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【肩書き】はいらない

よく「私の気持ちなんてあなたには分からないのよ!分かってよ!」と言う台詞を耳にも目にもする。上の娘にはよく言われた。

自己中だなあっていつも思う。
じゃあ、あなたは相手の気持ちがわかってるの?と自動的に湧き上がる。

正直な話、ココ最近の『発達障害の理解』のSNS発信を目にすると「それはどうよ?」と思うことが多々ある。

「人って、人間て」という一般論は凄く嫌いなので「私は」という個人としての経験からの意見を書こうと思う。

私の上の娘は軽度知的障害。23歳。IQ58。検査、診断がついたのは17歳の時。
それまでは絶対に病院行かない!と拒み続けたから私は必死であらゆる本を読んで色々な手段を講じてきた。

いわゆる『不思議ちゃん』だったけど親としてはそんな可愛いもんじゃない。
初めての子供でいわゆる「普通」が分からなかったけど、周りと比べたら全てが遅い。

でも私にはそれは気にならなかった。
高校の時と職場での後輩で同じタイプの指導をしてきたので「この時のための経験だったか!」と思った。

世の中に『発達障害』の情報が少しずつ出始めていたので、何冊も本を買って読んだ。
チャート式の診断がついている本を読みながら、下の娘も含め診断してみたが下の娘はほとんど当てはまらず、上の娘はギリギリの数で当てはまらない。

えっ〜?違う?でもさ、大変なわけ。私は。何が大変なのかをここには書かないけれど。

障害者手帳は出るはずという高校の先生と私の意見の一致から、障害者雇用のために病院に行くことになった。何故か本人も拒否せず。

出た診断が『軽度知的障害』
なんと!そういうこと!
先生によると「全ての数値が4~6。発達障害の場合は10の項目と2の項目があるっていうような、著しく差が出る。秀でているものと全くできないことの差が激しい。」

そうよ。発達障害は秀でるものがある。それを見つけられたらと思って色々と与えてみても、何一つ続かないし集中もしない。

「ほな発達障害ちゃうかー」とミルクボーイ状態でずっと様子を見てきた。

『軽度知的障害』
納得!先生に「は〜っ!なるほどね〜!いや〜すっきりしましたわ〜!そういう事ねー!」とおばちゃん感満載で晴れやかに声を発していた。

できないとやらないは違う

私は「出来ないこととやらないことは違う」が信条なので『障害だから』を理由に「やらない」という選択をさせない。

厳しいとは思う。
やりたくなくてもやらなきゃならないことは生きていく上でいくつもある。

ゴミをゴミ箱に捨てる。
これすら「やらない」
出来ないんじゃない。「面倒くさい」からやらない。

実際、部屋をすごく綺麗に片付けることが出来た時を知っているから「出来ない」のではなく「やらない」事に入る。

出来ないことは、人に合わせること。ハサミを上手く使うこと。もちろん車の運転は危険なので免許は取らせない事にした。

私は「出来ないこと」をやれとは言わない。
無理やり友達を作る必要も無い。嫌なのに合わせることをしなくていい。

努力を続ければできるようになる事は「出来ない」んじゃなくて「やらない」
やらないのは「面倒臭いから」という理由。

同じ『軽度知的障害』や『発達障害』の人達と繋がりを持っているけれど皆違う。
『健常者』とされている人達だって皆違う。

病気じゃない

『発達障害』を理解して欲しいと言いつつ
『病気』だと思っている、思わせている医者の診断から学校の先生も親も本人も
『病気』なんだから、と思うから出された薬をずっと飲み続ける。治らないのに。

治らない。何故って病気じゃないから、治すも何も無い。治すじゃなくて『直す』
行動を『直す』事が必要なだけ。

『障害』が「脳の癖」だと説明してあるんだから『病気』の括りにしてる人に対しての疑念を抱いてしまう。

障害という診断がついていない人だって、やってはいけないことをやってる人が山ほどいる。ダメなことを経験して傷ついて『直す』を繰り返す学びを続けている。

私の娘は「やりたくないからやらない」を徹底的に貫くようなので、もう応援はしない。
私は『障害』を言い訳にして「障害なんだからしょうがないじゃん。」と努力をしない、依存する、文句ばかり言う人には支援はしない。親子であろうとも。

逆に言えば、どんな障害を伴っていても、いつ出来るようになるのか分からないことでも努力を続ける人には支援を惜しまない。

【健常者】だの【障害者】だの
【ボーダーライン】だの、、、

私はそういう【肩書き】が嫌い。
ただ【人間】という肩書きだけで生きていく。

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