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定年時に最初にすべき準備:正規雇用者が属する「安心社会」からの脱却

マクロ的な人口・経済動向も理解したし、危機感も十分に感じたとしたら、次は定年に向けた準備を始めるべきだ。しかし、普通の定年本には「自分が一番やりたいことの優先順位を見極める」くらいのことがサラッとしか書かれていない。

でも、この準備をきちんとしておかないと、思わぬことに足を取られ早々に引退生活に逃げ込むことになるので要注意である。その準備で大事なのは、自分のそれまでの「常識」を問い直すことである。


定年後の仕事を躓かせるのは「正規雇用者」の何らかの思い込み


そもそも、定年という言葉は正規雇用者(雇用期間の定めがないフルタイム勤務、勤務先の企業に直接雇用され、転職をしない限りは定年まで働くことができる)にのみ当てはまる言葉である。

ということは、定年退職予定者が定年を迎えるにあたって最初にすべき準備は、これまで当たり前のものとしてきた正規雇用者として身につけた習慣が定年後も役に立つかどうかの検討であろう。

しかし、残念ながらこの必要性に気づかない人が大半のようである。たとえ別の企業に再雇用される場合でも、大企業と中小企業では正規雇用の概念がずいぶん異なるので、その問い直しが必要なのだ。

たとえば、大企業で役職のポジションにあった人が中小企業に再就職して、部下でもない事務の女性社員に「これ、コピーとっておいて」と言って総スカンを食う、などのことを耳にする。

ものすごく古い話で恐縮だが、私の父は大きな銀行に勤めていて、定年前に小さな銀行に天下った。ある時取引先の異変を感じ、素早く資金を回収したことがあった。頭取に機敏さを褒めてもらえると思っていたところ、営業から苦労して構築した関係を壊したと文句が入り、頭取に怒られたそうだ。

当人は納得できず営業の身勝手さを怒っていたが、大銀行と違いルールが明確でない中小銀行では部分的な資金の回収では職務を果たしたことにはならず、全体最適を考えない行動と受け取られたのかもしれない。そんなことが積み重なり、嫌気が差して当時の定年年齢55歳よりも早くに引退してしまった。

再雇用ではなく独立する道を選んでも、仕事をもらおうと挨拶回りをして、門前払いを食らうばかりで落ち込むことも多い。自分が大企業の名刺を持っていたが故に人に会ってもらえていたことを、その時に初めて知るのである。

これらは、自分がたまたまいた大企業のやり方が世の中のすべてである、という思い込みのなせる業である。自分の常識を洗い直しておけば、そこまで憤慨したり落ち込んだりせずに、引退に追い込まれなくて済むかもしれないのである。

問題を解決するのは現状認識とそのアンラーニング

この状態から脱却するのに必要なのが、問題解決法をきちんと実行することである。というのも、「定年後に備える」ということも問題の一種であるからである。

では、ここでの問題とは何だろうか?問題とは、到達したい「あるべき姿」と「現状」との間にギャップが存在するということである。ギャップが存在しなければ、すでに望む状態にいることになるので、何も(問題を)解決する必要はないからである。

定年にあたっての「あるべき姿」は、多くの人にとって「引退生活を楽しむ」あるいは「定年後も再就職あるいは独立して気持ちよく働き続けている」と共通していて、思い浮かべるのは簡単であろう。

それに対して「現状」の認識は、それほど簡単ではない。

問題(ギャップ)の解決は、「現状」を動かして「あるべき姿」に近づけていくことで実現される。現状から動けないのなら、事態は何も変わらない。

多くの人は、「あるべき姿」に到達するために何をすべきかという「課題」を指摘して、解決策を示したと思い込む。しかし、その課題が現状をどう動かすかについて何も教えてくれないのなら、問題はそのまま存在し続ける。

「課題」を指摘することと「現状」を変える方法を示すことの差が分からない人が多いので、世の中には解決されないまま残っている問題が多数存在しているのである。だから、問題解決では現状から動けていない原因を発見しそれを潰す必要がある。

上述の事象が示すように、定年準備あるいは定年後に問題がある場合の現状は、「新環境にうまく適応できるように自己変革できない」となる。この「現状」から動けない原因をは、何だろうか?

リベラル・アーツの世界で50年読み継がれてきた本に、「20世紀アメリカ最高の知性と良心」ジョン・W・ガードナーによる不朽の名著とされる「自己革新」がある。この中の個人が成長しつづけるために必要なものを述べている内容に、そのヒントがあるので少しだけ紹介しておこう。

ガードナーは、自己革新ができない原因はイギリスの詩人ウィリアム・ブレイクが言う「心を縛る枷」にあると言っている。新しい世界を切り開けない、あるいは新しい世界に適応できない理由は、外的要因ではなく、内的要因が殆どなのだ。

凝り固まった個人の心情、態度、習慣、行動や目的を達成するために手段にこだわる習性、道徳の高台に立つ(世の中はこうあるべきだなどと人を裁く)、既得権益に拘る、などのことが自己変革を妨げるのである。

この「心を縛る枷」に気づきそこから抜け出すには、スキルが必要である。それが、アンラーニングである。

ここでアンラーニングとは、時代や環境の変化に合わなくなった、プロフェッショナルとして身につけた型やスタイルを意識して壊し、新たな型を身につけることを指す。現状を分析し、自分が囚われている考え方に気づき、それを脱ぎ捨てるのである。

定年退職予定者がアンラーニングすべき大企業の常識:「安心社会」

と言うことで、次に問うべきは「心の枷は何か」、「何をアンラーニングすれば良いのか?」である。アンラーニングすべき「心の枷」に気づけて初めて、次に進むことができるのである。

筆者は、ジョブ型の外資系企業でコンサルティング部門のクライアント・パートナーとして顧客とのフロント業務をこなしてきた。その後独立し10年以上、元「大企業正規雇用者」のコンサルタント初心者を教えてきている。

外資系という外野の視点、自分自身の独立後の苦労や独立後間もない生徒の苦闘をみている経験から、日本の大企業に勤めている人たちの常識の多くがその人たちが定年後の生計を立てるのを妨げていることに気づき、その非合理さからの脱却を手伝ってきている。

経験から感じる最初に脱却すべきものは、日本企業の閉鎖的な集団主義である。

社会心理学の権威で北海道大学大学院教授を務められ、その功績から文化功労者に選ばれた山岸俊男さんは、これを「安心社会」と名付けられた。

日本社会はお互いが信頼し合っているが故に安全な「信頼社会」だと思われるが、山岸さん(「安心社会から信頼社会へ」)に言わせると、以下に示すようにアメリカは「信頼社会」だが日本は「安心社会」なのだそうだ。

  • 日本人2000人とアメリカ人1600人に、統計数理研究所が行なった質問紙調査の結果によると、「大抵の人は信頼できると思いますか、それとも用心するに越したことはないと思いますか?」という質問に対し、アメリカ人の47%が「大抵の人は信頼できる」と答えたのに対し、日本人では同じ答えをした人が26%だった

  • この結果は、夜道でも安全に歩ける日本と銃社会で暴力的なニュースに事欠かないアメリカ社会を見ていると直感に反しているように思えるが、実は日本の集団は「信頼」を前提にして成立しているものではない

  • 日本の集団は、集団の規律を守れば効率よく全体目的が達成でき、かつ自分にもメリットがある、という前提で成立している。集団の目的達成の障害となるのは、フリーライダーの存在である。それを避けるために、日本の集団はなるべく同質(同じ地域、血縁、同じ釜の飯を食った仲間、など)のメンバーで構成され、価値観を共有している

  • この価値観をもとに掟を守り、フリーライダーが発生すると、村八分などの制裁手段を講じる。そうすると、制裁は割に合わないのでほとんどのメンバーが同一の行動様式を取り、効率よく行動することが期待でき「安心」できる

  • 日本の集団社会は、「信頼」ではなくこの「安心」をもとに構成されている。見かけは異なるが、鉄の掟を守るマフィアなどと同じ構成原理に基づいているのである

  • アメリカは移民国家で人々の価値観や文化的行動様式の共通性が全く期待できないので、このような集団の構成は期待できない。その状況を放っておくと経済的な発展は叶わないので、制度を中心とした秩序を確立してきた。この背景には、同質的な国民国家間の争いが絶えなかったヨーロッパで生み出された、制度をもとにした利害調整の経験の歴史がある

  • 制度だけがあって安心がない社会では、制度があっても抜け道は必ず存在する。抜け道を防ぐためには、ガチガチの契約条項を積み重ねるなどの対応方法が存在するが、現実的には抜け道を探す人は少数なのであまりに厳格な契約書は非効率である

  • この時に、多少のことは目を瞑ってもまずは相手を「信頼」した方が全体的な効率が上がる、という発想が生じる。アメリカ人の方が他人を信頼するというのは、この経験から生まれたものなのである

日本の大企業は、新卒一括採用で長い時間をかけて社員に会社の暗黙のルール(価値観)を教え込む「安心社会」の典型である。正社員は、そのルールを守っていれば雇用(「終身雇用」、「年功序列」)を保証され「安心」できるのである。

定年後の仕事に「安心社会」の思い込みが引き起こすさまざまな問題

しかし、このような日本企業のルールは閉鎖社会の中でしか通用しない。転職したり独立したりすると、所属社会が変わり「安心」の前提が変わる。定年後に、思わぬ障害に出くわすのは、無条件に自分が知っている「安心」が他所でも成立すると思い込んでいることが主な原因なのである。

大企業の常識が、定年後に以下のような問題を引き起こすのである。

  • 大企業にしか通用しない分業

    • 上述の父親の例のように、大企業では分業が徹底されており職務が明確なので、与えられた職務を果たせば部分最適でも良い

    • しかし、人手が足らない中小企業や自営業では、幅広い業務をこなさなければ、やっていけない。そもそも、職務の定義が明確でないので、自分の分担と思っていることだけをやっていると、周囲の顰蹙を買う。(独立した場合は、食べていけない)

    • 定年まで同一社会内の分業を前提として行動していると、無意識にプロダクトアウトになりスキルで勝負するようになる。(リンダ・グラットンの言う生産性資産は身につけるが、変身資産を獲得しないので、新しい環境に適応できない。)

    • 業務プロセスが確立した分業制では、仕事は上流から回ってくる。その仕事を遂行しさえすれば、飢えない

    • 独立したり中小企業に就職した場合は、仕事は自分で作り出さなければならないことが多い。仕事はどこからか与えられるものという前提でいると、無能だと思われる。特に独立した場合、このマインドセットから抜け出せないと、(営業そしてより重要なマーケティングができないので)飢える

    • 筆者自身も研究所からコンサルティング部門に異動した時に社会の前提が変化したにも拘らず、専門職(分業)意識が抜けずにプロジェクトが売れず鳴かず飛ばずの3年間を過ごした

    • その後コンサルティング部門で、チームの責任者として営業からプロジェクトのデリバリーまでの一切の責任を引き受けざるを得なくなり分業するわけにはいかなかったが、それが独立に幸している

    • すべての経済活動は、顧客の問題解決である。(奥野一成「投資家の思考法」)企業は顧客の問題を解決するから、従業員に給料を払えるのである。だから、その順番を忘れ分業された職務に集中し顧客の問題を忘れる(労働者1.0になる)と、どこかで行き詰まる。このことは、組織が小さい中小企業に再就職した場合や独立した場合に特に当てはまる。

  • 日本の大企業しか通用しない「能力」に対する支払い(職能給)

    • 職能給制度の下では「経験」を積めば「能力」が上がる。給料が上がるので、能力を磨くことしか考えなくなる

    • しかし言葉の違う他社では、「経験・能力」はそのままでは通じない。「能力」は表現できないので変な履歴書(部長をやってました。〇〇プロジェクトで責任者を務めました、など)を書き、面接ではねられる

    • ジョブ型(職務給)の会社にいれば、仕事の成果について書く、それなら、履歴書をもとにして内容を判断できる(から面接に応じてもらえる)

  • 転職せず日本企業のメンバーシップ制の中で培われるハイコンテクスト文化に浸る

    • 安心社会では、空気を読む「人間関係感知能力」が求められる。話を聞く方が文脈を補って理解することを前提としてコミュニケーションをするので、書面ではなく会議などでの意思疎通が中心になり、異文化コミュニケーションが苦手になるなど、効率が悪い

    • 書き言葉での言語能力(書いてあることが全て)が磨かれないので、IT化が進まずリモートワークが進まないなど、組織としての生産性が落ち、他所で通用する個人の能力も培われない

  • 以上の結果のリスキリング不足

    • 以上の結果、周囲との関係が安定しているので学ばない

    • 筆者の場合、就職時は書類は手書きで複写はリコピー(湿式コピー)を使用していたが、今はPC、スマホでインターネット手続きは当たり前になるという大きな変化が起こった。毎日学びを積み重ねる習慣がないと、長期的にはこのような変化に対応できず、組織全体の生産性が大きく下がるし、社員の転職価値も向上しない

以上述べたように、定年後の仕事で新たな環境への不適応を起こすのは、それまで勤めていた日本の大企業の「安心社会」への過剰適応が原因であることが非常に多い。自分が浸っていた「安心社会」の内容に気づき、そこからアンラーニングすることが求められるのである。

「安心社会」から脱却できたら、次は価値観や文化的行動様式の共通性が期待できない「信頼社会」にどう溶け込むかである。これについては、次回以降で説明していくことにする。




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