あらすじと感想とすごいとこ/芥川賞受賞作『東京都同情塔』
まずシンプルな感想として、めちゃくちゃ面白かった。
同時に、すごいものを読んだ!と感じた。
何をすごいと感じたかについて、言語化してみようと思う。
未読の方はぜひ、まずトライしてほしい。
(※ネタバレしているところあるかもしれません)
あらすじ(公式より)
日本人の欺瞞をユーモラスに描いた現代版「バベルの塔」。
ザハの国立競技場が完成し、寛容論が浸透したもう一つの日本で、新しい刑務所「シンパシータワートーキョー」が建てられることに。
犯罪者に寛容になれない建築家・牧名は、仕事と信条の乖離に苦悩しながら、パワフルに未来を追求する。
ゆるふわな言葉と実のない正義の関係を豊かなフロウで暴く、生成AI時代の預言の書。
あらすじへの補足(シンパシータワートーキョーについて)
この小説は、説明しないといけない前提条件(設定)が多い。
それもすごいと感じたところに繋がるんだけど。
舞台は近未来(2026年)の東京。
とは言っても、現実世界ではアンビルドになってしまったザハ・ハディド案の国立競技場が建設され、予定通り2020年に東京オリンピックが開催された並行世界の東京である。
こういうやつです↓↓
その並行世界に建てられる予定なのが「シンパシータワートーキョー」。
これはタワマン型の犯罪者の収容施設(刑務所)である。
建設予定地は、なんと新宿御苑。写真で言うと、国立競技場の後ろにうっすら見える茂みになっているところ。
「シンパシータワートーキョー」のコンセプトは既に決まっており(デザインは決まっていない)、小説途中にゴシック体の長い論文で引用されている。
それは社会学者で幸福学者でもあるマサキ・セトが提唱する思想を反映したもの。
その思想を簡単にまとめると
・犯罪者は同情(=シンパシー)されるべき存在である。
・なぜならば犯罪者は加害者である前に被害者である。というのも生まれた環境などによって、犯罪を犯さざるを得なかった人が多いからである。
・むしろ犯罪を犯さずに生きてこられた人は、幸福な特権を持っている。
・ゆえに、犯罪者も幸福を平等に享受するべきである。
というもの。
犯罪者を犯罪者と呼ばず、『ホモ・ミゼラビリス』と呼ぶことさえ提唱している。
このように「シンパシータワートーキョー」のコンセプトはすでに出来上がっており、2030年に完成予定である。
ここまでが小説の設定なのだが、これが小説の冒頭ではなく途中で明かされる。
あらすじへの補足(主人公について)
主人公は建築家の牧名沙羅。
そんなオリジナルのマントラを唱えるのが日課である。
この小説は建築家・牧名沙羅の人生の一部を切り取った物語というより、思考と気づきの変遷と言った方がいいかもしれない。
また建築家が大きな建造物をデザインすることにどれほど悩み、どのように意思決定をしているのかを描いた職業小説と読むこともできる。
小説の冒頭は、沙羅が「シンパシータワートーキョー」のデザインコンペに参加を決め、ホテルの一室で頭を悩ませるシーンから始まる。
というのも、既に決定された『シンパシータワートーキョー』という名称が気に入らない。考えるほどに苛立ちが増していく。
『タワープロジェクトの中身にはコミットしない。あくまでデザインのコンペに参加するだけ』と自分を無理やり納得させても、モヤモヤは残ったままだ。
最終的に沙羅は『日本人が日本語を捨てたがっているからだ』と主語サイズを考慮せず、結論づける。
日本人は、これまでも言葉を簡単に捨ててきた。
そして簡単にカタカナに言い換えることで、まるで新しいもののように捉えてきた。
少数派はマイノリティに、菜食主義者はヴィーガンに、売春は援助交際に、そしてパパ活に。
犯罪者もホモ・ミゼラビリスと言い換えてしまうのか?
デザインコンペに参加することは、れれを肯定していると認識されてしまわないか?
そして過去の体験から犯罪者に寛容になれない(タワーのコンセプトにそぐわない)自分がいることにも気がつき、仕事と自分の乖離に悩む。
どうすれば自分が納得した形で、デザインコンペに参加することができるのか———。なんとしてもデザインは勝ち取りたい。
おもしろかったポイント①——建築家の思考回路
沙羅は建築家であるがゆえに言葉に敏感である。
建築家が書いた言葉やドローイング(図面)は、絵画のようにそれそのもので完成となるものではなく、あくまで下書きであり計画書であり、最終的には実現する(してしまう)からだ。
そして、どのような言葉を良しとして、どんな言葉を良しとしないか、それを判断する人(頭の中の検閲者)が存在するという。
沙羅はそれは建築家の職業病だと言い、そのせいで悩むけれど、自分が建築家であることには微塵も後悔などしていない。
むしろ誇らしい職業だと捉えていて、ホテルの一室からライトアップされたザハ・ハディドの国立競技場を目にして次のように感じている。
沙羅にとって建築物は作品ではあるが、それと同時にこの世界に実在する建物であり、人々の暮らしに影響や変容を与えるものである。
自分がデザインした建築物に不特定多数の人々が往来することに、興奮と生きがい、建築家冥利のようなものを感じているのである。
そして建築物というのは、その大きさゆえに
とも語る。
このように沙羅の頭の中を駆け巡る思考(独白)の言葉は強く、極端でもある。—べき、—しなけらばならない、が多用されている。
小説はある意味、動きや会話などのシーンを重ねることによって構成されているが、この小説は主人公の思考(気づきと発見)を重ねているのがすごい。
そして僕は今まで、世界が先にあると感じていた。世界が先にあり、それを自分なりの解釈や法則、気づきに基づいて、切り取って小説・漫才・コントを作ってきた。あるあるなど、その最たるものである。
先に言葉がある、そしてそれが未来の都市を作っていく——そんな建築家の思考回路はかなり新鮮で、発見があった。
また美少年・拓人(もう一人の主人公とも言える)に出会ったとき、その美しさを『テクスチャーとフォルムが完璧』という言葉を使って、建築物に例えながら感動しているシーンも最高だった。
おもしろかったポイント②——小説家として楽をしていない、がゆえに最高の小説に仕上がっている
普通ならば「東京都同情塔」の設定が思い浮かんだ時に、その中で暮らす住民、もしくはスタッフなどを主人公にすると思う。
簡単にユートピア、またはディストピアに暮らす人々の物語が書けそうだし、それでも十分面白くなりそうだ。
または「シンパシータワートーキョー」のコンセプトの元になった幸福学者マサキ・セトを主人公にする。
マサキ・セトが、前述した
・犯罪者は同情(=シンパシー)されるべき存在である。
・なぜならば犯罪者は加害者である前に被害者である。というのも生まれた環境などによって、犯罪を犯さざるを得なかった人が多いからである。
・むしろ犯罪を犯さずに生きてこられた人は、幸福な特権を持っている。
・ゆえに、犯罪者も幸福を平等に享受するべきである。
という思想に行き着くまでに、どのような出会いや考えの変遷があったのかを描けば、読者が犯罪について考えるきっかけになるような小説を完成させることが出来たように思う。
例えばマサキ・セトが殺人事件の遺族で、みたいな設定にすれば、どのように加害者への復讐心を乗り越えたのかを描く社会派の小説になったように思う。
しかし本作は、マサキ・セトの思想は既にこの世に存在している前提で、それに苛立ち悩んでいる主人公を設定したことがすごい。
まだマサキ・セトの唱えるようなことすら議論され尽くされていない状況で、それに対するアンチテーゼともなる主人公に物語を託したのは、かなり度胸と勇気があることだと思う。
読者としては、理解しなければいけない思想が二つになる。大幅に増えてしまう。
それなのにこのボリュームを中編にまとめ、余すところなく主人公の思考の変遷と、それを取り巻く状況を描ききり、読者に考えさせる余地まで残している。
また、マサキ・セトという人物のオチや、マサキ・セトの論文に出てきた犯罪者Aの真実まで描き切っているのがすごい。
最後に
うまく言語化できたのかはわかりませんが、とにかくすごかった。
めちゃくちゃおすすめです。
今、出会っておいてよかったし、これからの創作のヒントになると思いました。
設定を考えたとき、簡単に納得せず、それだけで十分かもっと面白くなる方法はないか、新しくなる方法はないか、模索してみようと思います。
ぜひ!!
面白いもの書きます!