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ある桜から教わった話

それは何の前触れもなく突然訪れた。
これまでも日本だけでなく世界中の聖地を調査していたので、不思議なことは何度もあった。だが今回は明らかに偶然ではないのだろうと確信している。宇宙まで突き抜ける青空が広がる暖かい春の昼下がりに、僕はその桜に呼びかけられたのだ。

仏陀の誕生日にあたるその日、僕は昼過ぎまで吉野で存分に千本桜を堪能して、近くにある龍鎮の滝へと車で向かっていた。その道中で路傍に立てられた一枚の看板が何気に目に入った。それを通り過ぎてから、数百メートルくらい進んだ時だ。なぜか気になりUターンを2回して、その看板のあった道まで引き返した。看板には「又兵衛桜はこちら」と書かれていた。

僕自身はそんな名前を耳にしたことがなかったし、それが何かも理解していなかった。だからそこへ行く動機も理由も全くなかった。それがかなり有名な桜であることを知ったのは後になってからのことだった。だがその時、なぜかそこへ行かないといけない気がしたのだ。

目的地に何があるかも分からず、看板から4キロほど車を走らせた時に、突然開けた場所が現れ、人が集まり賑やかになっている風景が飛び込んできた。それでもまだ何がそこにあるのか分からず、単に車で通り過ぎて確認するだけの気持ちでいた。だが、またなぜか気になり、いくつかある駐車場の一つに止めて歩き始めていた。向こうに大きな桜があったようだが、どれがその桜か分かっていなかった。だが、橋を渡った時にそれは突然やってきた。

急に自分の身体中が緩み始めたのだ。緩んだというより、それまで力が入っていたことに気づいたと言う方が正確かもしれない。筋肉の硬さに突然気づいたことで、脳が身体を弛緩し始めた感じだ。急に神経が副交感側に触れ、お風呂上がりのようなリラックスしたような感覚になった。その瞬間に前を見た僕は、その桜と向き合う位置にいたことに気づいた。ピンクの霞をまとった枝が滝のように枝垂れながら、風に大きくなびいている。スローモーションのように動いているにもかかわらず時間が凍りついていた。その大きな大きな生命体が"又兵衛桜"だと気づいたのは、しばらく時間が過ぎてからだった。

意味も分からず不意に胸が熱くなり涙が込み上げてきたようだが、滴にはならずに身体へ染み渡っていった。何が起こっているのか全く理解できないでいたが、それはなぜか自然なことのように思えた。僕たちは二人で向き合っていた。周りにはたくさんの人がいたが、まるでこの場所には自分とその桜だけしかいないように感じたのだ。僕は桜に近づいていきながら一歩踏み出すごとに敬意の念で頭が下がっていった。

しっかりと組まれた石垣の上の角から天に向かってそびえる巨大な枝垂れ桜。その姿は沢山の兵士を従える王のようであり、また大勢の教え子たちに語りかけるネイティブの長老のようであった。僕はその長老の声なき声に耳を傾けながら、周りをゆっくりと回り始めた。右の側面から斜面を登って背面に周り、そして反対側の左側面を通り過ぎて正面へ回る。どこから見てもその威風堂々とした風格を損なうような死角はなかった。正面へ回り込んだ頃には、自分が深々と御辞儀をしていたことに気づいた。一周して最初に出会った右の側面へ戻ると若い桜と立派なコブシが長老の話を聞いていたので、その下に僕も座り込んで一緒に話を聞かせてもらうことにした。

長老は色々と教えてくれた。
正義感を持つことは大事だが若者よ。
そう力むでない。
もっと落ち着いて構えていないとうまくいくものもうまくいかない。
物事を変えることよりも、自分が正しい立ち方をしていることに注意を払いなさい。
いついかなる時でも自分の中心を揺らがさずに、なすべきことをしていなさい。
そうすれば自ずと周りの流れはそれに従うようになる。
その他の細かいことは流れに任せなさい。
右から風が吹けば左になびき、前から風が吹けば後ろになびきなさい。
日差しから土を守り、雨を和らげて雫に変えるように、天から受けたものを地に渡しなさい。
天に逆らい、地から吸い取り生き延びようとするのではなく、他の生命へ与えて支えるために生きなさい。
そうやって生きていると、逆に自分が誰よりも多くの生命から支えてもらっていることに気がつくだろう。
長く生きることは支えてもらうことだ。
それは同時に自分も周りの生命を支えねばならない責任を持つことでもある。
そんな関係を長く保つためには若者よ。
力を入れることよりも抜くことの方が大切だ。
早く広く大きく育つことよりも、じっくりと少しずつ丁寧に重ねていくことが大事だ。

気がつけば周りには僕と桜とコブシだけでなく、何人かの人間も座り込んで長老の話に耳を傾けていた。誰もがしんみりと耳を傾けていた。いくらでも聞いていられた。誰も騒ぎ立てたり大声ではしゃいだりする者はいなかった。一人で座っている者も、何人かで座っている者もいた。だが全員が独りで耳を傾けていた。長老は一人一人に語りかけていたからだ。後ほど知ったのは、この長老はもう300年以上もこの場所でこうして他の生命に話をしてきたということだった。

それほど長い年月を一つの生命体が生きるためには、条件が整っていることが必要だ。それはその生命体そのものが持っている遺伝子的な条件だけではない。その生命体が生きていくのに必要な環境の条件が必要なのだ。水分、養分、日照、通風といった自然環境の条件、電気や磁気、気の流れのようなエネルギー的な条件、そして人間や他の生命との関わりといった社会的条件もある。これらの条件が数百年の間、ずっと続いていたからこそ、この生命体はこの場所に生きることができたのだ。

だから1本の桜がそこにあるということは、その背後に膨大に数の生命があり、それら全てが桜を生かそうとしたことの証拠だ。そして桜もまた周囲の生命を生かそうとしてきたからこそ、そこに残り続けている。それが生命のネットワークの中で互いに生かし合うことであり、この桜の存在そのものこそが見事な形でその証となっているのだ。その姿に対して、僕たちがついつい敬意を払ってしまうのは、生命体として真っ当な感覚なのだと思う。

「持続可能」という言葉が人々の間では喧しく聞こえてくる。しかし強引で暴力的なテクノロジーや、局所的にしか物事を見つめないシステムで、一方的な持続性を推し進めようとする僕ら人間には、この桜への敬意があるのだろうか。ずっと持続してきたこの生命体へ敬意を払えないままで「持続可能」を唱える僕たち人間に、何を持続することが可能で、それは一体誰のためなのだろうか。

僕ら人間は桜と話すことなど出来ないという世界観を採用する文明に生きている。だが一つの生命体としての僕らの感覚を素直に見つめると、桜と話すことはごく当たり前のことだ。その会話は言葉によるものではない。言葉はとても便利な道具だが、その一方でとても範囲が限られている。むしろ言葉を使うことで、狭い範囲の中に制限されてしまうことになる。

生命の共通言語は言葉ではない。そんなものを使わずに、直接身心に語りかけるのが人間以外が採用するコミュニケーションの方法だ。しかし僕らは言葉や数値を使うことで、そうした生命のネットワークで使われている方法が理解出来なくなってしまった。いや、そもそもその方法を外から理解しようとすることが間違っているのだろう。それは既に僕らもしていることだからだ。人間同士だって言葉を使わずにコミュケーションしているはずだ。それをあたかも存在しないことにして、言葉だけしか意味や内容を伝えないと思い込むとは、なんと愚かなことなのだろうか。

たしかに言葉は人間にだけ与えられたギフトだ。そのギフトを何に使うのかが大切なのではないのだろうか。僕たちはギフトを正しく使えているのだろうか。他の生命と支え合うために用いているのだろうか。せっかく与えられた能力なのに、その能力のせいでそれまで持っていた能力が失われているのではないだろうか。

だが今、そんな世界がおそらく変わろうとしている。桜と話せるようになっている人が増えてきているように感じるのだ。桜だけではなく、他の木々と、動物と、虫と、岩と、水と、空と話せる人々が、場所を問わず世界中に増えているように思える。生命のネットワークが歪な形で損なわれているからこそ、他の生命がこれまで以上に僕らに語りかけているのだ。

だから僕が今回呼び止められたのは偶然ではない。きっと長老は僕に話しかけたかったのだ。それは今の僕に必要なことだ。そして言葉というギフトを頂いた全ての人間に必要なことだ。その役割を託される人は徐々に増えている。言葉というギフトを頂いた僕らに出来ること。それはこうしてメッセージを人間に分かるように言葉として翻訳することだ。それは言葉の使い方としては論理的というより、詩的で物語的なアプローチかもしれない。

「現代」の問題を解決するためには、「現在」のテクノロジーやシステムでは限界があり、科学の範囲でそれは突破できないだろう。だからこそ美学や芸術の角度から科学の範囲を広げる世界観を提示し、次の文明や意識を育んでいくために言葉を使いたい。それこそが桜から教わったことを実行してみることであり、それには長い時間がかかるだろう。力を抜いて落ち着いて、しなやかに揺れれるように軸を立ててみようと思う。

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