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【ザ・辞世】 第2回「なよたけの…… 西郷千恵子」

なよたけの 風にまかする 身ながらも
      たわまぬ節は ありとこそ聞け
                    西郷千恵子

中公新書「辞世のことば」中西進著

「こっ、こいは、なんちゃあっ! こげな惨かこつはっ……!」
 その土佐藩士は、慄然として、その場でどさっと、膝から崩れ落ちた。
 男の眼前、二十名以上が、白装束に身を包み、喉に短剣を突き立て、絶命していたのである……。

 *  *  *

 表題の女性……。
 誰?
 私は引用元にあたるまで、無知であった。
 常識だよね!
 と、盛り上がる人は、余程の歴史通で、日本史沼の住人に違いない……。偏見、失礼……。
 この人物は何者か。
 時は幕末——

 *  *  *

 その日、鶴ヶ城下には、総登城の御触れが出ていた。こんなことは、江戸開幕以来、絶えてないことであった。
 家老、直参はもとより、城内に入りきれない足軽などは、主人の屋敷で待機を命ぜられていた。
 晩秋、冷気が這う城下町、会津猪苗代……。

 松平容保(かたもり)は、会津の藩主になって十年が経っていた。歳は、二十八。
 彼は、すでに腹を括っていた。度重なる江戸からの催促……。
 ——京都守護職を命ずる。
 今で言う、警視総監のようなものであった。
 家臣は、こぞって反対していた。都は遠い、財政も厳しい……。

 容保は、居並ぶ家臣団を前に口を開いた。
「京都守護職の任、謹んで拝命しようと思う……」
 存分に思うところを述べよ、とは続けなかった。
 家臣たちは、自らの主君が苦渋の決断をしたのだと、即座に理解し、こうべを垂れた。
 ただ、一人を除いては……。

 その家臣は、必死の形相で、主君ににじり寄った。
「都では、浪士どもが尊王攘夷を唱え、跳梁跋扈しております。
 そのさなか、会津が無為に立ち入れば、一身にその恨みを買う事になりますぞ!
 殿は……、殿は会津を滅ぼすおつもりか!」

 容保は、十二歳の時に会津に養子に来た、いわばよそ者であった。
 会津藩……。
 二代将軍秀忠の子、保科正之を祖とする徳川幕府の名門中の名門であった。
 だから、彼は、より会津人らしくその生き様を描こうと腐心していた。
 ——会津を滅ぼす……。
 それは、容保のすべてを否定する言葉であった。
「下がれっ! 頼母っ!」
 そう怒声を残し、容保は奥に下がろうとした。
 だが、その家臣は、なんとその着物の裾を掴んで、引き留めた。当時、許しもなく主君に触れるなど、御法度であり、斬首ものであった。
「いいえ、下がりませぬ! 殿は……」
 それでもその家臣は、わが身を顧みず言い募る。
 だが容保は、その諫言を遮って、言い放った。
「そなたの顔などもう見とうはない! 沙汰あるまで屋敷で謹慎しておれ!」
 会津の運命が、大きく旋回した瞬間であった。

 *  *  *

 この家臣、名を西郷頼母(たのも)という。
 会津藩家老で、代々会津松平家に仕える家系に生を受けた。
 そして、彼の妻が千恵子である。 

 音読する。
 なよたけの……

 ただただ、耳朶が凍りつく……。

 *  *  *

 時が流転し……
 この日の鶴ヶ城下は、籠城戦に備え、人馬が慌ただしく行き交っていた。
 迫り来る、新政府軍……。

 その頃、頼母の屋敷には、母、妻千恵子、娘たち、妹たちが集っていた。
 頼母とその息子は、鶴ヶ城へ出仕している。
 彼女らは白装束に身を包み、短冊を片手に黄色い声を上げていた。
 おのおの筆をとり、短冊と睨めっこしている。
 姉たちは妹たちに歌の作法を教え、姉たちもまた母、千恵子に教えを請うている。
 皆、朗らかで、その有り様は、これから磐梯山の麓、猪苗代の湖畔で花摘みにでも出掛けようとしているようであったという。

 *  *  *

 立派な建物であった。
 一見して重臣の屋敷であることは、容易に察しがついた。
 中に足を踏み入れる。
 途端、男の脳裏に嫌な予感が掠めた。
 喉の奥にへばりつくような、どろっとした血糊の匂い……。
 男の心の臓が、一つ、激しく打った。

 *  *  *

 男は、ようやく立ち上がった。
 その時——。
 白装束の一つが僅かに動いた。
 咄嗟に駆け寄る。
「気をしっかり持て!」その娘を抱きかかえ、男は絶叫した。
「……お、お味方ですか……」
 あなたは、会津藩士ですか……。
 喉元に短剣を突き立てている娘は、息も絶え絶えに誰何(すいか)した。
「……あぁ」と、男はなんとか絞り出す。
 彼女は心底、安堵したように、
「か、介錯を……」と言った。
 男は、唇を噛み、短刀の柄に手をかけた……。
 
 男は、天才的な軍略家であった。
 会津盆地侵入の際、新政府軍は、最も峻険な母成(ぼなり)峠を突破した。
 この会津軍総崩れの嚆矢となった作戦を立案したのが、彼であった。
 男は、将来、軍において栄達が約束されていた。
 名を、板垣退助という。

 *  *  *

 再びの、なよたけの……

 娘たちの中には、千恵子に介錯された者もいたであろう。
 自らの腹を痛めたわが子を手にかける……。

 ……筆舌に尽くし難い。

 時代の濁流に巻き込まれた末の、悲劇。
 彼女は、逍遥とその運命を受け入れた。

 そして、彼女は、最後をこう結ぶ。

 ありとこそ聞け

 それは、新政府軍にというより、私たちに問いかけたのだろう。
「あなたたちも、いつ何時、時の濁流の中でその身を任せることになるか分かりません。
 だから、いつも自らの心に、お聞きなさい……」

 ——自らを省みなさい……

 ありとこそ聞け

 その後、板垣は軍での出世を捨て、自由民権運動にその身を投じる。
 わが国の民主主義の礎を築いた巨人である。
 これが、板垣なりの自省、ありとこそ聞け、だったのだろうか。

 *  *  *

 ——彼岸の会津……
「……悲しいね。箱庭」
 天下を片付けた白ギャルこと、ハルカはそう言うと足元の小石を蹴った。
「箱ちゃん、これは?」
 黒ギャルのモナカは、目の前の石碑を指差す。
 なよたけの碑といって、あの日、自害した婦女子232人の慰霊碑だ、と説明してやった。
 碑を見上げる二人。
 その時、
 ぐぅぅっ!
 彼女らの腹が盛大に鳴った。
「いやお前ら、人の話聞いてないやん!」
「いやいや、レディースはお腹が空くとすぐ鳴るの! なんか奢って、奢って、奢りなさい!」
「箱ちゃん、ウチは、喜多方、喜多方、喜多方ラーメン!」
「分かったから、叩くのやめい……。昼は奢るけど、夜はお前ら持ちな。ぼんやりしてた罰やな」
「うわ箱庭、セコッ!」
「箱ちゃん、そんなんだからモテないんだよ」

「黙れ! 鱧ギャルども!」
(鱧ギャルについては、第1回参照)

 猪苗代湖の向こうから、彼岸獅子の太鼓が遠くこだましていた……。

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