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逃げたいという願望 (短編)


*この小説は作り話であって、実際の団体や人物とはなんの関係もありません*




 《A desire to get away》

 
 ある思いに取り憑かれていた。それは逃げたいという願望だった。突然だった夫の死の後、まだ心の整わないうちから、相続だの事業継承だのの手続きに追われて、いつしか八枝はすべてを捨てて逃げてしまいたい、と思うようになっていた。

 昨日と今日とに境はなかった。あるのは手続きの締切だけで、八枝の世界はただ茫漠として、死んだ心を追いやって、税理士だの司法書士だのに言われる通りに体を動かしているに過ぎなかった。

 海の近くのちいさな家、というありきたりな夢が、いつしか彼女の逃げ先になっていた。そのことを考えているときだけは、乾いた骨のうるおうような気がした。八枝は、あの日市営の火葬場で、じぶんの半分は灰になったのではないかと半ば本気で信じていた。

 愛するひとを焼いたことは、夜な夜な悪夢となって八枝を苦しめた。日本軍が玉砕した南の島のはてしない薄闇に、火葬を待つ遺体が散らばっている。それぞれの遺体のまわりを、円を描いて副葬品が取り囲む。そのなかを八枝は、夫を見つけだそうと進んでゆく。どれも蝋のような老人ばかりで、夫の姿は見当たらない。

 どこまで進んでも、戦死した兵士たちの遺体は尽きることがない。先の方から順々に火が点されていき、炎のなかの人影がだんだんと迫ってくる......

 叫び声とともに目覚める真夜中に、主はいつも八枝に問う、

 『これらの骨は、生き返ることができるか?』
 「主よ、あなただけがご存知です」

 そう答えながらも、八枝はいつも無理だ、と思う。わたしの骨は枯れ、わたしの望みは尽き、わたしは絶え果ててしまいそうなのに。それが不信仰であることくらいわかっていたけれど、心はあまりに疲れていて、麻痺していて、信じようという希望を持つことさえ重すぎた。

 逃げることを夢みるのは、いつだってそんな夜だった。みずからの命を絶つのは最低の罪だ。だからといって神に呼ばれたこの場所に、乾いた骨の谷に、いつまでも留まっているのは想像するだに恐ろしかった。そういえば夫の伯父は、テニアン島で戦死したのだそうだ。この家に帰ってきたのは、木箱に入った白い砂だけだった。血も繋がらない幽霊たちで溢れた、こんな屋敷からは逃げてしまいたいー。

 暗闇のなかに青い光を灯らせて、八枝は眠れぬ夜を不動産サイトにさまよった。次第に空想は現実味を帯びながら膨らんでいき、じぶんのなかには納めきれなくなっていった。祖母や夫の遺産を取り崩せば、ちいさな家を買うのは不可能ではなかった。夫の家に伝わる築百年の屋敷は教会に寄付してしまって、ひとり海辺で、翻訳なんかをしながらひっそり暮らしていきたいー。

 夢を明かす相手に久米を選んだのは、きっと彼なら裁かずに聞いてくれると思ったからだった。夫亡きあと、なにくれとなく世話を焼いてくれる彼を、ある日礼拝のあとに捕まえて、にぎりしめていた紫水晶の思い出を明かすように、海に近い中古の一軒家を見せた。

 ふうん、いいんじゃないですか、と久米は言った。画面を見せようと傍に寄ると、生きている男性の匂いがして、幽霊と暮らしている八枝はすこし噎せかえってしまった。どこか平淡な聲の調子に、その表情を伺うと、いつも通りのほれぼれするような美しい顔がそこにあった。安全のため、八枝は心のなかでそっと死者を間に挟んだ。

 それでも久米は、親身になって聞いてくれる良い相談相手だった。当初の希望は、従姉が住む逗子に近い家だったけれど、それはなかなか値段が張った。次第に範囲を広げていき、ついに真鶴辺りまでを検討しはじめたときに、久米がひとつの土地を見つけてきた。

 それは高台にある八十坪の土地で、眼前に青い海が広がっていた。従姉の家からもそう遠くない。少女時代、祖母に連れられてお茶をしにいった、南葉山のホテルからほど近い土地だった。

 「高すぎるわ」

 一応上から下まで目を通し、車両進入可能か、接道しているかどうかまで確かめてから、八枝は言った。真木家の地所のほとんどはその法人のものとなっており、自分勝手に処分できるものではなかった。この逃避行の資金は、養女になっていた祖母の遺産と、夫が遺した多少の現金から成っていて、家を建てなくてはならないことまで考えると、それは予算を数千万円単位で超えていた。

 「わたし、そんなにお金を持ってるわけじゃないのよ」
 「ぼくが目一杯ローンを組んだら、手が届かないこともないですよ」

 そう平然と言う久米に、八枝は眉を潜めて言い返す。

 「どうもご親切に。ひとに借金させてまで家を建てたいとは思わないわ」
 「え? ぼくも住むつもりでしたけど?」

 にこり、と久米がわざとらしく笑ってみせる。

 「さすがに久米さんとふたりで暮らすわけにはいかないわ」
 「ぼくと結婚したとしても?」

 はっ、と伺った久米の表情は真剣で、八枝は無理やり笑って「ご冗談を」と流してしまおうとした。皿を拭いていた布巾を置き、久米は八枝の正面に座すると、その目をまっすぐに見つめながら言った。

 「神さまから逃げたって、幸せにはなれませんよ」

 真正面から鋭く刺されながらも、その正しさは不快ではなかった。裁かれている気はしなかった。あらわにされた八枝の弱さを、いまにも引き受けようというふうに、久米は言いがたいような優しい目をして、こちらを見つめていた。ぽつり、ぽつりと、八枝の口から言い訳が漏れ落ちる。

 「ただ空想しているだけなの。本気で逃げる勇気なんかないのかもしれない。でも現実と向き合う勇気もないの。久米さんも、反対しているなら、どうしていままで話に付き合ってくれていたのよ?」

 「ぼくは八枝さんに不幸になって欲しくはないけど、八枝さんがどうしても神さまに与えられた居場所から逃げたいと言うなら、ぼくも一緒に不幸になろうかなって思ってたんです」

 イブのためにエデンの園を追い出されたアダムみたいに、と久米はすこしおどけて笑窪を見せた。

 「ありがとう」
 「それはプロポーズの承諾ですか?」
 「いいえ、忠告してくださったことにですわ。真木が亡くなってまだ半年も経たないのに、そんなことを言う久米さんの気はまったく知れないわ」
 「久米くんならやりかねない、って真木さんは言うでしょうよ」

 「わたし、二度と結婚するつもりはないわ。恋だの何だのにかかずらうのは、もう二度とごめんなの」

 「ねえ、八枝さん。突然あんなふうにご主人を亡くしたあなたを、ぼくは責めようなんてこれっぽっちも思わないけれど、あなたが道を誤ろうとしているときに注意してあげないのなら、それも間違えてると思うんです」

 「わかってるわ。この教会を捨てて、ひとりで海辺に引っ越すのは辞めるわ」

 「それはあまり心配していなかった。相談する相手が牧師先生じゃなくて、ぼくだった時点で、本気で逃げるつもりはないんだろうな、と思っていましたよ」

 「逃げたいのなら、キリストの腕のなかにお逃げなさい。ぼくの腕に逃げておいで、とぼくだって言いたいし、実際そう思ってもいるけれど、それでは問題の解決にならない。あなたが逃げてゆくべき場所は、あなたのなかに存在してるじゃありませんか」

 「逃げることを夢みたって仕方ない。あなたのなかにキリストがいて、キリストがあなたのすべてなら、どこを探したってそれよりも満たされる感覚は見つからないんですから」

 「そして恋をするなら、キリストと恋に落ちればいいんですよ。いとしの真木さんが今生き返ったとしても、結局ただの人間でしかないんですからね。ぼくは八枝さんと違って、残念なことに過去が清らかじゃないから言えますけど、すべてを満たしてくれる恋愛相手なんて、キリスト以外はいませんよ」

 何てこと言わされてるんだろう、と久米はみずからを嗤った。八枝は出来るだけ、彼から目を反らしていようとした。この美しい情熱の渦みたいなひとに、巻き込まれてしまえば無事ではいられないと分かっていたから。

 ふいと久米の前を離れて、八枝はひとりで本棚に向かうと聖書を開いた。エゼキエル書の37章には、こうあった。

 『わたしがあなたの墓を開き、あなたをその墓からとりあげる時、あなたは、わたしが主であることを悟る』

 声に出さずにそれだけ読むと、八枝は久米の方を向き、冗談めかして言った。

 「久米さんは、教会でお説教をなさるといいわ。きっとファンの女の子たちが、教会にたくさん詰め掛けると思うわ。今度牧師先生に推薦しておきますわ」

 今度こそ気分を害したらしい久米は、じゃあまた、と言って部屋を出ていった。八枝は、ふぅ、と胸を撫で下ろした。

 

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