミニコンピュータとは対照的に、一人で机に座って使用するという意味では、パーソナルコンピュータと見なすことができた。それは間違いなく「最初のパーソナルコンピュータ」であったが、このタイトルについては他の人々の議論がなされている。より重要なことは(おそらく議論の余地は少ないが)、Unixオペレーティングシステムに基づくApolloや、開発環境としてLispをネイティブに実行するように設計されたSymbolicsのシステムのようなシングルユーザーマシンのスタイルの最初のワークステーションシステムの1つであると考えられている[23]
1976年から1977年にかけて、スイスのコンピュータのパイオニアであるニクラウス・ヴィルト (Niklaus Wirth) はPARCでサバティカルを過ごし、Altoに興奮していた。Altoシステムをヨーロッパに持ち帰ることができなかったヴィルトは、ゼロから新しいシステムを作ることを決意し、彼のグループと一緒にLilithを設計した[24]。Lilithは1980年頃に完成したが、これはApple LisaApple Macintoshが発売されるかなり前のことである。1985年頃、Wirthは「Project Oberon」という名前でLilithの全面的な再設計を開始した。
1978年、ゼロックスは50台のAltosをマサチューセッツ工科大学スタンフォード大学カーネギーメロン大学[18]ロチェスター大学[25]に寄贈した。メリーランド州ゲイザースバーグにある国立標準局コンピュータ科学研究所 (現在のNIST) には、1978年後半に1台のAltoが、Xerox Interim File System (IFS) ファイルサーバーとDoverレーザープリンターとともに寄贈された。これらのマシンは、ETH Zürich LilithやThree Rivers CompanyのPERQワークステーション、そして最終的にスピンオフ企業であるサン・マイクロシステムズによって販売されたStanford University Network (SUN) ワークステーションにインスピレーションを与えた。Apollo/Domainワークステーションは、Altoの影響を強く受けた。
Altoの取得後、ホワイトハウスの情報システム部門は、連邦政府のコンピュータ・サプライヤーをその方向に導こうとした。米国大統領府(EOP) は、IBM互換のメインフレームに接続されたAltoのようなワークステーションを使用して、老朽化した行政管理予算局 (OMB) の予算システムに代わるコンピュータシステムの提案を要請した。そのような構成を提供できるメインフレームメーカーがなかったため、この要請は最終的に取り下げられた。
1979年12月、Apple Computerの共同創設者であるスティーブ・ジョブズ (Steve Jobs) はPARCを訪れ、Smalltalk-76オブジェクト指向プログラミング環境、ネットワーク、そしてもっとも重要なのはAltoが提供するマウス駆動のGUIであるWYSIWYGを見せられた。当時、彼は最初の2つの重要性を認識していなかったが、最後の1つには興奮し、すぐにそれをAppleの製品(最初はLisa、次にMacintosh)に統合し、彼の会社で働くために何人かの重要な研究者を引きつけた。
1980年から1981年にかけて、PARCやXerox System Development Departmentの技術者たちは、Xerox Altoを使ってXerox Starワークステーションを設計した。

ゼロックスとAlto[編集]

ゼロックスはPARCで開発された技術の価値に気づくのが遅れていた[26]。1960年代後半にゼロックスがScientific Data Systems(SDS、後のXDS)を買収しても、PARCには何の関心を持たなかった。PARCはDigital Equipment Corporation (DEC) のPDP-10を独自にエミュレーションしてMAXCと名付けた[27]。MAXCはARPANETへのゲートウェイマシンであった。同社は商業的にテストされていない設計でコンピュータ事業に再び参入することに消極的であったが、その哲学の多くは後の製品に搭載されることになる。
Byte誌は1981年に次のように述べている[18]

コンピュータサイエンスの研究コミュニティ以外の人がAltoを買うことはまずないであろう。これらは商業販売を目的としたものではなく、ゼロックスの開発ツールとしてのものであり、大量生産されることはない。彼らに言及する価値があるのは、明日のパーソナルコンピュータの多くがAltoの開発から得られた知識で設計されるという事実である。

Altoの後、PARCは、非公式には「Dマシン」と呼ばれている、より強力なワークステーションを開発した(いずれもプロジェクトとして意図されたものではない[要説明])。Dandelion(最も強力ではないが、唯一製品化された)、Dolphin、Dorado(最も強力で、エミッタ結合型ロジック (ECL) マシン)、そしてDandel-Irisなどのハイブリッド機である。
1977年のApple IIや 1981年のIBM Personal Computer (IBM PC) などのパーソナルコンピュータが登場するまでは、コンピュータ市場は、中央コンピュータの処理時間をタイムシェアするダム端末を搭載した高価なメインフレームと、ミニコンピュータに支配されていた。1970年代を通じて、ゼロックスはPARCの研究に興味を示さなかった。ゼロックスが「Xerox 820」でPC市場に参入したとき、彼らはAltoのデザインを大幅に否定し、代わりに当時の標準であった80×24文字のみのモニタとマウスを持たないCP/Mベースの非常にオーソドックスな機種を選択した。
その後、PARCの研究者の助けを借りて、ゼロックスは最終的にDandelionワークステーションをベースとする「Xerox Star」を開発し、その後、コストを抑えた「Star」であるDaybreakワークステーションをベースにしたオフィスシステム「6085」を開発した。これらのマシンは、バトラー・ランプソン(Butler Lampson)の論文で説明されている「Wildflower」(ワイルドフラワー)アーキテクチャに基づいており、アイコン、ウィンドウ、フォルダーからなるGUI、イーサネットベースのローカルネットワーキング、ネットワークベースのレーザープリンタサービスなど、Altoの革新的な機能のほとんどが組み込まれていた。
ゼロックスが自分たちの間違いに気付いたのは、1980年代初頭、Apple ComputerのMacintoshがビットマップディスプレイとマウス中心のインタフェースによってPC市場に革命を起こした後のことである。これらはいずれも「Alto」からコピーされたものである[26]。Xerox Starシリーズは商業的には比較的成功を収めたが、遅すぎた。高価なゼロックスのワークステーションは、初代Macintoshの後に登場した安価なGUIベースのワークステーションに対抗することができず、ゼロックスはワークステーション市場から完全に撤退してしまった。

参照項目[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ Federal Reserve Bank of Minneapolis Community Development Project. "Consumer Price Index (estimate) 1800–" (英語). Federal Reserve Bank of Minneapolis. 2019年1月2日閲覧。

  2. ^ Wadlow, Thomas (1981). “The Xerox Alto Computer”. Byte Magazine 6 (9).

  3. ^MP3 Audio of Ron Cude talking about the 1979 Boca Raton Alto Event. The DigiBarn Computer Museum, 2003.

  4. ^ abcdHistory of Computers and Computing, Birth of the modern computer, Personal computer, Xerox Alto”. 2016年4月19日閲覧。

  5. ^Alto I Schematics”. Bitsavers. p. 54. 2016年7月21日閲覧。

  6. ^Alto Operating System Reference Manual. Xerox PARC. (26 June 1975). p. 2 2016年7月21日閲覧。

  7. ^ Koved, Larry; Selker, Ted (1999). Room with a view (RWAV): A metaphor for interactive computing.. IBM TJ Watson Research Center.

  8. ^ Thacker, Charles P., et al. Alto: A personal computer.Xerox, Palo Alto Research Center, 1979.

  9. ^Archived copy”. 2013年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月25日閲覧。

  10. ^ 「フューチャーズ・デイがもたらした重要な結果の二番目は、妙な話だが、アルトの商品化計画が正式に起案されたことだ。」 マイケル ヒルツィック著 『未来をつくった人々―ゼロックス・パロアルト研究所とコンピュータエイジの黎明』 鴨澤 眞夫訳、毎日コミュニケーションズ、2001年、386頁

  11. ^The Xerox PARC Visit”. web.stanford.edu. 2018年9月2日閲覧。

  12. ^ "The History of the Xerox Alto". Carl J. Clement. March, 2002.

  13. ^ Virginia Gold. “ACM Turing Award Goes to Creator of First Modern Personal Computer”. Association for Computing Machinery. 2011年1月11日閲覧。

  14. ^"2004 Recipients of the Charles Stark Draper Prize"

  15. ^ McJones, Paul (2014年10月21日). “Xerox Alto Source Code - The roots of the modern personal computer”. Software Gems: The Computer History Museum Historical Source Code Series. Computer History Museum. 2015年1月8日閲覧。 “With the permission of the Palo Alto Research Center, the Computer History Museum is pleased to make available, for non-commercial use only, snapshots of Alto source code, executables, documentation, font files, and other files from 1975 to 1987.”

  16. ^ abAlto Hardware Manual”. bitsavers.org. ゼロックス. 2019年7月17日閲覧。

  17. ^Alto: A Personal Computer System”. p. 13 (1974年12月). 2020年8月10日閲覧。

  18. ^ abc Wadlow, Thomas A (1981年9月). “The Xerox Alto Computer”. Byte: pp. 58 2013年10月19日閲覧。

  19. ^ Douglas K. Brotz (1981年5月). “Laurel Manual”. ゼロックス. 2020年8月10日閲覧。

  20. ^ Mark Ollig (2011年10月31日). “They could have owned the computer industry”. 2020年8月10日閲覧。

  21. ^Xerox Star”. The History Of Computing Project. 2020年8月10日閲覧。

  22. ^ Kay, Alan (March 1993). “The early history of Smalltalk” (PDF). HOPL-II The second ACM SIGPLAN conference on History of programming languages (ACM) 28 (3): 69-95 2017年9月4日閲覧。.

  23. ^Personal Computer Milestones”. Blinkenlights Archaeological Institute. 2006年12月31日閲覧。

  24. ^Lilith Workstation”. 2017年1月3日閲覧。

  25. ^ Denber, Michel (1982年2月). “Altos Gamesmen”. Byte: pp. 28 2013年10月19日閲覧。

  26. ^ ab Douglas K. Smith; Robert C. Alexander (1988). Fumbling the Future: How Xerox Invented, Then Ignored, the First Personal Computer. New York: William Morrow. ISBN978-0688069599

  27. ^ Edward R. Fiala (May 1978). “The Maxc Systems”. Computer.

Notes

  • Alto User's Handbook, Xerox PARC, September 2013

推薦文献[編集]







先駆者たちの物語The Suntory Family

A story of
pioneers

〜ジャパニーズウイスキーの創業家一族は、人間の生命(いのち)の輝きをめざし、どのような社会と文化を創ろうとしてきたのか〜

Chapters

Introduction

鳥井 信治郎(1879 - 1962)

佐治 敬三(1919 - 1999)

鳥井 信吾(1953 - Present)

PHOTOGRAPHY BY CAIT OPPERMANN AND FROM PAST PHOTO ARCHIVES

京都の南西、天王山の麓。地下水系から湧き出す清冽な水の流れは、中世最大歌人の一人、後鳥羽天皇をはじめとして、いにしえより和歌に詠まれ、豊かな情感をかき立ててきた。青々と生い繁る竹林の斜面に、日本で最初の、そして愛され続けてきたモルトウイスキー蒸溜所が姿をあらわす。ゆるやかな丘をのぼり、奥へと踏み入っていく人は、100年前に鳥井信治郎が抱いた遥かな夢の中に入っていくことになる。鳥井信治郎は、ジャパニーズウイスキー産みの親だ。当時、まだウイスキーの味を知らなかった多くの日本人に、ウイスキーのほんとうの美味しさを知ってほしい。自分たちの手で、日本人の味覚に合った本格・本物のウイスキーをつくりたい。そんな見果てぬ夢を抱いた信治郎が、この地で山崎蒸溜所の建設に着手したのは、1923年のことだった。洋酒が日本の市場の1%にも満たなかった時代。それは、誰が見ても無謀な試みだった。

「わしがウイスキーをつくるのは、日本の事業家が誰一人手を出そうとせんからや。」彼は決然としてそう語ったという。

「わしがウイスキーをつくるのは、日本の事業家が誰一人手を出そうとせんからや。」鳥井 信治郎

夢想家でありながら現実的な人間などいるだろうか。彼らは、愚か者の烙印を押されたり、手痛い失敗を冒すリスクがあっても、決してあきらめず、へこたれず、ほかの誰も見ることのできない夢を見つづけることで、偉大なことを成し遂げる人間だ。鳥井信治郎は、まさにそういう男だった。日本人自らの手による国産ウイスキーの市場を創造することができる。かたくなにそう信じていた。彼には、日本酒や焼酎ではない、洋酒に新しい楽しみを求める新しい世代が見えていた。彼にとっても、彼のレガシーを受け継ぐ今日のサントリーにとっても、ウイスキーはただ酔うためのものではなく、飲んで心に豊かさをもたらすものだ。人と人をより近づけ、喜びや感動を生み出す。それがサントリーウイスキーなのだ。

「子どもの頃から、私たちの事業は、常に人々の幸せに関わっていると教えられてきました。」

そう語るのは、信治郎の曾孫で、サントリーホールディングス副社長の一人である鳥井信宏だ。彼は、ウイスキー、ビール、ワイン、清涼飲料、健康食品、さらには文化事業や社会貢献の取り組みに至るまで、グローバルに広がるサントリーの経営権を共有する創業家の一人だ。サントリーと競合他社の違いは何かと問われて、信宏はこう答えた。
「創業家が経営に深く関わることが、大きな違いを生み出しているということに気がつきました。私たちは、他社とは異なる時間感覚をもっています。私たちがマスターブレンダーの家系であること。100年にも及ぶ歳月、ものづくりの先頭に立ってきたこと。それが、サントリーをサントリーたらしめているのです。」

「真の成功のためには失敗を避けて通れません。成功につながる学びを得るのは、失敗したときなのです。」鳥井 信宏

《山崎》や《白州》のようなトラディショナルなシングルモルトから、サントリーウイスキーの礎をつくり、時代を超えていまでもベストセラーとして確固たる地位を築いている《角瓶》、さらには、海外でもブレンデッドウイスキーの地位を変えた《響》まで。サントリーはジャパニーズウイスキーの代名詞となり、繊細で複雑、洗練された香味で世界中の愛好家を魅了することで知られている。
いまとなっては想像できない。わずか100年前まで、ジャパニーズウイスキーなど存在しなかったということも。信治郎がジャパニーズウイスキーを世に出すまでに、何度となく失敗を重ねなければならなかったことも。
「成功するのは簡単なことではありません」と、信宏は言う。「なぜなら、真の成功のためには失敗を避けて通れません。成功につながる学びを得るのは、失敗したときなのです。」
1923年から100年を超えるジャパニーズウイスキー探求の旅は、試行錯誤の連続だった。信治郎から敬三、そして信吾へ。そこには、困難に挑み、ジャパニーズウイスキーの道を切り拓いてきた家族の物語がある。

1879–1962

鳥井 信治郎

失敗の連続が、
常識を変える創造を生んだ。

「信治郎は、おいしいウイスキーはスコットランドでしか作れない、という定説を受け入れることができなかった。」

1899年、大阪に小さな商店を開いたとき、鳥井信治郎には楽観的な考えしかなかった。わずか20歳で無一文に等しいにもかかわらず、明治時代の日本の進路を決定づけた「文明開化」をどこまでも追い求めることに情熱を注いでいた。信治郎はヨーロッパの葡萄酒を店頭に並べたが、ボトルには埃が積もるばかりだった。日本人はまだ外国産の酒の味に慣れていなかったのだ。この苦い経験により信治郎は蓄えを失う一方、日本人の嗜好に合う独自の味わいをつくってみせる、という決意を強く持つことになる。

彼は在庫を無駄にしないように、過去の経験を活かすことにした。10代の頃、信治郎は大阪の薬問屋、小西儀助商店に丁稚奉公に出ていた。その店では、薬以外にも質の高い外国産の酒を輸入していた。彼はそこでブレンドの魅力に取りつかれ、10代の大半を技術の習得に費やし、ひたすら嗅覚と味覚を磨いた。1907年、信治郎はついに甘味葡萄酒《赤玉ポートワイン》を誕生させた。その名は、すべての生命の源である真っ赤な太陽に由来し、のちにサントリーという現在の会社名 (Sun 太陽と Torii 鳥井を合わせた造語)を生み出す起源となった。この《赤玉ポートワイン》は信治郎の最初の大ヒットとなった。100年たったいまでも愛され続けている現役商品だ。鳥井信治郎は、「大阪の鼻」の異名で知られるようになった。

「偉大な曾祖父は香味を創り出すのが得意だったのです。ブレンディングの技術は天賦の才でした。」と、信宏は言う。

《赤玉》が成功したにもかかわらず、信治郎は国産の本格ウイスキーを生み出すことに執心した。当時、ウイスキーはスコットランドでしかつくれないと信じられていた。しかし信治郎はそんな常識や先入観にとらわれず、家族や仲間の忠告も無視して、会社の資本を山崎蒸溜所に賭けた。
「自分の仕事が大きくなるか小さいままで終わるか、やってみんことにはわかりまへんやろ。」
この信治郎の信念が、100年後のいまもサントリーの価値観「やってみなはれ」として受け継がれている。失敗を恐れず、失敗を学びのチャンスと捉え、成功の可能性をあきらめないサントリーならではの姿勢の源である。

このものづくりへのこだわりが、サントリーの職人技を極める企業としての名声を高めた。

信治郎は、夢を実現する聖地として、宇治川、木津川、桂川という三川の合流地点である山崎の地に目をつけた。一年を通じて湿潤で、ウイスキーの熟成にはうってつけの気候だった。古くから名水の地として知られ、蒸溜所近くの神社に渾々と湧く水はいまも地元の人々を潤している。この天王山山系の地下水は、ウイスキーの仕込みに最適だった。山崎は日本初のモルトウイスキー蒸溜所として、信治郎にまたとない機会をもたらした。ウイスキーの製造工程を整え、水や原料の品質を確保し、ジャパニーズウイスキーが当時の日本社会にどのように受容されるかを最終的に決定づける香味を創り出すことができたのだ。鳥井信治郎が遺したものづくりの教訓は、100年たったいまも、何よりも現場を優先し、権威よりも知恵を、外観よりも本質を重んじる姿勢として受け継がれている。だが信治郎は、またしても失敗を乗り越えなければならなかった。

ワイン事業に最初の一歩を記した時と同じように、国産初の本格ウイスキー《白札》はうまくいかなかった。当時の日本人にはピートの香りが強すぎて焦げくさいものにしか感じられなかったのだ。それでも信治郎はあきらめることなく、部屋に籠もって試行錯誤を重ねた。努力を惜しまずものづくりに打ち込む彼の姿勢は、蒸溜所開設からウイスキー製造への先行投資に答えを出すだけでなく、その後数十年にわたって、ものづくりの技へのこだわりというサントリーの気風や情熱を浸透させていった。自分の嗅覚と味覚を頼りに、信治郎は取り憑かれたように、新しい製造工程や新しいブレンドを試した。真夜中に起きて、いつも枕元に置いていた懐中電灯の光で、思いついたアイデアを書き留めることもよくあった。蒸溜所で寝起きすることもしばしばだった。

そして1937年、山崎蒸溜所創設から14年後、信治郎はついに成功の味を知る。彼が開発したブレンデッドウイスキーは、スコッチをそのまま再現しようとした《白札》とは異なり、日本らしさを誇り高く前面に押し出した商品となった。製造からネーミング、ボトルデザインに至るまで、日本の豊かな自然と職人技を駆使してつくり上げられ、日本人の繊細な嗜好によく合う香味で評判を呼んだ。信治郎は《白札》もこの新製品も《サントリーウ井スキー》と名づけたが、のちに、その角ばったボトルの形状から《角瓶》というニックネームで人々から愛されるようになる。それはまさに、サントリーファミリーの現在に至る探究の始まりだった。彼らは恵みを生み出す自然の営みに深い敬意を払いながら、ウイスキーづくりの過程で常により豊かで複雑な特質を引き出すことを追い求め続けることになる。

「わしは今日まで裸一貫で会社を築き上げてきたんや。神仏や世間のために裸になるなら、もともとだっしゃろ。」鳥井 信治郎

「私たちのものづくりは、自然の恵みをより引き立てるためにあります」と、鳥井信宏は語る。そして、山崎蒸溜所を「とても、とても、神聖な場所」だと言う。「創業者の最大の才能は、自然界が秘めた香味を解き放つこと、つまり、水や穀物や森の樹々の中に潜んでいる味を引き出し、増幅する能力でした。」
サントリーではしばしば、このプロセスを「美味の探究」と表現する。「美味」とは、ざっくり言えば「良い香味」のことだが、より深遠な何かを意味している。「『美味』とは、香り、口当たり、のどごし、余韻など、人が美味しいと感じるすべての感覚を理解して、かたちにしたもののことです。」と、鳥井信宏は言う。「それは、素材の美味しさを最大限に引き出さなければ、到達できない境地なのです。」

ウイスキーづくりが成功するととともに、信治郎の社会貢献事業への情熱も高まっていった。職人として独立した最も初期の頃から、彼は商売で得た利益を人々に還元する寛容さで知られていた。その熱心さはしばしば財務担当者の反対を招いたが、彼はそれを押し切って実行した。《角瓶》が市場に出回る20年近く前の1921年、無料で診察し、無料で薬をくばる診療院「今宮診療院」を開設。社会奉仕への強い信念のもと生活困窮者の救済を行った。これは100年経った今日までもサントリーグループの社会福祉活動を担う「邦寿会」として続いている。サントリーが経営的に苦境に立たされた時でさえ、彼は社会に恩返しすることを貫いた。

「わしは今日まで裸一貫で会社を築き上げてきたんや。神仏や世間のために裸になるなら、もともとだっしゃろ。」と、信治郎は言った。

1919–1999

佐治 敬三

ジャパニーズウイスキーは、
文化になった。

先駆者なら誰もが知っている。何かを開拓し、創造しようという心には終わりがないということを。1961年、信治郎は息子の佐治敬三にバトンを渡した。サントリーは、大阪帝国大学理学部化学科卒の化学者の手に委ねられた。「敬三は、科学的でした。」と、鳥井信宏は言う。「一方で、信治郎はある意味、とてもスピリチュアルでした。でも、二人とも夢想家であったことに変わりはありません。遥かな夢を追って、あきらめることを知らない夢想家だったのです。」

ジャパニーズウイスキーを生み出したのは信治郎だが、それを文化にまで高め、育てたのは、間違いなく敬三だった。彼は、日本人が強い酒を好まないことを理解していた。そこで、ウイスキーと和食のペアリングを提案したり、食事シーンに合わせて「ストレート」、「水割り」、「ハイボール」というウイスキーの様々な楽しみ方を紹介した。それはまさに革命だった。彼は製品を通じて人と人をつなぐ「生活文化」を創造し、広げていったのだ。敬三は、ジャパニーズウイスキーが日本文化に溶け込み、そこにあることが当たり前になってこそ、本物のウイスキーだと考えたのである。

敬三のリーダーシップのもとで、サントリーは挑戦を続ける。彼は、1972年にグレーンウイスキーの知多蒸溜所を、1973年には豊かな森に囲まれ“森の蒸溜所”とも呼ばれる白州蒸溜所を創設した。生産能力が増強され、原酒に多様性が生まれたことで、敬三はサントリーの二代目マスターブレンダーとして革新的なウイスキーを生み出す余裕を得た。
1984年に、山崎蒸溜所初のピュアモルトウイスキー《山崎》で新境地を開拓。1989年には、ジャパニーズブレンドの傑作である《響》を世に送り出し、続けて1994年には、新緑の香りとほのかなスモーキーフレーバーが溶け合った《白州》を、サントリーの作品集に加えた。

「へこたれず、あきらめず、しつこく、失敗を恐れることなく、新しい価値創造に挑む」佐治 敬三

このようなサントリーウイスキーへの貢献はもちろん、敬三はサントリーのビール事業の先駆者としても広く知られている。1950年代、大手ビール会社による寡占状態にあった日本のビール業界は、似たような味の商品が並び個性に乏しかった。そんな業界に新しい風を吹き込みたいと考えた敬三は、父信治郎に熱い思いを打ち明ける。長年にわたりウイスキーで夢を追い求めてきた信治郎は、「やってみなはれ」と敬三の挑戦を後押しした。信治郎から伝えられた、この「やってみなはれ」精神とは、「へこたれず、あきらめず、しつこく、失敗を恐れることなく、新しい価値創造に挑む」こと。サントリーの大切な価値観として、いまも社員一人一人の中に息づいている。

ルネサンス的教養人だった佐治敬三は、自ら俳人や写真家として活動する一方、様々なアートの後援者としても知られていた。そもそも、ウイスキーは生活文化の領域で「人間の生命(いのち)の輝き」を提供するものと直感的に認識していた。敬三は、事業で得た利益をお客様と社会に還元する父信治郎の献身的な取り組みを、さらに発展させていく。
1961年には、サントリー美術館を開館。現在では、国宝を始めとする3000点以上の作品を収蔵しており、年間約30万人が訪れる。彼はまた、サントリーホールの創設者であり、初代館長でもある。1986年創設のサントリーホールは、ステージを四方から囲む“ヴィンヤード”方式のクラシック専用ホールとして「世界一の響き」をめざした。いまや世界中の最も著名なオーケストラや演奏家からも、音楽ファンからも愛され、日本のクラシックの裾野を広げるリーディングホールとなっている。その後、敬三はサントリー芸術財団を設立し、芸術文化の発展・振興、次世代の芸術家育成にも努めている。また、「鳥の現在は、人類の未来」をコンセプトに、1973年には環境のバロメーターである野鳥が安心して住める環境を守るために、白州蒸溜所内にバードサンクチュアリを設けるなど、「愛鳥活動」をスタート。人と自然が豊かに響きあう社会づくりに積極的に取り組んだ。

これらの文化事業や社会貢献活動は、創業者鳥井信治郎の信条であった「利益三分主義」に基づく。事業によって得た利益は、事業への再投資、お得意先・お取引先へのサービスにとどまらず、社会にも還元すること。商いは世間様のおかげで成り立っている。だから利益をお返しするのは当然、という信治郎のゆるがぬ信念だった。敬三はその精神を受け継いだ。企業は単に製品をつくり売るだけの存在ではない。社会に何が提供できるかを真摯に考えていた。生産目標や数値だけを追いかけるのではなく、社会の質を向上させるために、製品を通じて生活に潤いや彩りを提供すべきだと。文化事業や社会貢献の取り組みは、その後、健康食品や花事業など新規事業につながっていく。サステナビリティという言葉がなかった時代から、社会の持続的な発展に取り組んできた。それがサントリーという企業の原点なのだ。この背景には、敬三が幼少期より信治郎から受け継いだ「真善美」の精神が関係する。「真善美」とはギリシャ哲学を起源としており、「真」とは本物であること。「善」とは、道徳的に正しいこと。「美」とは、視覚的なものにとどまらず、感覚的な美を指している。彼はこの精神にもとづき、“本質・本物”を追求し、製品に留まらず、生活文化の創造を牽引していったのである。

1953–PRESENT

鳥井 信吾

その妥協なき美味品質が、
世界中を驚かせた。

鳥井信吾は、サントリーウイスキーを世界のステージに引き上げようと苦悶してきた一人である。佐治敬三の長男であり、2001年より四代目社長であった佐治信忠からサントリーウイスキーの品質向上の命を受け、マスターブレンダーに就任した。彼は、香味追求への妥協しない姿勢とゆるぎない献身で、サントリーウイスキーを世界的な賞を獲得するレベルへと高めた。信吾はめったに満足しない。物事を正しく行うことに徹底的なこだわりを持ち続け、途中であきらめることを知らない。
「これで十分だと思っても、まだ先がある」と考える。彼は、サントリーウイスキーの品質を日々向上させるために休むことなく身を捧げ、いつか世界に認められるウイスキーをつくりたいと願った祖父の夢に忠実であり続けている。

信吾は、サントリーウイスキーの現在と未来の世代を確かな絆で結ぶために、なくてはならない役割を担っている。信吾は、創業家に受け継がれる「真善美」と共に、商いの心得として引き継がれる「運鈍根」の精神を大事にしている。「運鈍根」とは、成功するためには、「運」があるということ、「鈍」(愚直)であること、「根」気よく続けることという意味である。人に愚かと言われようと、近道をせず、正直ひとすじに真っすぐ進む。信吾は、1987年にウイスキーの販売が低迷しているにも関わらず、コストを削減するのではなく、山崎蒸溜所の大規模な改修を仲間とともに決断する。サントリーの品質基準が、業界のそれを遥かに超えている事実はよく知られている。信吾が、サントリーウイスキーの品質基準・美味品質をどんどん引き上げているのである。サントリーが世界で最も高く評価されるディスティラーのひとつと評価されるのは、彼が追求するものづくりの理想を現実にする職人の技と情熱、ウイスキーづくりの多様性、卓越したブレンディング技術、そして数字や化学式や方程式であらわすことのできない「美味」を追求する姿勢の賜物なのだ。

「信吾は完全主義者であるだけでなく、自然から深くインスピレーションを受けた芸術家でもあります」と、鳥井信宏は愛情を込めて、叔父について語る。「彼は、自然の恩恵を生かすためにあらゆる努力を惜しみません。彼の知識は膨大です。テイスティングの力量もすごいと思います。でも、実は彼はさほど酒を飲まないのです。」
それは、成功を阻害したり、マスターブレンダーとして必須の資質に欠けているかのように聞こえるかもしれないが、信吾の場合は全く逆のようだ。「彼は大酒飲みではないので、とても鋭敏なのです。」と、信宏は言う。
「彼が取り組んだのは、多様な原酒によるつくりわけと、ブレンディングの技術を極めること。そして、原酒の本質的な美味品質を向上させること。だからこそサントリーは、他社に差をつけることができるのです。」

サントリーウイスキーが初めて世界的な評価を受けたのは、信吾の品質へのこだわりと「妥協しない」姿勢があったからだ。2003年、英国で開催されたインターナショナル・スピリッツ・コンペティションで、《山崎12年》が金賞を受賞した。それは、ジャパニーズウイスキーの歴史だけでなく、ウイスキーの歴史そのものを大きく変える出来事として、世界中で大々的に取り上げられた。ついにジャパニーズウイスキーは、すべてのウイスキー愛好家の注目を浴びることになったのだ。以来、サントリーは、ISCのディスティラー・オブ・ザ・イヤーに4度輝き、ジャパニーズウイスキーの名門としてだけでなく、世界屈指のディスティラーとして最も高い評価を受けている。

ものづくりに注ぐサントリーの尽きることのない愛と情熱。鳥井信吾がやることのすべてが、その象徴だ。
彼は、ものづくりと同様に、その背景にあるものがたりをとても大切にしている。2008年に信吾自身の名前で発表した「ものづくりの志」と「ものづくり行動指針」をまとめた「Suntory Monozukuri Value」は、彼の想いを凝縮して伝えるものだ。究極のものがたりは、常に事実に根ざしている。蒸溜所、ワイナリー、生産者のすべてで独自に育んできたものづくりの歴史、製法、つくり手の想い。そして、ものづくりを営む地域の、土地、風土、文化を深く探求・理解し、それらを未来に向けて絶えず磨き進化させ続ける。これにより、独自のものがたりが生まれてくるのだ。
「私たちが伝えたいのは、すべての恵みを生み出してくれる土地と環境に、私たちが深い敬意を払っているということです。」と、サントリー三代目のマスターブレンダーである鳥井信吾は言う。

「自然がなければ、ものづくりもありません。真のものづくりとは、自然に何かを加えることでも、自然から何かを奪うことでもなく、ただ自然の恵みをそのまま高めることなのですから、先は無限に遠い。ウイスキーづくりも、ビールづくりも、ワインづくりもこれで完成ということがない、終わることのない挑戦です。でもそれは、サイエンスも、アートも、会社経営もみな同じでしょう。」「私たちは、自然に頼り委ねることで、賞を獲得するような製品を生み出しています。」と、信吾は言う。
「山崎や白州の水、その豊かな自然環境は、私たち独自のものづくりと同じくらい、いやそれ以上に大切なものです。」

「私たちが伝えたいのは、すべての恵みを生み出してくれる土地と環境に、私たちが深い敬意を払っているということです。」鳥井 信吾

2005年、第四代社長、佐治信忠によってコーポレートメッセージとして定められた言葉「水と生きる」は、サントリーDNAを体現した言葉だ。2023年には、この言葉に込められた想いをグローバル規模で共有するために、「Sustained by nature and water (自然と水の恵みに生かされ/保たれている)」という英文のメッセージも策定した。それは、世界の水資源を守ることをはっきりと約束するだけでなく、「人と自然と響きあい、豊かな生活文化を創造し、『人間の生命(いのち)の輝き』をめざす」というサントリーの目的(パーパス)や大切にしてきた価値観を凝縮して、社会やお客様とコミュニケーションするための言葉となった。

サントリーの次の100年に向けて、信宏はこれ以上ない未来の情景を描いている。「私の夢は、世界中どの国へ行っても、そこにサントリーウイスキーがあること。そして、人々が私たちのウイスキーを楽しんでいる姿を見ることです。」彼は信じている。グローバル規模でサントリーウイスキーが受け入れられるために重要なのは、ビジネス以上に心だと。自然への敬意。ものづくりへのこだわり。ウイスキーファンへの愛。決してあきらめない姿勢。この基本原則に対して責任を果たしていくということ。「常に挑戦し続けなくてはなりません。そうしなければ新しい道は切り拓いていけません。開拓者精神とはそういうものです。」鳥井信宏は、誓うようにそう言った。

A Family of Master Blenders

1899年の創業以来、鳥井信治郎に始まる「鳥井家」の系譜は、三代に渡るマスターブレンダーの系譜でもある。受け継がれるものづくりへの情熱が、ジャパニーズウイスキーを世界中に知らしめる事につながった。




玉電の歴史~開通から玉川線廃止まで~



■玉電の生い立ち

世田谷に初めて鉄道が通ったのは、今から一世紀も昔、明治40年のことでした。大山街道(国道246号線)上を、玉川電気鉄道の手によって、電車が通りました。当初開通したのは、道玄坂上~三軒茶屋間だけでしたが、同年中には渋谷から玉川(現:二子玉川)までの全線が開通し、大山街道を往来する旅人や沿線住民の足としての役割とともに、多摩川で採取された砂利を都心に運ぶ目的も果たしました。それまで鉄道が走っていなかった世田谷は、玉電の開通によって、ようやく文明開化を迎え、玉電の手によって電気が引かれ、沿線の発展に大きく貢献しました。また、玉川は行楽地として注目され、明治42年には玉川遊園地(のちの二子玉川園)が玉電の手によって開設され、乗客の誘致活動も積極的に行われました。
大正9年、都心でのコンクリート需要の増加に伴い、輸送力増強と都心への乗り入れが必要となり、全線の複線化(完成は大正12年)、軌道幅を1067mmから東京市電(現:都電)と同じ1372mmへの改軌し、車両を全て入れ替えるとともに、貨物車両の市電への乗り入れが開始されました。続いて、大正13年には渋谷~天現寺橋間と、砂利採取拠点へ直接乗り入れる砧線を、翌14年には、現在も世田谷線として残る三軒茶屋~下高井戸間を、更には昭和2年、渋谷橋~中目黒間、後に田園都市線の一部となる玉川~溝ノ口間を開通させました。
 こうして世田谷の発展に貢献し、路線網を拡大させていった玉川電気鉄道ですが、昭和13年には東急の前身、東京横浜電鉄に合併され、いわゆる大東急の一部となり、玉電の名前は正式には姿を消しました。
 大東急の一部となってからの「玉電」は、玉川~溝ノ口間は改軌のうえ、大井町線(現:田園都市線)に編入、渋谷~天現寺橋・中目黒間は東京市へ譲渡され、渋谷~二子玉川園・下高井戸間の玉川線と、二子玉川園~砧本村間の砧線の全長16.4kmの路線で営業を続けました。
 戦後も、沿線の気軽な足として、愛されてきた玉電でしたが、昭和30年代に突入すると、モータリゼーションの発達に伴って国道246号線を走る自動車が爆発的に増え、オリンピック開催による道幅拡張の甲斐もなく、自動車に行く手を阻まれて定時運行ができない状態で、ドライバーなどからは「ジャマ電」などと罵られるようになってしまいました。その頃、国道246号線の上を首都高速道路を通し、地下には都心と多摩田園都市とを結ぶ地下鉄を作る計画が浮上し、これらをきっかけに玉電は廃止の道へと向かうこととなりました。
 そして、ついに昭和44年、専用軌道であり、代替バスを運行できる平行道路がなく、廃止を免れた三軒茶屋~下高井戸間を除いて、道路の上を走る渋谷~二子玉川園間の玉川線と砧線全線が廃止となり、国道246号線上を走る路面電車が姿を消しました。廃止となる最後の3日間には、「さようなら玉電」と書かれた花電車が運行され、玉電の沿道には、別れを惜しみやってきた沢山の人々で人垣ができたと言います。
 残された三軒茶屋~下高井戸間は、世田谷線と名前を変え、車両の色も今までのクリームと緑のツートンから緑一色とし、車庫を大橋から上町へと移し、新たなスタートを切りました。
 一方、渋谷~二子玉川園間は、昭和52年に新玉川線として生まれ変わり、昭和53年には営団地下鉄半蔵門線との相互直通運転も開始され、都心から渋谷を経由し、国道246号線の地下を二子玉川園まで通り、田園都市線に直通して多摩田園都市を一直線で結ぶ大動脈となっています。なお、更に平成15年には半蔵門線は東武鉄道との相互直通運転が開始され、埼玉県の南栗橋と神奈川県の中央林間まで、1都2県をまたぐ大路線網に発展を遂げています。


■玉電歴史年表

明治40年3月6日

玉川電気鉄道により道玄坂上~三軒茶屋間開業

明治40年4月1日

三軒茶屋~玉川間開業

明治40年8月11日

道玄坂上~渋谷間開業、渋谷~玉川間全通(玉川線)

大正9年9月3日

軌道幅を1067mmから1372mmへ改軌、東京市電との貨物乗入れ開始大正11年6月10日渋谷~渋谷橋間開業

大正13年3月1日

玉川~砧間開業(砧線)

大正13年5月21日

渋谷橋~天現寺橋間開業(天現寺線)

大正14年1月18日

三軒茶屋~世田谷間開業

大正14年5月1日

世田谷~下高井戸間開業、三軒茶屋~下高井戸間全通

昭和2年3月29日

渋谷橋~中目黒間開業(中目黒線)昭和2年7月15日玉川~溝ノ口間開業(溝ノ口線)

昭和10年前後

砂利輸送終了昭和12年上期渋谷駅高架化・玉電ビル建設に伴い、市電との連絡線を撤去、市電乗入れを中止とし、玉川線と天現寺・中目黒線間を路線分断昭和13年3月10日玉川電気鉄道と東京横浜電鉄(現:東京急行電鉄)合併昭和13年11月1日陸上交通事業調整法に基づき、天現寺・中目黒線の経営を東京市に委託昭和18年7月1日溝ノ口線を大井町線(現:田園都市線)に変更、軌道幅を1067mmに改軌し、大井町~溝ノ口間直通運転開始

昭和20年10月1日

大井町線二子玉川~溝ノ口間、砧線を軌道法から鉄道法へ変更

昭和23年3月10日

渋谷~天現寺橋・中目黒間を東京都へ譲渡

昭和44年5月10日

玉川線・渋谷~二子玉川園間、砧線全線廃止

昭和44年5月11日

玉川線・三軒茶屋~下高井戸間を世田谷線と改称、新玉川線工事着工

昭和52年4月7日

新玉川線開業昭和53年8月1日営団地下鉄半蔵門線開通に伴い、新玉川線直通運転開始昭和54年8月12日新玉川線・田園都市線全列車直通運転開始




近代・現代社会の概観

日本の近代化と国際社会への道

 近代は,欧米列強,とりわけアメリカ東インド艦隊司令長官ペリ-の来航により,開国を余儀なくされた時から始まる。開国によって国際経済社会の枠組みに組み込まれ,欧米列強のアジア進出が強まるにつれて,それに危機意識をもつ人々の中から天皇を中心とする統一国家の樹立の構想が生まれる。 国内の状況し,尊王攘夷運動・開国・倒幕運動・大政奉還へとそれに沿って展開され,明治維新が導き出された。明治政府は,欧米列強を目標として近代化をめざした。殖産興業と富国強兵が,日本の国家目標となったのである。さらに,明治政府は,不平等条約の改正をめざすとともに,東アジア諸国に圧迫を加え,アジアの強国としての地位を確立していく。そして日露戦争・第一次世界大戦の結果,世界の強国としての地位を確立していく。しかし,その後の日本は,昭和恐慌・世界恐慌などによる経済的苦境の打開を大陸支配に求める。中国への侵略を深めていった日本は,やがてドイツ・イタリアなどのファシズム国家と手をたずさえ第二次世界大戦を戦った。


 1945年8月,広島と長崎に人類史上初の原子爆弾が投下されるに至り,日本は,米英など連合国のポツダム宣言を受諾,無条件降伏する。ここに5年にわたった太平洋戦争は終結し,アメリカを中心とする連合国軍の占領下に置かれることになり,現代日本の歴史が始まる。占領政策の重点は,日本の非軍事化と民主化にあり,1946年にはその中心となる日本国憲法が制定され,多岐にわたる民主化政策が行われる。しかし,1950年に勃発した朝鮮戦争は,日本を西側諸国の一員となることを余儀なくさせていく。1951年には保守陣営を中心とした単独講和による平和条約が調印され,日本は占領7年目にしてようやく国際社会に復帰することができる。このとき同時に調印された日米安全保障条約は,戦後のアメリカとの関係を決定し,国内世論を二分することになる。1956年には,日ソの国交が回復が実現するとともに,国際連合加盟が認められる。また,1972年には,長年の懸案であった沖縄の祖国復帰と中華人民共和国との国交正常化が実現する。


 一方,日本経済は,1950年代後半から急速な発展を遂げ,1970年代において,日本は,すでに経済大国といわれる先進工業国に成長していく。これは,大戦後の壊滅的打撃から立ち直り,2度にわたる石油危機を克服した日本人の勤勉さが主要因である。アメリカとの軍事同盟の下,自国の経済発展を最優先させた結果得られた成果でもある。1986年の東京サミット(第12回主要先進国首脳会議)では,日本の経済大国としての役割が大きくクロ-ズアップされることになる。また,経済的国際貢献にとどまらず,日本は,現在国際社会の中で,平和と繁栄に大きな責任を果たせばならない立場に立っていると言えよう。


 近代・現代社会の年代を覚えよう。

 歴史の流れの中で,重要な年代を列記しています。まずは,正確に覚えることから始めましょう。

年 代

主 な 出 来 事

1868年

1869年

1871年

1872年

1873年

1874年

1877年

1880年

1881年

1882年

1883年

1884年

1885年

1889年

1890年

1894年

1895年

1901年

1902年

1904年

1905年

1910年

1911年

1912年

1914年

1915年

1917年

1918年

1919年

1920年

1922年

1923年

1925年

1927年

1929年

1931年

1932年

1933年

1936年

1937年

1938年

1939年

1940年

1941年

1943年

1945年




1946年

1947年

1949年

1950年

1951年

1953年

1954年

1955年

1956年

1957年

1960年

1961年

1964年

1970年

1972年

1973年

1978年

1985年

1990年

1991年

1992年

1995年

 戊辰戦争。五カ条の御誓文。五榜の掲示。明治維新。

 東京遷都。版籍奉還。

 廃藩置県が行われる。解放令。郵便制度。岩倉具視の欧米渡航。

 学制の発布(全国に小学校が設置される)。鉄道開通(新橋-横浜間)。太陽暦。 

 徴兵令が実施される。地租改正が行われる。

 民選議院設立建白書の提出(自由民権運動:板垣退助・江藤新平など)。

 西南戦争。

 国会期成同盟。

 自由党の結成(板垣退助)。

 立憲改進党の結成(大隈重信)。

 鹿鳴館ができる。

 秩父事件。(民権運動の激化)

 内閣制度ができる。(初代内閣総理大臣:伊藤博文)

 大日本帝国憲法の発布。

 第1回帝国議会が開かれる。

 治外法権の撤廃(陸奥宗光)。東学党の乱(甲午農民戦争)。日清戦争。

 下関条約(伊藤博文と李鴻章)。三国干渉(ロシア・フランス・ドイツ)。

 官営八幡製鉄所の操業開始。

 日英同盟。

 日露戦争。

 ポ-ツマス条約(小村寿太郎とウィッテ)。

 日本が,韓国を併合する(韓国併合)。

 関税自主権の回復(小村寿太郎)。条約改正完成。中国で辛亥革命(孫文)。

 中華民国の成立。

 第一次世界大戦。三国同盟(独・オ-ストリア・伊)VS三国協商(英・仏・露)

 中国に21カ条の要求。

 ロシア革命がおこる。

 米騒動がおこる。原 敬の政党内閣の成立。

 ベルサイユ条約。ワイマ-ル憲法(ドイツ)の制定。

 国際連盟が設立される。

 全国水平社の結成。

 関東大震災。

 普通選挙制が実現する。治安維持法の成立。ラジオ放送の開始。

 日本の金融恐慌。

 世界恐慌がおこる。(ニュ-ヨ-クの株式の大暴落)

 満州事変がおこる。

 リットン調査団(満州事変が日本の侵略と断定)。五・一五事件(犬養毅を暗殺)。

 国際連盟の脱退。

 二・二六事件(高橋是清・斎藤実らの殺害)

 日中戦争が始まる。

 国家総動員法の成立。

 第二次世界大戦。

 日独伊三国軍事同盟。

 太平洋戦争が始まる。(ハワイの真珠湾の急襲)

 カイロ会談(米:ル-ズベルト,英:チャ-チル,中:蒋介石)。

 ヤルタ会談(米:ル-ズベルト,英:チャ-チル,ソ:スタ-リン)。

 ポツダム会談(米:トル-マン,英:チャ-チル,ソ:スタ-リン)。

 広島・長崎原爆投下。ポツダム宣言の受諾。政党復活。婦人参政権。

 財閥解体。農地改革。国際連合が発足。

 天皇の「神格否定宣言」。日本国憲法が公布(11月3日)される。

 日本国憲法が施行(5月3日)される。教育基本法。六・三制教育。

 中華人民共和国が成立する。

 朝鮮戦争がおこる。警察予備隊発足。

 サンフランシスコ平和条約。日米安全保障条約。日本のユネスコ加入。

 テレビ放送の開始。

 防衛庁設置。自衛隊(陸海空)の発足。

 原水爆禁止世界大会。

 日ソ共同宣言の調印。国際連合への加盟。

 原子炉に点火される。

 日米安全保障条約の改定。

 農業基本法。

 東海道新幹線開通。東京オリンピックの開催。

 大阪で万国博覧会が開かれる。日米新安全保障条約自動継続。

 沖縄が,アメリカ合衆国から返還される。日中国交正常化。

 第四次中東戦争:石油危機(オイル・ショック)がおこる。狂乱物価。

 日中平和友好条約を結ぶ。

 女子差別撤廃条約の批准。筑波で科学万博の開催。

 東西ドイツが統一される。

 ソビエト連邦が解体される。湾岸戦争。

 国際平和協力法(PKO法)成立。

 阪神・淡路大震災。

※年代については,1951年サンフランシスコ平和条約まで。それ以降は,流れを把握する程度でいいと思います。





4.成長戦略

お伝えしたいこと 4
「見つける」「育む」「届ける」
3つの領域を通じて"モノづくり"を強化していきます。

「見つける」「育む」「届ける」-"モノづくり"には3つの領域があると私たちは考えています。
長年蓄積してきたノウハウと経験を活かし、既存の枠組みを深掘りする「深化」、
そして時代の変化や新技術を取り入れ、新たな領域へと踏み出し新しい枠組みを拡げる「進化」を続けることで、
"モノづくり"をアップデートし、さらなる成長を目指します。

01アーティスト・コンテンツポートフォリオの強化

私たちの"モノづくり"の源泉はアーティストです。所属アーティストの新たな才能の発掘や、アミューズとしてのこだわりを持った新人開発を行うことは、多くの方に愛されるアーティストを生み出すうえで大事な一歩です。
一方、デジタル化が加速し、とりわけサブスクリプション型のビジネスモデルが隆盛するエンターテインメントの市場においては、いかに優良なコンテンツやIPを保有しているかが重要になります。アーティストが創出する作品に留まらず、時代が求める良質なコンテンツ・IPの発掘に注力することにより、コンテンツポートフォリオを一層強化していきます。

02プロデュース力の強化

アーティストやコンテンツの価値を最大化させ、"モノづくり"全体のキードライバーとなるのが「プロデュース力」です。
まず、コアビジネスであるアーティストマネージメントにおいては長期視点に立ったマネージメントを深化させます。SNSの普及により、アーティストが自ら作品を作り、直接オーディエンスに届けることが可能になった時代の中で、一人ひとりのアーティストの才能と向き合い、その長期的なキャリアを広い視野でブランディングしていくマネージメント思考こそが、今改めてプロダクション機能における重要な意義となっています。創業当初に比べ所属アーティスト数は増えましたが、ビジネスパートナーの枠組みを超えた強い信頼関係を築きながら、マネージャーのヒューマンリソースの最適化や、全社的なアーティストのサポート体制構築により、アーティスト、アミューズ双方にとっての持続的成長を実現します。
一方で「育む」の進化のために急務となるのが「コンテンツプロデューサーの拡充」です。予期せぬ環境の変化や、それに伴う届け方の変化に対応するためには、市場が求めるコンテンツを外部に求めるのみならず、自ら企画・制作し、届けていくことがより重要になります。ゼロからスピード感を持って"モノづくり"を推進するコンテンツプロデューサーを増やしていくため、人材育成や働き方改革、組織・サポート体制整備などを通じたさらなる基盤強化を目指します。2020年の組織改編では部門編成のコンパクト化や若手管理職登用などにより、一層の機動力向上を図りました。また、若手社員による企画プレゼンテーションや、部門横断のプロジェクトチームによる新規ビジネス立案の場を設けるなど、既存のエンターテインメントの枠に留まらない新たなコンテンツ開拓に資する人材の育成を実施しております。

03ファンエンゲージメントの強化

アーティストやコンテンツと、応援してくださるファンの方々との関係性をいかに強固なものにしていくか(=ファンエンゲージメントの強化)は、"届ける"うえで極めて重要です。
これまでの成長戦略として内製化してきたファンクラブやグッズ製作・販売機能などの自社機能はさらに充実させるとともに、それらの連携によりファンの方の利便性や満足度の向上に繋げます。
また、一方で「進化」のカギとなるのがデジタル戦略であると考えております。オンラインライブ配信の自社プラットフォーム構築や、ソーシャルメディアなど外部プラットフォームの戦略的活用により、デジタル時代に最適化した新たなコンテンツの届け方を追求します。特に、主力ビジネスとしてきたライブのオンライン化は、コロナ禍における最重要課題の一つであり、リアルな感動を大切にしてきた当社ならではのオンラインライブをお届けして参ります。
投資をお考えの皆様へ

アミューズを知る6つのポイント



グループ会社一覧には、グループの主な会社・団体を掲載しています。

グループ本社関連

名称概要読売巨人軍open_in_newプロ野球球団の運営、少年野球教室の開催、読売巨人軍の関連商品の企画・販売中央公論新社open_in_new「中央公論」、「婦人公論」、新書、文庫、単行本、全集などの発行・販売よみうりランドopen_in_new遊園地・ゴルフ場・温浴施設などの経営、競馬場などの施設運営

東京本社関連

新聞・出版

名称概要報知新聞社open_in_new報知新聞(スポーツ報知)の発行・販売、「月刊ジャイアンツ」など雑誌の出版事業福島民友新聞社open_in_new福島民友新聞の発行・販売、出版事業旅行読売出版社open_in_new月刊誌「旅行読売」のほか臨時増刊号、ムック、書籍の発行

印刷

名称概要読売プリントメディアopen_in_new読売新聞などの印刷、官庁・企業・団体などの印刷物の受注青森読売プリントメディアopen_in_new読売新聞、地域新聞などの印刷ミナトopen_in_new読売新聞の印刷工場(木場工場、鶴見工場)の運営

販売

名称概要読売情報開発open_in_new読売新聞の販売促進、通信販売、各種イベントの企画・運営読売ISopen_in_new新聞折り込み広告を中心とした各種プロモーションや、マーケティング分析業務読売ハートサービスopen_in_new自動振替・CVS決済による新聞購読料の収納代行及びよみサポ事務局の運営よみうりコンピュータopen_in_newYC向け情報管理システムや読売関連企業向けソフトの開発・サポート・販売

広告

名称概要読売エージェンシーopen_in_new新聞・テレビ・ラジオ・雑誌・Webなどの総合広告業読売アドセンターopen_in_new新聞広告の紙面制作工程全般の受託業務、グラフィック・ウェブなどのデザイン制作業務

レジャー・サービス・不動産

名称概要読売旅行open_in_new国内外の旅行の企画運営、JR券・航空券・乗車船券などの販売読売ゴルフopen_in_new兵庫県内で歴史あるゴルフ場を運営読売プラスopen_in_new新聞紙面の編成・校閲、給与計算、読売関連グッズ販売などの業務受託読売不動産open_in_new読売新聞各ビル・工場の管理、YCの建築・改修、不動産仲介・リフォームなど読売システックopen_in_new読売新聞グループ各種業務の技術支援、システム開発やホームページの構築

教育・文化・教養

名称概要学校法人 読売理工学院open_in_new読売理工医療福祉専門学校、専門学校読売自動車大学校の経営公益財団法人 読売日本交響楽団open_in_new日本を代表する3大オーケストラのひとつ読売・日本テレビ文化センターopen_in_new生涯学習センター「よみうりカルチャー」を首都圏各地の駅前などで展開読売調査研究機構open_in_new著名な講師や専門記者による講演会や対談、シンポジウムなどを開催

福祉

名称概要社会福祉法人 読売光と愛の事業団open_in_new障害者や児童の福祉増進の助成、アイバンク、高齢者施設運営など公益財団法人 正力厚生会open_in_newがん患者や家族、患者支援団体、医療機関への支援、助成読売健康保険組合open_in_new健康保険組合の運営

運輸

名称概要読売ロジスティクスopen_in_new読売新聞グループの輸送網を活用した利用運送と自社トラックによる一般運送

大阪本社関連

印刷

名称概要読売大阪プリントメディアopen_in_new読売新聞、報知新聞(スポーツ報知)など各種新聞の印刷

販売

名称概要読売情報開発大阪open_in_new新聞の販売促進、YCの資材品等の斡旋あっせん、生活情報紙の発行など読宣open_in_new折り込み広告を中心とした広告代理業

広告

名称概要読売連合広告社open_in_new関西を拠点に、全国各地のあらゆる媒体を取り扱う総合広告代理業読売エージェンシー大阪open_in_new求人広告を中心とした広告代理業

サービス・文化・教養

名称概要大阪読売サービスopen_in_new新聞紙面の編集・校正、カルチャー教室、講座の企画・運営、動画制作、デザイン業務など

福祉

名称概要大阪読売健康保険組合open_in_new健康保険組合事業

f

西部本社関連

新聞

名称概要スポーツ報知西部本社open_in_new九州・山口エリアでの「スポーツ報知」の発行・販売

販売

名称概要読売西部アイエスopen_in_new全国での新聞折り込み広告代理業、その他一般広告代理業、新聞即売事業

広告

名称概要読売広告西部open_in_new広告業全般

サービス

名称概要読売西部サービスopen_in_new新聞紙面の編成・校閲、制作業務の受託、人材紹介など

テレビ局

名称概要日本テレビホールディングスopen_in_new日本テレビ放送網やBS日本を傘下に持つ認定放送持ち株会社読売テレビ放送open_in_newテレビ放送、番組の企画・制作、イベント開催などBS日本open_in_new日本テレビ系のBSデジタル放送局。読売新聞協力による報道番組「深層NEWS」を放送CS日本open_in_new日本テレビ系のCSデジタル放送局。多チャンネル放送サービス「スカパー!」で番組を放送




M&A総合研究所
https://www.openwork.jp/company_answer.php?m_id=a0C1000001X8E49&q_no=9


https://www.openwork.jp/company_answer.php?m_id=a0C1000001X8E49&q_no=9



金融庁・保険モニタリングリポート

https://www.fsa.go.jp/news/r4/hoken/20230630-2/02.pdf



スキルアップを重ね続けて業界トップクラスM&A仲介会社に。ゼロから始めたトッププレイヤーへの軌跡~株式会社M&A総合研究所 代表取締役社長 佐上 峻作~


※本ページ内の情報は2024年3月時点のものです。


後継者不足に悩んでいる企業もあれば、会社を買収して事業を拡大したい企業もある。それをマッチングさせるのがM&Aである。いわば、企業同士のお見合いだ。

株式会社M&A総合研究所は上場企業唯一の完全成功報酬制という料金体系と、AIによる効率的なマッチングを武器に急成長している会社だ。創業からわずか3年9ヶ月で上場し、業界内で時価総額3,500億円を超え1位(2月時点)のM&A仲介会社へと成長させた佐上社長とはどのような人物なのか。ご本人に話をうかがった。

農学部から起業家へ。紆余曲折の末にたどり着いた答え

ーーどのような学生時代だったのでしょうか?

佐上峻作:
神戸大学農学部で菌に関する研究をしていましたが、このまま研究者としてのキャリアを積んでいくことは性格的に合わないと感じていました。では何をやりたいのかと考えたところ、出した答えは「自分で会社を経営したい」でした。

手に職をつけようとダブルスクールでデザインの学校に通い、スキルが身についたところでデザインの仕事をいくつか受託しました。

その後、自分で通販サイトを立ち上げました。しかし、広告やSEOについての知識が全くなかったので、独学でマーケティングについて勉強をしました。

エンジニアリングを極めて、経営者への道を切り開く

ーーいろいろな職種がある中で、どうしてエンジニアを選んだのですか?

佐上峻作:
エンジニアリングが最も難易度の高いスキルだと考えたからです。経営に必要な要素を六角形で表現するとしたら、すべてが90点以上で無ければ経営者にはなれないだろうと思っていました。その中でエンジニアとしてのスキルが90点を取るのにもっとも難しいと考えたため、まずはエンジニアを目指しました。

また、アメリカにはエンジニア出身の起業家が多いことも、エンジニアを目指すきっかけとなりました。

仕事をしながらシステムに関する勉強を約2年半行い、その期間中、自身でシステムを開発し、エンジニアとしてのスキルを高めていきました。

4,000本の電話から、3年で上場へ

ーーエンジニアから経営者になった経緯を教えてください。

佐上峻作:
2015年に株式会社Alpaca(現在は株式会社メディコマ)を設立しました。この会社をM&Aで売却した後、上場会社やファンドなどとの取引で10件ほどのM&Aに携わりました。このとき、M&A仲介会社のアドバイザーは非常に優秀だと感じつつも、その効率性と料金体系の不明瞭さに課題を感じ、この課題を解決する会社が必要だと考え、まずは自分で調査や情報収集を行いました。その後独立を決意し、2018年に株式会社M&A総合研究所を設立しました。

従業員は私だけ、雑居ビルからの始まりです。最初は信頼が得られず、契約が難しい状況でしたが、泥臭く、粘り強く努力を続けました。たとえばマッチングのために数千社に電話をかけ、契約が決まるまで徹底して行いました。数をこなせば成功すると考えていたので、「まずやる」ということが大事でした。

どんどん実績が出てきたことで知名度が上がり、3年9ヶ月で上場できるまでに成長しました。

ーーわずか3年9ヶ月で上場できた秘訣を教えてください。

佐上峻作:
20代の間ほとんどは1日20時間以上働き続けていました。こういった努力と時間の積み重ねが、他者と差をつけることに繋がったと考えています。

失敗を繰り返してスキルアップ

ーー学生時代、なりたいイメージ像はありましたか?

佐上峻作:
当時話題になっていたマークザッカーバーグなどの経営者に憧れていました。

事業を立ち上げては失敗を繰り返し、自分のスキルや知識の不足を痛感しましたが、それを補うために、努力を重ねてスキルアップを図り、結果として仕事の守備範囲が広がり、今に至っています。

ーー佐上社長のおっしゃる仕事の守備範囲は、どのようなものですか?

佐上峻作:
ほぼ全てです。人事の仕組みをつくり、延べ数千人の方と面接を行い、そのうち数百名の方を採用しました。また、M&A総研の広報やテレビCMの制作では、企画から制作、実施まで全てを担当し、さらにはSEOや広告に関する組織を立ち上げました。上場後のIR戦略(決算説明資料や中期経営計画の作成なども含む)も私が立案しました。

AIを駆使して徹底的な効率化を図る

ーー独自のシステムを開発されたとお聞きしました。

佐上峻作:
最初は市販の既存システムを使用していましたが、半年ほどで契約を解除しました。そして使い勝手の良いシステムをゼロから作りあげました。弊社専用にカスタマイズされたオリジナルシステムですので、非常に効率が良いです。同業他社から転職してこられた方へのアンケート結果では、労働時間を27%削減できています。

ーーDXやAI技術で案件を取っているのですか?

佐上峻作:
AIの得意分野は「速さ」と「抜け漏れを防ぐ」ことです。
営業活動から収集されたデータは、この会社がどのようなニーズを持っており、またはどの分野に興味がないかなどを含んでいます。これらの情報はデータベースに保存され、営業提案が増えるほど、AIは学習して精度を上げていきます。

営業は提案リストを作成するためにAIを活用します。AIはデータに基づいて客観的な提案を行うため、抜け漏れを防ぎ、リスト作成を効率化できます。しかし、営業が作成する属人的なリストには、顧客のニーズや状況を踏まえた提案が含まれているため、AIだけでは補えない属人的な部分も大事になってきます。そのため、AIは人の営業活動を補完する存在だと考えています。

在籍2年超のメンバーの平均年収は2,800万円

ーー夢のような年収ですね。

佐上峻作:
会社自体が設立から5年半しか経っておらず、在籍5年以上のプレイヤーがいない状況で、これだけの年収をもらえることは、正直に言うと異常だと思います。未経験で年収1億を超える人も珍しくありません。M&A仲介のビジネスモデルは複雑で難しいため、参入しても撤退する企業が多いのです。

ーー将来のビジョンについて教えてもらえますか?

佐上峻作:
この業界においてナンバーワンのポジションを獲得することは当然の目標だと考えています。さらに、新しい事業領域での収益拡大に注力し、成長を続けていくつもりです。また、プロ経営者を社内で育成していきたいと考えています。一般的に経営者は非常に優秀な人が多いですが、M&A業界も優秀なプレイヤーが多いと思っています。そして弊社にも優れたメンバーがいます。そこで、経営者と同じような環境で学べば、経営者になれる可能性が高いのではと考えました。私は再現可能な方法で体系的に学んだことで、経営者になることができました。現在は、経営に興味を持ち、真剣に取り組みたいと意欲のあるメンバーを育てて成長させています。

ーーぜひ仲間になっていただきたい人物像はありますか?

佐上峻作:
ハードルは高いですが、弊社は時価総額で1兆円を超える企業に成長させることを目指しています。このビジョンに共感して本気で目指していただける方に来ていただきたいです。そのうえで、論理的思考力や問題解決能力を兼ね備え、素直で前向きに努力できる方と仕事をしたいです。

編集後記

マルチタスクという言葉では足りないほど、すべての業務に精通し、国内最年少のビリオネアとなった佐上社長。AIテクノロジーや徹底した自動化で効率化を図れるのはエンジニア出身の強みであろう。

数字をきちんと把握し、理論的に語る佐上社長には、時価総額1兆円超えの未来も見えているに違いない。佐上社長の挑戦に、これからも注目していきたい。

佐上峻作(さがみ・しゅんさく)/1991年大阪府生まれ。神戸大学農学部卒業。新卒でマイクロアドに入社し広告配信のアルゴリズム設計に従事したのち、EC・メディア事業を行うメディコマを創業。同社をベクトルに売却後、子会社社長に就任してから十数回の企業・事業買収と売却を実施。2018年にM&A総合研究所を設立。

会社概要

社名株式会社M&A総合研究所本社所在地東京都千代田区丸の内1-8-1 丸の内トラストタワーN館17階(受付)設立2018年

業種分類サービス業代表者名佐上 峻作 従業員数313名(2024年1月末時点)WEBサイトhttps://masouken.com/事業概要M&Aアドバイザーが専属でフルサポートするM&Aの仲介事業





桜の名所!杉並区でおすすめの公園 8選

  1. 善福寺公園

    1. 善福寺川緑地公園

    2. 和田掘公園

    3. 天沼弁天池公園

    4. 三井の森公園

    5. 妙正寺公園

    6. 蚕糸(さんし)の森公園

    7. 馬橋公園





たけしさんのソナチネ・フル。削除される前にぜひ。


投資格差が縮小するドイツとフランス フランスの存在感
https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2024/02/report_240219_01.pdf



世界史用語解説授業と学習のヒントappendix list

アヘン戦争

1840年、アヘン密貿易をめぐって行われたイギリスの中国に対する侵略戦争。イギリスは清朝政府のアヘン投棄に抗議して開戦に踏み切り、勝利することによって1842年に南京条約を締結、香港の割譲などの権益を得た。ヨーロッパ勢力によるアジア植民地の第1歩となった。

 イギリスの手によって密輸入されるアヘン(阿片)の害が広がり、銀の流出も増大しているところから、1839年、清朝政府は林則徐を欽差大臣に任命してとして広東に派遣した。赴任した林則徐は、吸飲者・販売者への死刑の執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求した。それが履行されないので貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て、アヘン2万箱を押収し、焼却した。同じ時、イギリス人水兵による中国人殴殺事件が起こり、林則徐は犯人引き渡しを要求したが、イギリスが応じず、再び強硬手段に出た。

イギリス議会における戦争反対論

 19世紀、ウィーン体制下のイギリスでは、産業資本家の台頭によって自由貿易主義の時代に入っており、中国という巨大な市場を獲得し、あわせてイギリスのインド植民地支配を安定させたいという国家欲求があった。1837年に始まったヴィクトリア朝のもと、ホィッグ党メルバーン内閣のパーマーストン外相によって、自由貿易主義の拡大を目指す外交政策が推進された。その中で問題となってきたのが、中国とのアヘン貿易であった。
アヘンはイギリス国内でも麻酔薬として利用されていたが、同時に中毒性のある有害なものであるという認識もあった。しかし、イギリス政府と東インド会社がインドのベンガル地方で大々的にアヘンを栽培し、それをを中国に輸出していることは公にされていなかったので、議員や市民はその実態を知らなかった。清朝がアヘンを没収して焼却したことに対し、それは非人道的な密輸品であったにもかかわらず、イギリス政府と商人は自分たちの「財産」に対する侵害であるから、正当に賠償を請求することが出来ると主張した。
9票差で可決 しかし、政府が開戦に踏み切り海軍を派遣する段になって、軍隊派遣は議会の承認を必要とするので、初めて問題が表面化した。議員の中には有害なアヘンを中国に密輸することは人道上問題であるとして軍隊派遣に反対論が広がった。ホィッグ党メルバーン政権のパーマーストン外相の開戦案に対して、議会ではグラッドストンなどの反対論も活発であったので紛糾したが、採決の結果、賛成271、反対262のわずか9票差で、軍隊派遣が可決されたのだった。

資料 グラッドストンの反対演説

(引用)その起源においてこれほど正義に反し、この国を恒久的な不名誉の下に置き続けることになる戦争をわたくしは知らないし、これまで聞いたこともないと、明言できる。反対意見の議員は、昨夜広東で栄光のうちに翻るイギリス国旗とその国旗が地球上のどこにおいても侮辱されることはないと知ることで鼓舞されるわれらが兵士たちの精神について雄弁に話された。幾多の危機的状況のなかでイギリス国旗が戦場に掲げられているときイギリス臣民の精神が鼓舞されてきたことをわれわれは誰でも知っている。だが、そもそもイギリス国旗がイギリス人の精神をいつも高めることになるのはどうしてであろうか。それはイギリス国旗が常に正義の大義、圧政への反対、国民の諸権利の尊重、名誉ある通商の事業に結びついていたからこそであった。ところがいまやその国旗は高貴な閣下の庇護の下で、悪名高い密貿易を保護するために掲げられているのである。(中略)
 …………わたくしは、女王陛下の政府が本動議に関して本院にこの正義に反した、邪悪な戦争を教唆するよう説得することなど決してないと確信する。わたくしはアヘン貿易をどれだけ激しく弾劾しようと何の躊躇も感じない。同様な憤激をもってアヘン戦争を弾劾するのに何の躊躇も感じることはない。<歴史学研究会編『世界史史料6』岩波書店 p.149>

 これは1840年4月8日、イギリス下院におけるグラッドストンの演説の一部である。グラッドストンはアヘンの密貿易を清朝に認めさせるための戦争は、イギリスが掲げてきた正義のための戦争という大義に反することだ、として反対した。
パーマーストン外相の論理 翌日外務大臣のパーマーストンは、清朝政府がアヘン密貿易を取り締まるのは国民を道徳的退化から守ろるためではなく、銀の流出を防ぎたいという利害の保護のためにすぎない、そのためにイギリスの通商業者が危機に瀕している以上、武力行使はやむを得ないと反論した。パーマーストンは演説の最後をこう結んでいる。

(引用)武力の示威が、さらなる流血を引き起こすことなしに、われわれの通商関係を再興するという願わしい結果をもたらすかもしれないと、すでに表明されている。このことにわたしも心から同意するものである。<『同上書』 p.150>

 若きグラッドストンの雄弁は正義感にあふれたものであったが、結局戦争反対の動議は9票差で否決された。パーマーストンの「武力の示威」は、心配されたように「さらなる流血」を引きおこすことになるが、此処で示された通商の利益を守る」ための武力行使という「砲艦外交」の論理は、この後の帝国主義諸国がくりかえすことになる。

アヘン戦争の意味

 イギリス(パーマーストン外相)は、焼却されたアヘンの賠償を要求、それを清朝(道光帝)が拒否すると、両者は1840年、戦争に突入した。このユーラシア大陸の西端からはずれた海上帝国イギリスと、大陸の東の広大な領土を持つ専制国家清帝国の戦いは、近代におけるヨーロッパを主導する国とアジアの大国が初めて戦火を交えた戦争であるが、アヘン問題が発端となったためアヘン戦争と言われている。なぜか英中戦争とか中英戦争とかかは言われない。というのも両国の軍事力は対等とはほど遠い格差があり、戦場は中国沿岸にかぎられ、イギリスが一方的に攻め立てることとなった、近代的な意味での戦争とは言えない出来事だった。しかし、アヘン戦争は中国近代史の不幸な出発点となったばかりでなく、ひいてはアジア全体のその後に余りにも大きな影響を与えた歴史的な転換点となる戦争、いや侵略事件ではあった。
※2020年、香港の民主化運動が高揚したことに対して、中国習近平政権は香港国家安全維持法を制定、弾圧を強めていることが世界、日本でも関心を呼んでいる。忘れてはいけないのは、香港問題の出発点が、そのイギリス植民地化の契機となったアヘン戦争であることだ。<2020/7/31記>

戦争の経過


アヘン戦争 砲撃される清のジャンク船。砲撃しているのは右の二本マストのイギリスの外輪蒸気船。よく見ると、かすかに砲弾の軌跡が描かれている。右端の小舟からも砲撃している。<東洋文庫蔵>

 1840年5月、イギリスはインド総督に命じてインド駐留の海軍を派遣、6月に広州湾に達し事実上の戦争が開始された。イギリス海軍は、軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社の武装汽船4隻、それに陸軍約4000人が加わるという陣容だった。イギリス海軍はただちに珠江突入をはかったが、虎門付近の海中に鎖と材木が山のように投げ込まれたため進めず、やむなく珠江封鎖をあきらめ、福建省厦門に向かった。しかし厦門では清朝の閩浙総督の抵抗を受け、上陸できなかった。攻撃を想定した林則徐がこの地域の警備を強化していたため、イギリス軍は予想外の強い抵抗を受けた。
イギリス海軍の北上 やむなく北上したイギリス軍は7月5日に寧波近く、杭州湾沖合の舟山島を占領、その地に全身基地を置いた。清朝の警備は財政難から、この地域の強化まで及んでいなかった。イギリス軍は更に北上して渤海湾に入ると清朝の道光帝は敵軍が北京の目前に迫ったことに肝をつぶし、急きょ対策を練った。8月9日に天津沖に到達、パーマーストン外相の書簡を中国側に手渡し、アヘン代価の支払い、公行制度の廃止などを要求、責任者林則徐を強く非難した。北京に近い渤海湾の天津沖にイギリス海軍が侵入したしたことに清朝政府は驚き、強攻策を放棄し、林則徐を罷免、広州で交渉に当たることとなった。
宣戦布告前の降伏 林則徐に代わって欽差大臣に任命された琦善が広州でイギリス軍司令官エリオットと交渉することになったが、エリオットは新たに香港島の割譲を要求したため決裂した。1841年1月7日、イギリス軍は攻撃を再開、虎門沖の沙角、大角砲台を占領した。このとき守備軍副将陳連陞は500人の部下を指揮、琦善に援軍を要請したが断られ、夜まで奮戦したものの弾薬が尽きて全員戦死した。
 1月27日、イギリス軍が攻撃を再開したことが北京に知らされると、道光帝は激怒し、ようやく開戦の決断を下し、イギリスに対して宣戦布告を行った。そのうえで親族の奕山を将軍として1万7千の兵を広東に向かわせた。ところが現地ではすでに1月20日、琦善が降伏を申し入れ、舟山諸島の代わりとして香港島を割譲すること、6百万ドルのアヘン賠償金を支払うことを約してしまっていた。
虎門砲台の陥落 面目をつぶされた道光帝は琦善を罷免、奕山にイギリス軍排撃を命じた。イギリス軍は清朝政府の宣戦布告を受け、虎門砲台に攻撃を加えたが、砲台の守将関天培は15門の大砲を撃ち続け、2日2晩の撃ち合いの後、砲弾がつき、約200人が戦死、30人が自殺した。奕山の率いる清軍が広東に着いたのは4月14日、すでに虎門砲台は落ち、広東は混乱しており、イギリス軍と戦うより、広東の現地軍の反乱を抑えることに力を注がなければならなかった。混乱の中、5月2日に林則徐は失意のうちに広州を去った。
寧波の焼き打ち 5月にはいり、奕山はイギリス軍に対して攻撃を試みたが、すぐに敗退、あっけなく白旗を掲げた。しかし、北京の道光帝にはイギリスの要求は貿易再開のみであると報告、事態を隠蔽した。正式な和平条件が朝廷から示されないことにシビレを切らしたイギリス軍は、交渉に当たったエリオットを罷免、新たに全権大使に任命されたヘンリ・ポッテンジャーは清朝政府と直接交渉すべく、再び艦隊を北上させ、厦門、舟山諸島の定海、鎮海を占領、さらに寧波に上陸して市内を焼き払った。清朝軍は寧波の奪還を図り、奇襲と称して鉄砲を持たず、軍刀だけで攻撃したが、イギリス軍に反撃され惨敗した。<譚璐美『阿片の中国史』2005 新潮新書 p.130>
大運河の封鎖作戦 ポッテンジャーは清軍の弱体につけいることを意図し、7月には上海を占領し、長江を遡って南京に迫った。イギリス海軍は大運河の起点である鎮江を占領し、大運河の閉鎖を通告した。大運河の重要性は、かつてマカートニーが北京からの帰途、大運河を南下して鎮江を通過したことがあり、イギリス側は十分理解しており、清朝も中国経済の大動脈である大運河が閉鎖されることを恐れ、ついに和平交渉に応じた。<並木頼寿『中華帝国の危機』世界の歴史19 p.55-58 などによる>
平英団の抵抗 1841年5月、イギリス軍が広州に侵攻した際、付近の中国民衆は郷紳らに組織されて抵抗組織を作り、「平英団」という旗を掲げて反撃した。清朝官憲によって賊徒とされて解散させられたが、外国勢力に対する中国民衆の抵抗運動が早くも始まっていることが注目できる。

南京条約の締結

 和平交渉の結果、1842年8月29日、南京沖の長江に停泊するイギリス軍艦コーンウォリス号上で、南京条約が締結された。
 この条約では上海などの五港を開港し、香港島を割譲、さらに付則の五港通商章程虎門塞追加条約を含めて中国にとって不利な不平等条約であった。
 南京条約で清朝は基本的にはカントン・システムと言われた外国貿易を広州だけに限定し、特許商人組合の公行のみが貿易を行うという管理貿易体制を廃止し、自由貿易国となり、ヨーロッパ資本主義世界に、しかも関税自主権のない不平等な状態で組み込まれることとなった。
アロー戦争へ しかし、イギリスの対中国貿易は南京条約後もの輸入とアヘンの輸出を主力とするものであって、イギリスにとっては思った程の利益が上がらなかった。そこで、イギリス資本はさらに貿易港を増やすこと、貿易港以外の内地でも自由な取りひきが出来るような条項を含む取り決めを願望するようになった。それが、1856年にイギリスが第2次アヘン戦争とも言われるアロー戦争を引き起こす要因であった。

アヘン戦争の意義

 アヘン戦争は、イギリスの中国侵略とそれに続くアジア植民地支配の大きな契機となった。この後、中国は不平等条約や国土の割譲、租借によって半植民地状態に転化していく。さらに過酷な国際政治に巻き込まれた清朝は、それまでの中華思想に基づく朝貢貿易・互市貿易という尊大な姿勢をとることが出来なくなり、権威を著しく失墜して衰退を早めることとなる(ただし、清朝はその後も70年の命脈を保つ)。
 同時にその一方で、外国の侵略に対する中国民衆の運動は第2次アヘン戦争とも言われるアロー戦争中に太平天国などとなって続くこととなる。またアヘン戦争は、同時期の1857年5月、インドにおけるインド大反乱(シパーヒーの乱)とともに、イギリスの支配に対するアジア民衆の抵抗運動の始まりであり、清朝政府という専制国家に対する漢人民衆の独立への自覚が生まれたという面でも、中国近代史の主発点であった。

アヘン戦争と日本

 アヘン戦争での清朝の敗北は、鎖国中の日本にも長崎出島に来港するオランダ船がもたらす情報(オランダ風説書)で伝えられ、江戸幕府も知るところとなった。また琉球は薩摩藩に服属していたが、清にも服属する両属の関係にあったので、清への朝貢使節を通じてアヘン戦争情報は薩摩藩に伝えられ、薩摩藩から幕府に知らされた。幕府は1825年に異国船打払令(無二念打払令)を出していたが、清朝がイギリスに敗北したことを知って、1842年8月28日(南京条約調印の前日)に薪水給与令をだし、対外強硬姿勢を改めている。同時に、高島秋帆の西洋流砲術を採用し、江川太郎左衛門にそれを学ばせるなど軍備強化を図っている。また林則徐の友人の魏源の著作『海国図志』(林則徐の西洋研究を継承し、欧米を含む世界の地理、歴史、現状など、中国で最初の本格的な世界地誌)がいち早く輸入され広く読まれている。1853年のペリー来航のわずか11年前のことであった。<並木頼寿『同上書』 p.64>






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小手川隆の保有銘柄

保有銘柄

小手川隆さんは現在19銘柄を保有しています。

小手川隆

Line chart with 19 lines.

The chart has 1 X axis displaying Time. Data ranges from 2014-03-31 00:00:00 to 2024-03-27 23:56:58.

The chart has 1 Y axis displaying 保有額(円). Data ranges from 12083000 to 5720438000.

保有額(円)小手川隆クックパッド株式会社株式会社イメージワン株式会社ブロッコリーユニチカ株式会社綿半ホールディングス株式会社株式会社CARTA HOLDINGS株式会社ケイブ株式会社ジャストプランニング昭和ホールディングス株式会社地盤ネットホールディングス株式会社株式会社ベルシステム24ホールディングス株式会社一蔵株式会社大泉製作所株式会社ファルテックJトラスト株式会社株式会社オリエントコーポレーション株式会社アプラスフィナンシャル株式会社ランド日本アセットマーケティング株式会社16.0118.0120.0122.0124.01025億50億75億

End of interactive chart.

保有銘柄

銘柄コード会社名保有額 (百万円)保有株式数 (千株)保有割合 (%)8585株式会社オリエントコーポレーション3,2412,899.11.623199綿半ホールディングス株式会社1,316800.04.058922日本アセットマーケティング株式会社1,1326,945.82.516183株式会社ベルシステム24ホールディングス1,052660.00.93688株式会社CARTA HOLDINGS832520.04.68508Jトラスト株式会社5771,297.01.152706株式会社ブロッコリー414277.44.236618株式会社大泉製作所303233.73.293760株式会社ケイブ213119.64.858589株式会社アプラスフィナンシャル2092,493.00.153103ユニチカ株式会社1991,175.02.032193クックパッド株式会社1421,022.00.957215株式会社ファルテック117211.52.268918株式会社ランド8010,000.00.694287株式会社ジャストプランニング67198.01.562667株式会社イメージワン38110.03.126186株式会社一蔵3455.01.06072地盤ネットホールディングス株式会社33193.00.835103昭和ホールディングス株式会社12281.00.37

保有履歴

銘柄コード会社名日付保有額 (百万円)保有株式数 (千株)保有割合 (%)2193クックパッド株式会社2017-06-309311,0220.952667株式会社イメージワン2014-09-30521103.122706株式会社ブロッコリー2014-08-311,5772774.233103ユニチカ株式会社2018-09-308501,1752.033199綿半ホールディングス株式会社2015-03-312938004.053688株式会社CARTA HOLDINGS2014-09-301,4725074.592015-03-311,2335204.63760株式会社ケイブ2015-05-313741194.854287株式会社ジャストプランニング2018-07-312071981.565103昭和ホールディングス株式会社2018-09-30212810.376072地盤ネットホールディングス株式会社2014-09-301671930.836183株式会社ベルシステム24ホールディングス2016-08-315566600.96186株式会社一蔵2016-03-312252504.562016-09-302742504.562017-03-3161551.02017-09-3062551.06618株式会社大泉製作所2014-09-302362333.297215株式会社ファルテック2014-03-314003163.442014-09-303262112.32015-03-313362112.282015-09-302882112.282016-03-312852112.262016-09-302472112.262017-03-312852112.262017-09-302962112.252018-03-312662112.252018-09-302262112.268508Jトラスト株式会社2017-09-301,2511,2971.158585株式会社オリエントコーポレーション2015-03-311,9501,0000.922015-09-305,7202,8311.522016-03-314,4241,9751.062016-09-304,4732,3301.252017-03-314,2002,0901.122017-09-304,5422,4821.382018-03-314,3292,5921.442018-09-304,8412,8991.628589株式会社アプラスフィナンシャル2014-09-302431,7000.12015-09-302592,3600.142016-03-312542,4930.152016-09-302512,4930.158918株式会社ランド2021-02-2813010,0000.698922日本アセットマーケティング株式会社2014-09-304262,9001.042015-09-305625,2051.882016-03-317786,5952.382016-09-308266,9452.51





完全子会社化の買収プレミアムと
  子会社少数株主の利益

https://www.jsri.or.jp/publish/research/pdf/125/125_04.pdf






【トップに聞く 2021】ビームス 設楽洋社長 「上場はしない、と言い切っている」

BUSINESSトップに聞く
2021.02.13 Sat. - 11:00 JST
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ビームス 設楽洋社長
IMAGE by: FASHIONSNAP
 ウィズコロナ時代の経営の展望を聞く連載「トップに聞く 2021」第10回は、ビームスの設楽洋社長。世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルス感染の影響から、アパレル市場回復には時間がかかるという見方が強いが、設楽社長は明るく前向きな姿勢だ。ビームス創業45周年、そして自身も70歳を迎える大きな節目を目前に、いま思うこととは。
■設楽洋
1951年東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、1975年に電通に入社。翌1976年に「ビームス」の設立に参加し、原宿に1号店を出店。セレクトショップ、コラボレーションの先鞭をつけた。1983年に電通を退社。ビームスは現在、国内外に約170店舗を展開している。
―2020年を振り返るとどんな一年でしたか?
 創業以来、最も厳しい年だったと思う。特に昨春の緊急事態宣言では最長約1ヶ月半、実店舗が店舗休業を余儀なくされるエリアもあり、ダメージはかなり大きかった。
―その分、ECの売上は伸びたのではないでしょうか。
 我々もこの期間はデジタルシフトを加速し、ライブコマースやスタッフ投稿など、リアルで培ってきた個人の発信をさらに強化した。「ジャパネットビームス」のようなイメージでね。これまでのEC比率は30%前後だったが、2020年上期は46%まで伸びたし、自社ECでスタッフ投稿から入ってきた売上比率は69%に成長した。商品の目的買いではなく、「人」から入ってきて売れた金額が7割近くあったということは、お客様は商品だけではなくて、スタッフとの繋がりであったり、ビームスのコミュニティに入りたがっているとも言えるだろう。
―首都圏と関西圏はいまも緊急事態宣言下にあります。足元の状況は?
 ホームウェアといった類のアイテムは好調だが、飲み会やパーティー、結婚式といったいわゆるハレの舞台がない状況なので、お客様の消費意識の変化、そして来街者や駅の利用者、商業施設への来館者の減少といった物理的な変化がリアルのビジネスに相当影響している。

―海外の景況は?
 台湾はコロナ感染拡大の封じ込めに成功しているので割と元気。ECも伸びてきているし、現地での認知度も上がっている。中国も海外渡航ができない影響で内需が拡大しているので、ポップアップも含めてリアルの店舗は調子が良い。逆に香港や卸販売をしているヨーロッパは落ち込んでしまっている。
―仕入れ削減などの対応は行いましたか?
 2020年秋冬は前年に対して7割程度に引き下げ、あとはいわゆる短サイクルのもので足りない分は対応するように指示を出した。2021年春夏は出張ができなかったり海外現地の工場が機能しなかった背景があるので、2019年春夏と比較すると多少減っているが、計画通りに進行している。
―2020年、特に力を入れた施策は?
 我々はモノだけではなくコトを売ることをやってきたが、コロナによってイベントができなくなってしまった。逆を言うとコトをどうやってデジタルで発信していくか。そこに注力した。
 一番収穫があった取り組みは「バーチャルマーケット(※)」というVRマーケットへの出店。VRと通じて世界中のお客様とリアルタイムでつながることができ、手応えを感じた。昨年トライアル出店した時は100万人がイベントに来場したので、VRがもっと一般の層にも浸透すればすごいことになるだろう。リアルのファッションだけではなく、アバターファッションの販売の場としてもポテンシャルはかなり高いと感じている。
※バーチャルマーケット:VR空間上にある会場で、出展者と来場者がアバターなどのさまざまな3Dアイテムや、リアル商品を売り買いできる世界最大のバーチャルイベント。VR機器やPCから気軽に誰でも参加することができる。昨年12月開催の「バーチャルマーケット5」では過去最大の延べ約100万人を超える来場者数を記録した。

ビームスのバーチャル店舗Imaged by HIKKY

―アバターファッションの市場は今後広がりそうですか?
 市場規模はまだまだ少ないが、リアルでは叶わない自分の姿をアバターで作ることができるという体験は新しいハッピーに繋がり、自分の中の新しい世界が見えてくる。それによってリアルのファッションも連鎖的に変化する時代になるんじゃないかと考えている。
―2020年2月期の売上高は854億円でした。今期の通期着地の見込みは?
 おそらく前年比で8割強になるだろう。営業損益は創業以来初の赤字となってしまった。とはいえ、賞与は減額したがちゃんと出したし、ここまで一人もリストラすることもなく、新入社員も新たに迎え入れるし、元気に頑張っている。
―他社では大量閉店が相次いでいますが、その予定は?
 全く無い。コロナ前から店舗効率化の計画は進めていて、それが少し早まっただけ。閉店する店舗は4〜5店舗程度の見込みだ。
―今後力を入れていく事業は?
 BtoB、サステナビリティ、デジタル化の3つを今後の大きな要素としている。

サステナビリティの取り組み
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―BtoBではどのようなプロジェクトに取り組んでいるのでしょうか?
 企業や行政とのコラボがメイン。2019年にBtoBの部門を発足したが、立ち上げてからまだ正式に発表してない段階からものすごい量の依頼が届いた。昨年は半期で約150件ほどあったかな。(宇宙航空研究開発機構JAXAに所属する)野⼝聡⼀さんの国際宇宙ステーション⻑期滞在時の衣服を手掛けたことで、同じく野口さんの活動に協力する日清カップヌードルさんとの搭乗記念コラボが実現したのも大きかった。「単純な店持ち小売」から「オペレーション機能をもった企画集団」になると言い続けてきたが、この取り組みがコロナの苦しい時期に助けてくれたと感じている。

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―BtoB部門がコロナの悪影響を受けていないのは少し意外でした。
 おそらくクライアント側は予算を削ったとしても、広告宣伝費であったり開発費をどこにかけるかというところに、「面白いことやってくれるだろう」という期待を込めてビームスに依頼してくれているのでは。そしてトレンドに敏感なお客様を抱えていることも、「バズらせる」という点で大きなメリットと感じていただけているのではないかと思う。
―BtoB部門で目指すものは?
 「明るくて楽しい社会現象を起こす」というのが我々の役目。あらゆる商品やサービスに関して、ビームスが関わっていくことで驚きと発見を与えるビジネスができる「集団」になりたい。セレクトショップを始めた頃は、オーナーが好きなものを仕入れて、「これが好きな人、この指止まれ」というモノを軸にしたやり方で大きくなってきた。そして今はスタッフ100人いれば、100通りのビームスがある。これからの時代は人を軸に、これまで我々のお客様だった方ともビジネスや社会現象を一緒に起こしていけるようなコミュニティの集団でありたいと思っている。
―セレクトショップを取り巻く環境は大きく変化しています。設楽社長はどのように見ていますか?
 ブームは長く続いたが、"かつてのセレクトショップ"はもう難しくなるだろう。これだけモノと情報が溢れ、個人のインフルエンサーが自ら商品をセレクトして仕入れてモノを売ったりすることも増えた。当社でも競合はユナイテッドアローズさんやトゥモローランドさん、ベイクルーズさんだけではなくなってきていると伝えている。インフルエンサーといってもお小遣い稼ぎ程度でモノを売る人もいるが、これが今後は10万人、100万人と出てきた時は脅威。

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―これからのセレクトショップのあるべき姿とは?
 単純なセレクトショップではなく、人格を持つビジネスでなくてはいけないと思う。その点についてはビームスはできていると考えている。
―昔から言われている、上場には未だに興味はないですか?
 僕が社長でいる間は一切興味はない。「上場しない」と言い切っている。上場することによってできなくなることがたくさんあるので。アートやカルチャーは正直赤字になりやすいコンテンツだから、もし上場したら「そんなもんやめちゃえ」と言われかねない。でもアートやカルチャーがあるからこそ、今のビームスがある。次の社長の世代がもし上場したいという意向があるのなら、その時は任せるが。
―設楽社長は今年70歳を迎えます。社長職は何歳まで続けたいですか?
 いや、もう今すぐでもやめたい(笑)。今年の創業45周年で70歳。50周年だったら75歳。感覚としては50周年を迎える前に引き継ぎたいかな。
―では「社長」という肩書きにはこだわりはない?
 全くないね。
―後継者選びはある程度目処はついているのでしょうか?
 まだ目処はついてないが、新生ビームスをつくる社員はある程度は育ってきているなというのはすごく感じている。

―第一線から退いても心配はない?
 ビームスにはしっかりしたスタッフがたくさんいる。以前、社内で若手も集めて中間報告をプレゼンしてもらった時に「これは大丈夫だな」と思えた。あとは、時代が変化する中で「新しい種」を育てていけるかというところに、どこまでシフトしていけるか。必要なのはその意識だけ。
―しかし設楽社長の退任は社員の皆さんもまだ望んでいないのでは?
 そうかもしれない。でも遊びたい(笑)。僕はアイデアマンタイプで、マネジメント型の社長ではないから。いまはコロナでイベントはすべて自粛されているから気が狂いそうでね。コロナ前はずーっとアポが続いて、夜はレセプションやパーティー、会食が毎日のように入っていたけど、それが今は全部ナシ。対面で会う人は100分の1に減ったからね。僕は色々な異業種の人と話して情報を得たりすることで、新しいアイデアが浮かぶタイプ。人と会えない分は、YouTubeやNetflixで色々な勉強を一生懸命しているところ。
―最後に、アパレル業界の今後をどのように見据えていますか?
 中・長期的、アフターコロナもアパレル業界は非常に厳しくなっていくと思う。コロナを除いても、中期的に見れば少子高齢化が続いて人口が減っていく。百貨店や商業施設は淘汰されるところも出てくると思う。それからデジタルの時代になることで、「ファッション以外の楽しいこと」がたくさんあるという状況は今後も続くだろう。
―どんな企業やブランドが生き残っていけると考えますか?
 やはり強い基盤があること。実店舗もネットもすでにオーバーストア気味。「わざわざ行くに足る理由」が必要だ。
 僕はブランディングにおいては「連想ゲーム」をいつも意識している。例えば「車」というお題があるとしたら、「ベンツ」や「トヨタ」の名前を挙げていくと思うが、1周目で名前が出てくるブランドでなくてはならない。ショッピングでも同じ。原宿や渋谷で「今日4、5軒見て回ろう」という時に、ここに入るかどうか。キャラクターがはっきりしているブランドは人を楽しませる要素があるから、強く残っていけるはず。ビームスも選ばれるブランドやショップであり続けないといけないと思うし、そういった取り組みを今後も進めていく。
―これからの時代のビームスの役割とは?
 我々がセレクトショップをスタートした1976年は若者がモノと情報に飢えていた。ところが45年経った今はモノと情報が溢れすぎているが故に「正しい情報が何か」ということに逆に飢えてしまっていると思う。
 これまでのセレクトショップは「見たことがないものを見せてあげる」ことが役目だったが、これからは「絞ってあげること」が役目になってくるだろう。そこにビームススタッフの「人格」や「ノウハウ」を生かすこと。それが次のビジネスになっていくだろう。
―2021年はビームスにとってどんな一年になりそうでしょうか?
 2020年を「進化は危機からやってくる」とするなら、今年は「四つの良し」。
―その心は?
 昔から「三方良し」という商売人の言葉があるが、「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の3つに、「未来に良し」を加えて「四つの良し」とした。「四方良し」だと東西南北みたいになっちゃうから(笑)。
―「未来に良し」にはどういった意味を込めていますか?
 「未来の子どもたちにとって良し」。これはゴミを少なくしたりサステナビリティに協力していくことについて具体的に取り組んでいくということ。SDGsを推進し、業界内でのサステナビリティへの意識を高めていくことも我々の役目だと思っている。
―明るく前向きなスローガンですね。
 元気が出るでしょう? その姿勢が今、大事なんだ。

取材日に着用したセットアップはピッティでイタリアに訪れた時に仕立ててもらったという「スティレ ラティーノ(Stile Latino)」のもの。
(聞き手:伊藤真帆)

過去のインタビュー
連載「ふくびと」BEAMS社長 設楽洋 〜6.5坪の1号店から未来へ〜
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#1 「経営とマーケティングの分離」に挑む統合解剖学、はじめます。 | マーケティングアナトミー™

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BOX LLC.

2022年1月3日 13:31 フォローする

マーケティングアナトミー™は、組織での運用を前提としたBOX流「経営とマーケティングの統合解剖学」です。
マーケティングアナトミー™ 連載記事一覧はこちらから

こんにちは。BOXの阿部です。

目次

  1. マーケティングアナトミー™、はじめます。

  2. 痛感してきた、「経営とマーケティングの分離」が発想の原点

  3. ●オリエンがスベっている

  4. ●みんなが言っている「マーケティング」の意味がバラバラ

  5. ●外部支援機関の知見に隔たりがある

  6. ●右脳vs左脳論の呪縛

  7. ●コミュニケーション領域を重視しすぎ

  8. ●組織を越えると目的がバラける

  9. ●流通している実践的マーケティング論のほとんどが「成功事例」の切り売り

  10. 「経営とマーケティングの統合」は、BOXのメインテーマ

マーケティングアナトミー™、はじめます。

BOXは設立以降一貫して「経営とマーケティングの統合」をテーマに、実に幅広い業種におけるクライアント様の支援を行ってきました。消費財、サービス、B2Bなど、スタートアップから大企業まで、プロジェクトのスコープもスケールも多種多様です。

プロジェクト内容は、メンバーの経歴がそうであるようにマーケティングをコアにしながらも、そこに接続される全社戦略、事業戦略、組織設計、ファイナンス、サプライチェーンマネジメント(SCM)、システム最適化、オペレーション改善など、多岐にわたる領域で戦略策定から実装まで並走支援を行ってきました。

実は、1年半ほど前から、BOXのメンバーが積み重ねてきたそうした並走支援の知見に加えて、ぼく個人が10年以上経験してきた統合マーケティングプランナーとしての知見、またBOXメンバーが経営の当事者として関わっている実ビジネスの知見をまとめて体系化したい、という構想を重ねていました。「知見」とカッコつけて言っていますが、これまで数多くの失策も経験してきた罪滅ぼしでもあります。あのときはこの視点が足りなかったな、あのときはこう考えればよかったな、という毎日の後悔や反省の積み重ねを反映して、批判を恐れず一度思い切って体系化してみようというチャレンジです。

そしてこのたび、メンバーに壁打ちをしてもらいつつ、「経営とマーケティングの統合解剖学」と銘打ったマーケティングアナトミー™なるフレームワークにまとめることにしました。そして、誤解を恐れずに敢えてぼくなりのポジションを取る意味合いも込めて、マーケティングアナトミー™についてこのnoteマガジンで連載することにしました。

痛感してきた、「経営とマーケティングの分離」が発想の原点

実際にマーケティングアナトミー™の説明をする前に、今回のnote記事では「なぜマーケティングアナトミー™の発想に至ったのか?」、その課題感を共有しておきます。

ぼく個人としては、マーケティング調査および分析からブランドマーケティングの戦略策定、メディアプランニングを含むIMC(統合マーケティングコミュニケーション)プランニング、クリエイティブディレクション、PRディレクション、時にはスポーツイベントや音楽イベントの統括、細かいところではプレスリリースの執筆やアドマネの設定まで、いちプランナーとしては上流工程から下流工程まで、それなりに広い領域を経験してきたほうだと思います。

しかしやればやるほど、いくつかの課題に直面してきました。

●オリエンがスベっている

オリエン(ブリーフ)で書いてある「ターゲット」が、同じオリエンに書いてある売上増や顧客数増を達成するには小さすぎる集団を規定している。オリエンに書いてあるブランド指標の目標値が、目指す売上や顧客数に帰結していない。etc.

●みんなが言っている「マーケティング」の意味がバラバラ

広告代理店の営業は「調査部隊」というニュアンスだし、宣伝部はざっくり「宣伝」のことだと思っているし、◯◯マーケティング屋さんは◯◯マーケティングこそ本流だと喧伝しているし、おかげで経営者は「マーケティングって何かよく分からん!」とすら思っている。etc.

●外部支援機関の知見に隔たりがある

コンサルはなんとなく事業計画っぽいところで止まってしまい、「じゃあどうするの」という戦場の香りがせず、広告代理店は事業P/Lなどいざ知らず。クリエイティブエージェンシーは突然企画のプレゼンからスタート。etc.

●右脳vs左脳論の呪縛

「クリエイティブ」が好きな人は数字が発想の敵だと思っているし、逆もまた然り。クリエイティブvsロジックや文系vs理系の発想が根深すぎて統合的に議論できず、組織文化から手を入れる必要すらある。etc.

●コミュニケーション領域を重視しすぎ

実際の商売では、「どこで売るのか」「どれくらいの店で売るのか」という配架指標や値付けも極めて重要な検討事項。またB2B2X事業では営業人員増も有効な打ち手のはず。なのに、マーケティング部の業務がコミュニケーション領域だけに特化した広告代理店窓口に陥ってしまっている。etc.

●組織を越えると目的がバラける

営業部、商品部、事業部、物流部、経営企画部など、各組織の目的や目標がマーケティング部のそれと同じところに帰結しない。経営陣もそのズレをうまく言語化できずにモヤモヤしており、マーケティング成果以前に、「マーケティング部」の職務権限が怪しい。そもそもの組織構造や意思決定プロセスに課題がある。etc.

●流通している実践的マーケティング論のほとんどが「成功事例」の切り売り

日本国内においては企業の99.7%が中小企業だが、流通している実践的なマーケティング論は有名企業や上場に成功した企業についてのスタディがほとんど(※成功したビジネスはどこを切り取っても成功要因に見える、典型的な因果関係の誤謬バイアス)で、人的、資金的にリソースが限られている中小企業が活かせる体系論が少ない。etc.

ちょっと乱暴にいうと、これらは「経営とマーケティングの分離」と括ってしまえる現象だと捉えています。

ちなみに、マーケティングアナトミー™でいう「経営」や「マーケティング」の語意については、誤解を恐れずに下記の定義を採用します。この前提に立つと、④は①を因数分解した因子であり、経営とマーケティングは(特に売上増の観点において)統合されるべきものである。というのが、ぼく自身があえてここで取るスタンスです。

①経営の目的は利益の(継続的な)獲得である。
②利益増は売上増とコストダウンによって可能である。
③そのうち、売上増は顧客数増または顧客単価増によって可能である。
④マーケティングはその顧客数増ないし顧客単価増に寄与する活動の総体である。

この定義については大いに異論を認めます。「経営は何なのか」という問いや経営の切り取り方について、自分自身でも反論はたくさん可能ですが(笑)、マーケティングアナトミー™の説明においては思い切ってこの前提に立つことにしました。本連載を読み進めるにあたって、「マーケティングとは何を指しているのだ?」「経営とは何を指しているのだ?」と疑問に思ったとき、上記の定義にしばしば立ち返っていただけるとよいと思います。

「経営とマーケティングの統合」は、BOXのメインテーマ

ぼくがプランナー時代にぶち当たった上記の分離を打破するために生まれたチームが、まさにBOXです。ですから、最初からBOXは「経営とマーケティングの統合」をミッションとして誕生したようなものです。その証拠に、2019年当時のぼくのブログには「グランドキャニオン級の溝を埋めていく」という表現で書いてあります(笑)。いい意味で多少のズレはあれど、BOXメンバーの課題感は概ね共有されています。

以降3年近くにわたって、メンバー個々のスキルセットをかけ合わせながら、BOXはヒト(組織設計)、モノ(SCM)、カネ(ファイナンス&管理会計)など経営のコア領域にもコミットしながら「経営とマーケティングの統合」にチャレンジし続けてきたつもりです。事業会社のCEOとして巣立ったメンバー1名を含め、メンバー全員がBOX以外にも自前で事業を経営している側面もあります。そんな世にも珍しい(?)ノウハウをそろそろ体系化してみよう!というチャレンジが、マーケティングアナトミー™です。

無知なだけかもしれませんが、リソースに乏しい中小企業でも参考になる、経営とマーケティングを本当の意味で統合した体系論はぼくの知る限りほとんど存在していません。この課題感から、ぼくのビジネススクールでの修士論文は『広告しないブランディング』というテーマでした。また、多くの大企業にとっても、経営目線とマーケティングの現場目線をリンクして議論できなかったことは長年の課題だったのではないかと思います。

この連載を通じて、読者の方々のフィードバックを受けながら、マーケティングアナトミー™自体も少しずつ進化していければと思っています。数カ月間、お付き合いいただければ大変幸いです。

さて、次の回でさっそく、マーケティングアナトミー™を構成する要素を見てみましょう。

マーケティングアナトミー™ (2) - マーケティングアナトミー™を構成する6要素






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【独立する時に押さえておきたいポイント】 僕は独立組(事務所を退所組)だけど、独立後に押さえておきたいポイントは以下の3つ。 ・健康 ・生活費の見直し ・人脈 事務所に所属している時は「体調不良」が許された(事務所が責任をとってくれたけれど)、独立後の「体調不良による損失」は全て自分が支払わなければならない。 CHIMNEYTOWN(※西野が働いている会社)は武道館イベントなどをポコポコ仕掛けているけれど、たとえば公演前日に僕がコロナになってしまったら、一晩で数千万のキャンセル料かまフッ飛ぶことになる。 なので「健康」は超大事! 二つ目は「生活コストの見直し」。 タレントは“見栄を張るのも仕事”みたいなところがあるけれど、軍資金の底が見え始めると、目先のお金を稼ぐことに体重を乗せてしまうので、自転車操業になって(攻め方に一貫性が無くなるので)、いずれバテる。 なので、生活コスト(ランニングコスト)を下げて、精神を安定させて、長期的にプラスになる仕事を正しく選べる状態を作っておくことが大事。 三つ目は「人脈」。 ぶっちゃけ僕は「お仕事をいただく」ということをあまりやっていないんだけど(自分で作る仕事が95%)、それでも、仕事を受けてくれるのも「人」だし、仕事を与えてくれるのも「人」で、自分を次のステージに上げてくれるのは、いつだって「人」だ。 人との繋がり無しに、仕事は成立しない。 事務所に所属していた時は、社長やマネージャーが「人」との繋がりを作ってくれていたけれど、独立後は自分でやらなくちゃいけない。 いろいろあるけれど、一番大事なのは「健康」だな。 キチンと食べて、ほどよく運動する。 これに尽きるわ。 #お母さんみたいな結論でごめんなさい あとは、イイ弁護士を掴まえておくこと!




未来の市場をつくる100社【2024年版】 第2回/全19回

5年で年商約25億、yutori上場までの軌跡 「非合理なエネルギー」の爆発力

2023年12月04日 読了時間: 11分
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アパレル企業yutori(ユトリ)が、2023年11月24日に新規上場承認された。多くのプレーヤーがひしめくアパレル市場において、起業から現在まで業績は右肩上がり。創業から5年の23年3月期には、年商24.7億円にまで成長している。Z世代を中心とした組織体、明確に定められたブランド管理の仕組みなど、同社の特徴は数多くある。しかしyutoriの神髄は、創業の契機であり、現在も変わらないミッションにある。

創業からわずか5年で新規上場承認された、アパレル企業のyutori(ユトリ)。代表取締役社長の片石貴展氏に、同社の成り立ちと戦略を聞いた
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この記事の流れ

  • ブランドを売り上げフェーズで管理、挑戦の場をロジカルに

  • 転機となった3年目、ZOZOへのハーフジョイン

  • 実店舗でブランドをスケールしOMO戦略強化

  • 上場は通過点

 「TURN STRANGER TO STRONGER(ハグレモノをツワモノに)」。yutoriのミッションだ。2018年の創業当時は「臆病な秀才の最初のきっかけを創る」を掲げていたが、創業4年目に現在のミッションに変更した。文言が変わったとはいえ、根本の思想は変わらない。この思想が、同社がどのような企業であるかを端的に表している。
 yutoriは、複数のブランドを展開するアパレルD2C(ダイレクト・ツー・コンシューマー)企業。自社発のブランドの育成や、M&A(合併・買収)によるブランド取得で規模を拡大し、創業からわずか5年の2023年3月期には年商24.7億円を達成した。23年11月24日には、東京証券取引所グロース市場への新規上場承認を発表(上場は23年12月27日を予定)。アパレル業界の若きけん引役として、猛進し続けている。
 そこで今回は、「未来の市場をつくる100社」の特別編として、同社のチャレンジの歴史を振り返りつつ、市場をいかにして切り開いてきたかに迫る。
未来の市場をつくる100社【2024年版】
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ブランドを売り上げフェーズで管理、挑戦の場をロジカルに
 yutori代表取締役社長の片石貴展氏は、自社を「半分芸能事務所のような会社」と称する。粗削りだが、自分の確固たる「好き」や、好きを温める中で培ってきた人生のテーマを持っている人。そして、その好きを表現したい意欲をぐつぐつと煮えたぎらせている人。ハグレモノにもなりがちであろう若い才能が、存分に発揮される場をつくる。こうした思いからyutoriは生まれた。
 社員は自分が持つテーマやストーリーをブランドという形で世間にプレゼンテーションしている。自分のテーマを育てて世の中に提示する活動を行う場。だから、半分芸能事務所のような会社なのだ。近年ではインフルエンサーが作り手としてブランドに参加することも多いため、実際に芸能事務所的な機能を持っているという意味もある。
 「自分は才能ある粗削りな若い人が好きなんです。再現性とか効率とか、ノウハウの平準化みたいなことも大事だが、結局商品を作っている人のほうが大事なので、人をきちんと生かすことに一番モチベーションを感じる。好きっていうことの根本的な深さと熱量が、中長期で見ると技術も戦略も獲得していくし、技として得られることを凌駕(りょうが)していく。やっぱりいろいろなことを巻き込む力があるのは、ピュアなエネルギーだと思う」(片石氏)
 そもそもyutori自体が、片石氏の洋服やカルチャーを愛する思いから始まった企業だ。何かを好きだというピュアなエネルギーに共鳴した人が集まり、おのおのの好きは異なりながらも、好きへのリスペクトと、表現への熱を一にして持った組織が形成されていった。企業の成り立ちからして、何か事業としてやりたいことがあるのではなく、人に基軸を置いているのだ。
 「好きなことをできたら強い。俺は洋服と音楽以外にこれといって好きなこともないし、手広くできるタイプでもないから、これしかやることがなかった。それだけのこと」(片石氏)。そして朴訥(ぼくとつ)とした成り立ちに沿うように、事業展開の手法も奇をてらわない理路整然としたものだ。

2023年11月時点で22のブランドを有している(上記の画像に加えてニット小物をメインとした「rag mou」も展開)
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 yutoriは23年11月時点で、Z世代を主な対象とした22のブランドを有する。ティーンカルチャー、トレンド、デザイナーズ、インフルエンサーの4つのテイストを展開し、多様なユーザーにアプローチしている。1つのテイストで一点突破するのではなく、あえて多様なブランドを持つことで、一つ一つのブランドの規模は小さくとも、yutori全体として安定した売り上げを保持し、市場を独占していく戦略だ。
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