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一遍上人をたずねて⑨

 一遍上人の旅には多くの癩病(らいびょう)患者が伴っていた。こちらも「一遍聖絵」に多く描かれている。癩病とは、ハンセン病のことであるが、どうもハンセン病だけを指していたわけでもなく、広く感染を指していたようである。

一遍聖絵
癩病などの患者は顔を布で覆っていた。

 一遍上人の教えとは何か?というのがおぼろげに見えてきた気がした。日本の浄土仏教は、法然が比叡山延暦寺の教えに反発して下山してはじまったもので、武士層に広まった。その弟子である親鸞によって、武士より下の庶民層に広められた。では、一遍上人の教えはというと、庶民よりさらに下の差別されているような層に向けられたものであった。

 モンゴル襲来などで戦に出て負傷してハンディキャップを負った武士たちもいた。彼らは負傷しても何の補償もなく、人としての生活を営むことも難しい上に差別の対象ともなった。

 そんな人々を何とか救いたいと考えたのが一遍上人だった。ここで賦算の意味が現れてくる。念仏とは本来、心に念仏を思い浮かべることである。それがさらに進んで念仏を唱えるということになる。「南無阿弥陀仏」と唱えればよい。というものだが、病気やハンディキャップを持っている人たちの中には目が見えなくなったり、声が出せなくなった人もいただろう。すなわち、「念仏を唱えることができない」人たちがいるということである。

 そういった人を救うのは賦算である。文字が読めなくても、念仏が唱えられなくても、お札さえ持ったり触れたりするだけで救われるというのが賦算なのである。

 本来、仏教を理解することは教養を必要とするし、非常に難しい。それを「唱えればよい」というものになり、「札を持てば良い」という概念に持っていくことは、いろいろと賛否両論あるわけで、仏教界の中でも色々と問題が起きてきた。

 時代は鎌倉時代である。武士以下が仏教を理解する教養を持ち合わせているわけがない。では、札を配るだけで納得したのか?これも難しかったのではないか。つまり、何か人に興味を持たせる仕掛けが必要だったのではないか?

 それこそが、踊り念仏だったのである。

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