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吉永みち子『気がつけば騎手の女房』女性競馬記者とミスターシービーの三冠ジョッキー

V.S.O.P 吉永正人との出会い


ずいぶん器用に眠れるんだね

そう声を掛けられたのが、みち子と吉永正人の出会いだった。

みち子が競馬専門紙の記者を辞め、タブロイドの夕刊紙の編集に移ったばかりの頃だった。

『日刊ゲンダイ』の新企画、騎手へのインタビュー第一弾として吉永正人とのアポイントメントを取付けたものの、みち子は折からの多忙によって疲れ切っていた。

夕刻、京王東府中駅に着き、車で迎えに来るという吉永を待つ間に、みち子は立ったままで壁によりかかって眠り込んでいた。

その時に、吉永に声をかけられたのである。

目醒めたみち子は、思わずカッと赤面した。

インタビューのために訪問したというのに、眠りこけていたとは。声を掛けて挨拶すべき相手に、逆に声を掛けられ起こされるとは。

なんという大失態。

恥ずかしさと気まずさから、あたふたとインタビューもままならないみち子だったが、吉永正人は彼女を落ち着いて迎え入れた。

競馬界では寡黙なことで知られていた吉永だったが、実際に会ってみると競馬場で遠くから見ていた印象とは違っていた。

騎手・吉永正人はその頃、V.S.O.Pと、高級ブランデーの名を捩った愛称で呼ばれていた。

その意は、

ベリースペシャル・ワンパターン。

吉永が極端な戦法を好み、どんな馬に乗っても最後方から追い込み一辺倒の騎乗をすることが由来である。
その個性的な騎乗スタイルは、寺山修司を魅了し、この当代随一の詩人は何度も競馬コラムに吉永を取り上げた。

リーディング上位に顔を出すこともなく、戦績的には地味な存在でありながら時として鮮烈な勝利を飾る吉永は、インタビューとなると多くを語らず、寡黙な男だと周囲には見られていた。

しかしみち子が実際に会ってみると、その無口でぶっきらぼうな甲羅の中にある深奥には、優しい心やりが隠されているように感じた。

みち子は取材にカメラを持ち込んでいたが、あまりのみち子の撮影技術のつたなさに、その場で吉永は2回目のインタビューからカメラマン役を買って出た。
これからみち子が取材するのは、みんな知り合いで仲の良いジョッキーだからと。

吉永の申し出は、みち子にとって願ってもない助け舟だった。

こうして吉永と連れ立ってジョッキーへの取材を重ねるうちに、みち子はそれまで知らなかった彼らの生き様を知る。

勝者と敗者が分かたれ、勝つか負けるかが全てを支配する世界。

そんなみち子のイメージは、実際のジョッキー界隈の雰囲気とはまったく違っていた。
レースが終われば互いの勝利を祝い合い、酒を酌み交わして飲み明かす。
彼らには、同じ騎手として日々切磋琢磨し高め合う者たちの強い紐帯があった。
そのことにみち子は気づく。

みち子は吉永へのインタビューをきっかけにして、いつしか府中の「競馬村」の住人であるジョッキーたちと親しく交流することになる。

それから2年後、周りの後押しもあり吉永とみち子は結婚することになる。

この結婚が転機となったのか、いち個性派の騎手にすぎなかった吉永正人はまもなく重賞戦線で目覚ましい活躍を見せるようになる。
有力馬への騎乗依頼も増え、ついに1983年、ミスターシービーを駆ってシンザン以来19年ぶりのクラシック三冠という偉業をやってのけるのである。

みち子はその道のりを妻として、正人の傍らで見守っていた。

みち子の青春と吉永正人との出会い。そしてミスターシービーでの日本ダービー、クラシック三冠制覇。
その顛末を畫いたのが、吉永みち子のデビュー作『気がつけば騎手の女房』である。

『気がつけば騎手の女房』日本初の女性競馬記者の書


日常的にテレビを視聴している人ならば、吉永みち子の顔を一度は見たことがあるのではないか。
吉永みち子はノンフィクション作家として、テレビのワイドショーや情報番組のコメンテーターを長年務めている。

現在もテレビ朝日「ワイド!スクランブル」などで冷静なコメントする吉永みち子は、ミスターシービーで三冠を穫ったジョッキー吉永正人の妻であった。

吉永みち子は日本初の女性トラックマン(競馬記者)であり、吉永正人との結婚後に書いたエッセイ『気がつけば騎手の女房』で1985年、第16回大宅壮一ノンフィクション賞を授賞しデビューした。

『気がつけば騎手の女房』には、みち子がいかにして競馬記者となったか、そしてダービージョッキー吉永正人の妻となったのかが描かれている。

1950年の早生まれの吉永みち子は、第一次ベビーブーム、団塊世代の最終学年にあたる。
戦後間もない、貧しく厳しい時代を生き抜いてきた。

父親を早くに亡くし、学生向けの下宿屋をやって母と二人三脚で暮らしてきたみち子はもともと勝気な娘で、その性格は下宿に暮らす学生たちとの交流によってさらに拍車がかかった。
年上の大学生にも物おじせずにズバズバ言いたいことを言うみち子を周囲の人間は子ども扱いせず、対等な大人として扱ってくれた。

下宿屋の経営は苦しかったが、死んだ父との約束もあって、国立東京外国語大学に進学する。
奨学金を借りたこともあって、みち子は早く一人前になって社会へ出ようと焦っていた。

1968年のことだ。

折しもそのころは全共闘の最盛期。
大学に入ったはいいものの、学生運動の高まりから次第に授業の運営もままならなくなるという異常事態が始まった。

時期が進むごとに、ますます学内は制御不能の状態に陥っていく。
思い描いていた学生生活とはまるで違っていた現実と、殺伐とした大学構内の雰囲気に疲れ切っていたみち子は、ある日友人に誘われて初めて競馬場へ赴き、そこで一気に競馬の虜になる。

競馬の仕組はさっぱりわからなかった。でも、まるで自分も一緒に走ったようにハァーハァーしながら大喜びしている人や、首をかしげながらはずれ馬券を床にすべり落とす人、ヤジられて元気なく帰っていく負けた馬、首を上下に勢いよくふって勝馬囲いに飛びこんでくる馬、競馬場の中で息づいているものすべてが、たまらなく好きになっていた。
翌日の日曜日、どうしても我慢できなくなって、私はまた競馬場に出かけた。
(…)
日曜日の競馬が終わってしまうと、今度は次の土曜日が待ち遠しくてたまらなかった。競馬場で過ごす時間は、何にも代えられないほど貴重に思えた。言ってみれば、当時の私にとってやっと肩から力を抜き、身構えなくても楽に身を置ける場所が見つかったという感じだったろうか。


競馬こそ、自分の人生にとって大事なものだと確信したみち子は、知り合いのツテを辿り、母の反対を押し切って競馬新聞社「勝馬」に入社。
日本初の女性競馬記者(トラックマン)となる。

今でこそ女性の競馬記者も珍しい存在ではなくなったが、当時は男女共同参画社会基本法が制定されるよりもはるか前。
会社での女の仕事はお茶汲み。
そんな差別がまかり通るような時代だった。

全き男性社会だった競馬界に飛び込んでいったみち子には様々な困難が待ち構えていたが、彼女は持ち前の積極性を生かして果敢に立向かい、周囲の男性記者と遜色なく仕事をこなすまでになる。

4年間『勝馬』で勤務したあと、『日刊ゲンダイ』へと移籍。競馬との関わりはまだまだ続くことになる。

そこでの取材時に、吉永正人と出会った。

冒頭に掲げた出会いから、府中に住まう関東所属のジョッキーたちとの親しい交流が生まれ、やがてみち子は吉永との結婚を意識するようになる。

しかし、妻に先立たれ、二人の子を持つ男やもめだった吉永正人との結婚話は、母からの大反対に遭った。

しかし、吉永の決意は固かった。
粘り強くみち子の母を説得し、ついに結婚への同意を取付ける。
みち子の知らないところで、吉永はみち子の母と差し向かいで説得し、愛用の鞭を差し出した。
無論、自分の人生のすべてを賭してみち子を守り抜くという意志の表れであった。
この吉永の覚悟についに母も折れ、二人の結婚を認めることになる。

二人の結婚は、ちょうどJRA美浦トレーニングセンター開業の時期と重なっていた。
府中と中山、それぞれ競馬場近くにあった厩舎棟や調教場が霞ヶ浦近くの美浦村へと集約され、近代的なトレーニングセンターとして関西馬に対抗しようとしていた。

幸いみち子の母も美浦の環境を気に入り、競馬関係者の宿舎に入居した吉永家にほど近い一軒家に住まうことになる。
こうして、吉永家の一員となったみち子の「騎手の女房」としての生活が始まることになる。

ジョッキーの壮絶な減量の苦しさ


『気がつけば騎手の女房』の優れている点は、とくに競馬に詳しくない読者でも違和感なく読みすすめられるだけの面白さを備えていることだ。
それは吉永みち子の技量によるものだろう。
競馬の魅力、そして騎手や競馬界の人々の生態を、みち子は柔らかなタッチで描き出す。

吉永正人を誰よりも近くで見守っていたみち子が、その記者としての才覚を最も発揮しているのが、ジョッキーが直面する減量との闘いについて綴った「私は騎手の女房」という章だ。

競馬には「負担重量」という規定がある。

たとえば新聞の馬柱を見ると、57キロ、53キロ、というように数字が記載されているが、これは負担重量といって騎手の体重に鞍や鐙、ヘルメットやゴーグルなどの装備品全てを合計した重量である。

そういった装備品だけで数キロの重さにはなるため、この制限をクリアするには、体重は多くても50キロほどに落とさなくてはならないことになる。

身長163センチの吉永正人は、騎手としては大柄な部類に入る。
しかも生来骨格ががっしりしていて、昭和36年にデビューしたときにすでに55キロ近くあったというから、決してジョッキー向きの体格とは言えない。

それだけに、彼の騎手人生はそのまま、過酷な減量との闘いだった。

吉永と一緒に暮すようになって、みち子は減量の厳しさを目の当たりにする。

レースが終わった日曜の夜には思い切り飲んだり食べたりするから、体重は56キロくらいに膨れ上がる。
これを次の騎乗がある週末の土曜日には51キロほどに落とす必要がある。

わずか5日で、5キロの体重を落とさなくてはならないことになる。
そのためにジョッキーは、あらゆることに気を使って体重を管理しようとする。
カロリーを控え、口から摂取する水分さえも制限し、必要とあればサウナに入って汗を流し身体を絞る。

ボクサーならば試合のあるごとに数カ月単位で減量を進めればよいが、年間を通して開催される競馬の騎手にはシーズンオフは存在しない。
だから一年中、毎週この苦行の繰り返しである。



二人で暮らし始めたばかりの日曜日、競馬場での騎乗を終えて家に帰り着いた吉永は、部屋に入った途端に倒れ込み、そのままびくとも動かなくなる。

仰天して救急車を呼ぼうとするみち子に、吉永は心配ないと告げる。

黙ってみち子が見ていると、その言葉どおり、二十分もすると少しずつ動くようになり、のっそり起き上がる。
そして吉永はビールをゆっくりと飲み、豆腐をズルズルと流し込む。
二日間、何もノドを通していないのだ。
そうした流動食めいたものでないと、すぐには身体が受け付けないのだ。

こうして徐々に胃袋を慣らし、それまでの鬱憤を晴らすように、日曜日の夜は食欲の赴くままに喰う。
そして週が明ければまた、土日のレースに向けての準備が始まる。
だから月曜のむくんで膨れ上がった吉永と、土曜のレースに臨む前の吉永とではまるで別人のような顔つきとなる。

それが吉永にとっての日常なのである。

レースの日、雨が降ったらスタンドから遠く離れたところでヘルメットの庇から滴り落ちる雨水を飲む。それが本当にうまい。

とは、吉永の弁である。
この言葉からは、常に減量と闘うジョッキーの辛苦が伺い知れる。
時が過ぎた現在でも、騎手に架せられた宿命は変わることはない。
吉永と同じように、日々減量との闘いを迫られている騎手は数多いのである。

みち子と正人のその後



2006年9月、多くの競馬ファンを魅了した元騎手で調教師の吉永正人はスキルス性胃がんという難病により帰らぬ人となった。享年64歳だった。

亡くなる当日まで吉永に寄り添い、最期を看取ったのはみち子だった。
二人はすでに離婚していたが、夫婦でなくなっても友人としての関係は続いていたのである。


ミスターシービーでクラシック三冠を制覇し、一流ジョッキーの仲間入りを果たした吉永だったが、それから間もない1986年に騎手を引退し、調教師として競走馬の育成に携わることになった。

栄光の三冠制覇からわずか3年。
その決断の裏側には、やはり減量が肉体的な限界を迎えていたのだとする情報もある。

鹿児島出身の吉永は九州産馬の育成に力を注ぎ、死の直前までその夢を手放さなかった。

独創的な騎乗スタイルで競馬ファンから愛され、その誠実な人柄で競馬ファンから愛された吉永正人。
病室でみち子が聞いた最後の言葉は「ビールが飲みたい」だったという。
厳しい減量を経験したにとって、レース後のビールは人一倍味わい深いものだったことだろう。
最後にもう一度、騎手としての実感を味わいたいという思いが、ビールを求めさせたのかもしれない。

「武骨で不器用で時代遅れで……。馬のこと以外は何にもわからない人だったけれど、大きな優しさを持った人でもあった」

吉永正人のことを語るみち子の言葉には、友愛が満ちあふれている。


【後記】デュッセルドルフの書店にて


じつは、私はこの本に特別な思い入れがある。

私が『気がつけば騎手の女房』を読んだのは2012年の暮れか、2013年の年明けあたりだったと思う。
それなりに長い私の競馬遍歴のなかでも、もっとも競馬から遠ざかっていた時期だった。日本から離れていたので、仕方ないといえば仕方ない。

それなのに本書を読んだのは、とある古本屋で偶然の出会いがあったからである。

当時私はドイツに留学中で、日本人街のあるデュッセルドルフの日本古書店でワゴンセールになっていたのを発見した。
あまり好みではない、文庫本からカバーを外し、ベージュ色の裸になった状態で陳列するというスタイルだった。

個人的な美意識の観点から、通常であればこの売り方をされている文庫本に手を出すことはないのだが(どんなにボロボロでもカバーがついていたほうがいい)、日本語の書物に飢えていたことと、遠いドイツの地で以前から気になっていた吉永みち子の本があったことで購入した。

何冊か隣に並んでいた、どこか因縁めいたものを感じる堺屋太一『団塊の世代』とともに、購入。たしかどちらも2ユーロだったように思う。

ほんとうにあの頃は、ドイツに留学していたのにドイツ語の文献も読まず、というか読めず、日本の小説や翻訳書、専門書ばかりを読んでいた。
だが日本から持ち込んで読んだ本の数々は今でも自分の糧になっている。

今回取り上げたこの本も、そうした本の一つだ。
良いところで、良い本に出会ったものだ。
こうした優れた本に限って絶版になっているのだが、幸いなことに中古本市場でも100円程度で手に入れることができる。

競馬を愛する人、すぐれたエッセイを求める人には、ぜひ読んでもらいたいのが『気がつけば騎手の女房』である。

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