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聖なる食事の期間

10日の玄米のみの半断食と6日の味噌を加えた回復食を経て、聖なる食事の期間が終わる。この期間中は、食事により動物の命を奪うことに加担せず、味覚を楽しませることに耽らず、神経を昂らせることなく、安穏に過ごすことができた。今日から通常の食事に戻るが、また食べているうちに様々な穢れが溜まっていくだろう。果たして戻るのがいいのかどうかは思うところがある。

イスラム教におけるラマダンのように、それぞれの宗教で断食の期間が設けられていることの意味はよく理解できる。
誘惑の多い現代において、それを実行するのはより困難なので形骸化しているが、経験がある者と無い者との差は大きい。

現代人は健康や美容のためにこうした半断食や断食をする。だがその動機は本来は単なる入口に過ぎず出口ではない。より奥にある精神的な高みにたどり着く必要がある。食事にまつわる精神的に段階として、大きく分けると四つぐらいのステージがありそうだ。

まず多くの人は食事制限などしたいと思っていない。食べたいものを好きな時に食べたいだけ食べる。それが自由であり、それの何が悪いのかという意識でいるのがほとんどの人ではないか。この意識状態というのは「快楽」がベースとなっている。

そうした人々の中に、一部ではあるが食事の制限をする人々がいる。その動機は、自分の体調や外見に問題を感じ、その原因が食事であるということに行き着いた人々だ。そうした人はより良き体調やより美しい外見のために食事を制限する。この意識状態は快楽ではなく自分の「幸福」がベースとなる。
そして実際にそういう動機からファスティングを始める人は以前に比べて格段に増えてはいる。しかし多くの人はそこで終わり、次の段階へとは進まない。

この次のステージは倫理的な欲求へと移る。自分が食事をすることは、何かの命を奪うことであり、それに加担したくないという欲求だ。ビーガンや不食者はこの欲求の人々が中心で、自分の幸福を中心に考えているわけではない場合が多い。むしろ自分の行為が誰かの幸福を奪うことを嫌悪するモチベーションの方が大きいことがある。それは他の生命への「慈悲」が意識の根底にある。
ここまでたどり着く人は人類の中でもほんのわずかだが、その数も徐々には増えてきているのではないだろうか。

だがこのステージでは、まだ食べること、食べないことへの執着がある。食べていいものと食べてはいけないものを選別している状態は、自分あるいは他の生命も含めた「生存」への欲求が意識の根底にある。

それを抜けた最後のステージは、何を食べても良いという「無執着」の意識状態だ。肉でも魚でも何でも食べるので、見かけの上では最初の快楽によって食べることと見分けがつかないかもしれない。しかし意識のあり方としては全く違う。快楽や生存に対する意識が薄いのだ。そして食によって幸福が得られるとも考えていない。では他の生命への慈悲をどう考えるのかという問題が残る。
食べることへの執着が無くなれば、食べる内容が問題ではなくなる。だから必然的に食べる量は減る。

だが食べることによって他の生命を殺すことに加担してしまうという倫理的な矛盾を感じる者の中には、そのまま食べずに不食へと向かう場合もある。実際に不食者というのは世界に一定割合いて、何も食べずにエネルギーを別の方法で得ている。
それも一つの答えではあるが、こういう考え方もある。それは命を奪うことには自ら加担しないが、自分に頂いたものはありがたく頂くというスタンスだ。
我々が食べているものは既に死体である。それはもはや命ではなく、単なる物体である。それ以上苦しむこともなく、それ以上生きようとすることもなく、放っくと朽ちて行くものである。もしそれが自分に与えられたのであれば、自分の生命を繋ぐためにありがたく頂こう。食べることに執着するのでもなく、食べないことに執着するのでもなく、食べても食べなくてもよいというスタンス。それが一番自由な食との向き合い方のようにも思える。
日々の生活の中に、ほんの少しだけ食べることと向き合う時間を持つことは、誰にとっても必要だ。皆がそういう時間を持てば世界はもっと穏やかな場所になるはずだ。

どれほど知識があっても、どれほど権威があっても、どれだけ立派なことを論じたとしても、日々我々は同じように食べる存在である。誰も食べることから逃れられず、それを克服せずに何かを語るのは浮ついたものになる。

これからやってくることが想定される食糧危機とどのように向き合うのか。食べることに自由にならねば、我々は簡単に誰かに支配されてしまうだろう。もちろん自らの食を自ら切り開くことは大切だ。それと共に聖なる食事の期間で少しずつ訓練しながら、食から解放される道を歩んでいくことも大切になるのではないだろうか。

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