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時を駆け、世界を巡るウスターソース誕生秘話  

 大阪は粉物文化と言われています。粉物とは小麦粉を原料とする食べ物のことで、お好み焼き、たこ焼き、うどん等を指しています。ちなみに、大阪ではケーキも粉物です… 知らんけど。
    その粉物、中でもお好み焼きやたこ焼きと関係が深い調味料と言えば「ソース」です。今回はウスターソースの不思議な誕生秘話です。

 

リー&ペリンスソース

リー&ペリンスソース

 イギリスのウスターシャー州・ウスター市に世界で最も古いソース会社があります。リー&ペリンスソースを発売するリー&ペリンス社【LEA&PERRINS】です。  
 Wikipediaによると、1835年頃、ベンガル総督でウスターシャー出身のマーカス・ヒル卿(のちの第3代サンズ男爵)が、イギリスの植民地であったインドからインド・ソースの作り方を持ち帰り、薬剤師であった二人の人物(ジョン・ホイーリー・リーとウイリアム・ヘンリー・ペリンズ)に依頼して作らせたのがリー&ペリンスソースだそうです。

謎のインドソースからリー&ペリンスソースへ

 ベンガル総督のマーカス・ヒル卿が1835年にインドで出会ったインドソースとはどんなソースだったのか、一般的には謎とされていますが、実は日本製の醤油だったのです。(1700年代には長崎の出島からインド経由でヨーロッパに醤油が輸出されていた記録があるので可能性は十分あります)マーカス・ヒル卿は初めて食べた醤油に感動し、その製法をインドで聞いて回ったことでしょう。しかし、インドで醤油の詳しい製法がわかるはずもなく、かなりいい加減なレシピを故郷であるウスター市に持ち帰ったはずです。レシピを基に、食べたこともないソースの製造を依頼されたリーとペリンズは頭を抱えたことでしょう。とりあえずウスター市に伝わるソースの製造方法を参考にしてインド・ソースを作ってみたのですが、出来上がった物はサンズ卿がインドで味わった物よりもとても辛かった(スパイシーだった)そうです。失敗に終わったインド・ソースは樽ごと地下室で忘れられていたのですが、1年後に発見された時には熟成されてとてもおいしいソースになっていました。これがリー&ペリンスソースです。その独特のスパイシーな味は醤油とは程遠いものでしたが、欧米では大人気になり、現在では世界中でウスターソースの代名詞となりました。

 

ヤマサ醤油

ミカドソース

 マーカス・ヒル卿がインドで醤油に出会ってから49年後の1884年(明治17年)、アメリカで一人の日本人がリー&ペリンスソースに出会いました。その日本人はリー&ペリンスソースのスパイシーな味に衝撃を受け、日本でこれを作ろうと考えました。彼こそが醤油メーカー「ヤマサ」の7代目濱口儀兵衛です。少し古い話ですが、テレビドラマ「仁」でペニシリン製造に力を貸したのがこの人、7代目濱口儀兵衛でした。もちろんペニシリン製造はフィクションですが、コレラ予防や蘭方医の育成に多額の資金提供をしたことは事実です。

    その儀兵衛さん、リー&ペリンスソースは当時日本で急速に流行り始めた洋食に適した調味料になる!と考えました。それならば輸入品ではなく日本で、自社で作る決意をしたのです。しかし、そこは醤油屋さんです。リー&ペリンスソースそっくりでは日本では受け入れられない。よし!洋風醤油でいこう!となったのです。すぐに独自の製造方法を研究し始めた7代目でしたが、残念ながら翌年、ニューヨークで亡くなってしまいました。しかし、その意思を継いで8代目濱口儀兵衛が1886年(明治19年)に、国内向けは「新味醤油」、アメリカ向けは三角瓶に詰めて「ミカドソース」の名前で洋風醤油を発売しました。その製法は、醤油に酢・唐辛子・胡椒・クローブ・にんにく・コリアンダーを混ぜて2ヶ月放置すると伝えられています。しかし、親子悲願のこの力作は、残念ながら僅か1年で製造中止になりました。当時の日本人には早すぎた味だったのでしょう。

時をかけ、世界を巡るソース

 インドで出会った醤油に魅せられて作ったものがイギリスのリー&ペリンスソースで、アメリカで出会ったリー&ペリンスソースをモデルにしたのが日本の老舗醤油メーカーであるヤマサのミカドソースなのです。なんともワールドワイドで不思議な話ではありませんか。※色々と諸説があります💦

    


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