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本好き生保受給者の欲望といましめ

土日は極力出歩かないようにしている。
いまだにコロナは収まっていないし、そうでなくても土日は人出が多いので、出歩かないように気をつけている。

今年に入ってはじめて雨が降った今日、土曜だというのに朝から外に出た。
牛乳がきれていたのだ。
近所のスーパーまで、ブラブラ歩きで10分足らず。財布と一応の用心で傘を持ち、部屋着の上からコートをひっかけて出かけた。
まだ雨は降り始めていなかったが、空気はムワリと湿って、昨日までと同じ寒さに身構えていた肌が混乱するくらい生ぬるい。

自宅は大きな街道と住宅地の境にあり、スーパーまで行くには、この住宅地を抜けていく。

歩き出してすぐ、あっと思う。
あっ、土曜日は古紙回収か。

ゴミ集積所に、段ボールが立てかけてあるのが目に入ったからだ。
畳んで縛られた段ボールや紙ゴミが、回収されるのを行儀よく待っている。
そして重ねてビニール紐で縛られ、あるいは紙袋に入れて捨てられている、様々な本達。

わたしは本が好きだ。
読むのは遅いし、読むものも偏っているが、本が読めなくなったら生きていけないという程度には好きだ。
本の、旅みたいなところが好きなのだ。
あんな小さな紙の束に、誰かの知識や情熱が詰まっていて、ページをめくれば何度でもそれに触れることができる。本さえあれば、妖怪や宇宙人や医者と探偵のコンビやなんかがいる世界に、いつでも遊びに行ける。
本があれば、自室にいながら遠くへ行くことができるのだ。
書店や図書館も、ものすごく好きだ。
この世にはいまだ読んだことのない本が無数にあって、書店や図書館に行くとそれが壁一面に並んでいる。
考えただけでウキウキしてしまう。
電子書籍も便利に活用するが、本という物体が好きなので、好きな作品は本の形で手元に欲しくなる。

生活保護を受給するようになって、もっとも強く自分にいましめているのは、いたずらに本を買わないことだ。
絶対に絶対に今欲しい本だけを、よくよく厳選して買う。
そうでもしておかないと、欲しい本というのは世の中にありすぎる。

で、古紙回収に出された本達。
本が捨ててあると、どうにも見ないではいられない。
直接手に取ることはしないが、そっと寄っていって、チラッと覗き込む。
よく見かけるのは雑誌やムック本、それから教科書、参考書だ。
コンビニ売りの廉価版コミックスもよく見る。
立派な百科事典や文学全集がまとめて捨ててあることもある。
特定の作家のハードカバーや文庫本ばかり何冊も、まとめて捨てられていることもあった。
今日見かけたのは、少年漫画のコミックスと、大判のピカピカな料理レシピ本数冊だった。

捨てられるのか。お前達。
まだ読めるのに。
本なのに。

せめて流通に戻してくれたらいいのになあ、と、勝手なことを考える。
古本屋に引き取ってもらえば、読みたいひとがこの本を見つけることができるのに。それがわたしではなくとも。
古本屋に売るにしたって、持っていくのは重くて大変だろう、取りに来てもらうのも手間だろう。資源回収に出すのは、普通のことだ。
重々分かっている。
でもそれにつけても、ちょっとショボンとしてしまう。
汚れていない本が捨ててあると、なおのことショボンとする。

本なのに。
まだ読めるのに。

捨ててある本を拾って帰りたいと何度思っただろう。
コーンウェルの文庫本が20冊ほど紙袋に入れて捨てられているのを見た時は、誰かの忘れ物ではないかと疑った。捨ててあるならぜひ拾って帰りたいと思ったが、できなかった。
自治体にもよるが、資源ゴミの持ち去りは条例で禁止されている。
場合によっては、住居侵入とか軽犯罪法違反に問われる可能性もある。
さすがに法を犯してまで、捨ててある本を拾おうとは思わない。
いや、だいぶ悩みましたけど。コーンウェル。

さて、おとなしく引き下がってスーパーに向かい、目当ての買い物をすませた帰り道、ちょうどゴミ収集車と出くわした。
指定の場所に出された古紙と古本を回収していく。
さっき見かけた少年漫画と、レシピ本も。

ああ、本。

そ知らぬふりで収集車の横を通り過ぎながら、見知らぬ本の最期を悼む。
まことに勝手なことだが、悼まずにはいられない。

いつか生活保護を廃止してたくさん本を買える生活に戻ったら、捨てられた本に物欲しげな視線を向けることはやめられるだろうか。
道端に積まれて回収されていく本を悼むのをやめられるだろうか。
いや、多分これは生活保護関係ないな。
だって本だよ、本。

家に帰り着いてコートを脱ぎながら、やっぱり土曜日は出歩くもんじゃないな、と考える。
捨てられた本を拾って帰りたい欲望に駆られる、古紙回収の土曜日。
いじましい気持ちを宥めて、買ってきた牛乳でカフェオレを淹れるのだった。


では、また。

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