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真田丸の原型となった城・岩櫃城。群馬県吾妻郡。グーグルマップをゆく⑬

 グーグルマップで適当にタップしてピンが立ったところを空想旅行する、グーグルマップをゆく。今回は群馬県吾妻郡。

 「あずまぐん」かと思いきや「あがつまぐん」だった吾妻郡。グーグルマップで見る上では、山に囲まれ、川や湖があり、自然豊かな別荘地のような印象を受ける。

 よくよく見ると、草津温泉があった。ここが有名な草津温泉のがあるところなのか。そして、フォークソングの一大フェスで有名な嬬恋もあった。なるほど、やはり、奥座敷的な場所なのだな。さて、ここにはどんな歴史があるのか。

 上野国として日本書紀にも登場するこの土地は、ヤマトタケルが蝦夷平定後に立ち寄り、「吾嬬者耶」(ああ、わが妻よ、恋しい)と泣き妻を愛しんだということから嬬恋という地名がついたらしい。相当歴史があることは確かである。

 マップ上を色々と見て回るものの、神社も寂れた小さな祠のようなものばかりで、どういった土地であったのかがわからない。と、あちらこちらを見て回るうちに、「岩櫃城跡」という名前が目についた。タップしてみると、立派な記念碑のようなものが立っている。これは何かありそうだ。

 岩櫃城(いわびつじょう)、築年代などは不明であるものの、吾妻氏によって築城され、その後斎藤氏が城主となる。上杉謙信に攻め落とされ、上杉謙信に属する。どうやら、戦国期において重要な土地であったらしい。

 その後、甲斐武田の配下にあった信濃の真田氏が攻略し、信濃国の上田城とを繋ぐルートとして大改造を行った。岩櫃山という山全体を機能的に活かして作られた岩櫃城は、甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田の三堅城とも呼ばれているらしい。複数ある堀切には大坂城の「真田丸」の原型とも取れるものが見えるらしい。つまり、真田丸の原型と言える。

 この頃、岩櫃城を切り盛りしていたのは真田信之で、真田家当主である。信之は、10歳から武田家の人質として過ごし、元服も武田家にて行っている。烏帽子親は武田信玄であり、「信」の字は信玄(晴信)より一字賜っている。元服の風習として、烏帽子親は実の親と並んで絶対的存在であり、烏帽子親から一字賜るのが通例であった。

 人質というと聞こえが悪いが、人質に出された子どもはその家で、後の家臣として手厚く扱われ英才教育を受ける。つまり、真田信之は織田信長も恐れた武田家によって教育を受けたということになる。

 大阪夏ノ陣で徳川家康を追い詰めた弟・真田幸村(信繁)がフォーカスされがちだが、戦国期を生き抜き、関ヶ原以降、徳川家の大名として真田家を存続させたことを考えると武将として有能であったことは間違いない。

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