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労働について

労働に対するイメージというのは昔から悪かった。自分の親は片親で、常に忙しく、仕事というのは家族と過ごす時間を減らし子供にさみしい思いをさせるもの、というイメージがまずあった。そして年頃になりバイトなどをし始めて、その巷にある仕事自体も何か窮屈に感じさせるものが多かった。制服を着たり、マニュアル通りに言葉を発したり、自分はこんなことをするために生きているのか?という疑問符が常に頭に沸いてきた。自分は学校に行く意味もわからなかったがこういう仕事をする意味も意義もわからなかった。大概の人がそういった違和感を感じながらもそういうものだと思ってバイトや苦役や労働をしているのだろうけど、私はわからないまま立ち止まってそのままだった。その選択が良かったのか悪かったのかわからないけれど苦役や労働はとりあえずやりたくないから極力やらないで今まできた。そうこうしているうちに30代半ばになっていた私は子なしの専業主婦になっていた。

やりたくないことをやらないで、パートナーの稼いだお金で時間もお金もある暮らしというのは側から見ればスーパーイージーモードに見えるかも知れない。だが実際のところ楽は楽じゃない。苦が苦でないのと同じように。手に職がないことの不安や、経済的に100%人に頼っているという不安も強くあったし、誰だったか著名な哲学者だかが言っていたが、人は暇に耐えられない、働くことで時間の大半を過ごしてきた人間はその持て余した時間に押しつぶされるだろう、という様なことを言っていた。I’m killing time、時間潰しではなくtime kills me、時間に潰されることになってしまうのだ。

パートナーに養われるのを止めて自立しようという気持ちだけではなく私もそんな風に有り余る時間を完全に持て余していた。そしてこう、専業主婦、否定的な表現なので使いたくないがニート、引きこもりという社会から隔絶された生活をしているとやはり社会ともっと繋がりを持ちたい、という気持ちも湧くし、世の為人の為役に立ちたいという気持ちも自然と湧いてきた。そうやって意識が変わったので労働に対する態度もがらりと変わったと思う。そして今の働き口は人手不足のところなので、役に立っているんだ、という実感もあるし、良くしてももらってもいるので働かせてもらって有難いなあ、という気持ちだ。

だがしかし当然世の中にはそんな良い労働環境の仕事場ばかりではない。言ってみれば会社の歯車、部品として働かされて、使い捨て、なんてところも沢山あるのだ。この人間性さえ破壊してしまう様な労働環境の劣悪さというのは人類全体が克服するべき大きな課題の一つに違いない。資本主義というのは一部の人が敵視するものではなく、全体が一丸となってやっつけるモンスターであることに疑念の余地はない。

私のざっとした理解だけれども、資本主義の素朴な基本構造というかキモというのは利子にある。負債を負わせることによって資本主義は人間を労働者にする。食べていけなくなるぞ、生活出来なくなるぞ、という恐怖心が益々人間を労働者にする。だからこの家賃0円ハウスというのはとんでもないことなのである。生死を労働する、しないによって大きく左右されないというのがどんなにすごいことか。

しかしなんにせよ遅かれ早かれ古い合わないシステムは死を迎えることは間違いない。2度目の東京オリンピックの様にゾンビ化した資本主義はまだ同じ様なことを繰り返しているけれど。

とはいえ敵はいないし良い意味正しさもないのだ。高度成長時代には敵もいたし、正しさもあったし行動原理もあったのだろう。資本主義もそれを続ける人らも敵と言える相手ではなくそれらは自分の中にもあるもので、敵がいるとするなら自分自身以外居ないというのが今のこの時のリアルな気がしている。資本主義のひずみというのも結局のところは自分自身に帰結するもので、外側に置いて敵視するものではなく、自己超越する対象の一つだと自分は思っている。それがまったくの正解とは思わないし、場合によりけりとは思うけれど政治活動にのれなかった自分はそう自己解釈して保留にしている。

私は、私自身を含めて、あらゆる人が本来の働くこと、仕事をすることを取り戻せたらいいなと思う。世の中や人の為に働いて、お互いが充実感のある三方良しの社会に生きたい。人を人として扱わないような見たくない光景ばかり見せられてきたので、折り返しのあとの人生は見たい風景を見て過ごしたいと切に思っているし、多分そうなると楽観的に楽しみに過ごしている今日この頃だ。


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