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新年の挨拶

 例年仕事納めのあとは川に入るのが日課となるのはご承知のとおりで。胸まであるゴムの胴長を履きましてね、朝夕二回、川底を攫うんです。お目当ては手長海老。ほかにも夜中には延縄仕掛けて、こいつは鰻用。鰻と一口にいったって、あなた、都会者には思い及ばぬような化け物級のね。捕まえた海老も鰻も大晦日まで裏庭の生簀に放って泥抜きして、元旦に神前へ捧げたあとは近隣の誰彼に新年の挨拶がてらお裾分け。こちらは親戚づきあいも絶えて久しいですから、私ども一家の食べるぶんだけ残して、天ぷらに湯引きとなんでもいける。美味いもんです、やはり自分で獲った天然物に勝るものはない。

 昨年の暮れも例年並みの収穫で、生簀の周囲は猪避けを兼ねた通電金網で囲っていたからすっかり安心していたのが事の誤り、穴を掘って闖入した輩がいた。狐です。こいつの仕業で生簀の海老も鰻もみんな持っていかれちまった。元々山のものは神さんのものと決まっていて、狐は神さんの使いだから狐にやられたんじゃあ仕方あんめぇなんて村の古参ならそんな悠長なこといって慰めるつもりでも、こちらは土地に馴染んだとはいえ十年そこらの新参でしょう、共存と棲み分けを履き違えたもので、侵犯したのは向こうだとどうにも腹は据えかねた。ほんでもって囮の雑魚を生簀にぶちまけておきましてね、その夜、物陰に構えて見事鉄砲で仕留めてやりましたよ。若い雄の狐でした、翌朝には腹をば掻っ捌いて肉やら臓物やらはエキノコックス怖いので野焼きにし、剥いだ皮をば竿のてっぺんに吊り下げて、それを生簀の脇に立てて奴らへの警告とした。しかしそれからとんと川海老も鰻もかからなくなっちゃった。こりゃ、山の神さん怒らせたかと脛の寒くなる心地もしたが、なんにせよ、後の祭りです。怒りに任せて何事も実行するものではございませんね。

 かくして年明けの年始回りはいつものように手土産提げてとはまいらないと途方に暮れておりましたところ、一家で初日の出を拝んでからまもない時刻でしたな、元日の早朝に訪問客があった。これがずいぶんと乱暴に玄関の戸を叩くんで、獣でもぶつかったか、誰かの悪戯かとまずは思った。こちとら初日の出に手を合わせてからはもう一眠りしようと夜着に着替えようとする間際で、顔はよほど憮然としていたものでしょうな、はいよと声がけして三和土に降りて玄関の戸を開けますと、おや、いま時分珍しい、和装できっちり身仕舞いした成人男女と子どもが八人だったか九人だったか、ともかく大勢が一列に並びましてね、こちらを認めるなり、言葉より先に一斉に深々と頭を垂れた。顔を上げるや、一家の主人と思しきが、芝居の口上の如き名乗りと新年の挨拶とを宣った。
「明けましておめでとうございます。わたくしども、昨年の暮れにこの上の山を終の住処と定めて北方より越してまいったしがない一家でございますが、なにぶん新しい土地のこと、掟の見当もつかず、越してきて早々あなた様には家の者が多大なるご迷惑をおかけしたこと、詫びのしようもございません」
 はて、なんのことやら見当つかぬはむしろこちらで、なんの話でしょう、だいたい山に越したとおっしゃるが、この上に人家などあったかな……と自分でいうはなからピンときていた。狐だ。狐の一家が年始の挨拶にきたのだ。
「お詫びといってはなんですが、ここに(といって子らの手に提げられた竹編みの魚籠を逐一示して)ざっと川海老が百と大鰻が五十ござります。もちろん生きてぴちぴちしております。何卒お納めいただきたく」
「そんなに仰山獲ったら山の神さんそれは怒るぜ」
「それはもう。重々話はつけて参りましたゆえ、心配ご無用」
「そうですか。それは大儀でしたな。しかし渡りに船とはこのこと、昨年は狐に生簀をすっかり攫われたもんで、そのせいで恒例の年始回りが滞ると途方に暮れてましたところなんで。こんだけ仰山あれば、今年はいつもの倍は配れますな」
「喜んでいただけてなによりでございます」
 私はすっかり担がれたつもりになって、向こうの調子に合わせたものでした。狭いところですけど、どうです、お上がりになってお近づきのしるしに一杯だけでも、なんて柄にもない誘いかけして、さすがに向こうも怪しむと思いきや、それはどうもと躊躇なくゾロゾロと玄関を上り込んでくる。それならそれで酒に酔わせて一網打尽にしてくれると血が騒いだものだが、もちろん顔には出せません。平気の平左を装い、客間に案内した。奥座敷に待機して挨拶に出る頃合いを見計らっていた妻子には往ね往ねと部屋へと押し返して、私は一人狐一家と対峙する覚悟でした。貢物届けてハイそれでおしまいとなるようなモノノケではございませんからね。こちとらせんから腹は括っておりました。

 魚籠の手長海老と鰻はとりあえずみな生簀に放って、なかから選りすぐりのを取って調理場に立つと、それはわたくしめが、と一家の細君が立ってきて引き受ける。
「料理は家内の楽しみなもんで。もっとも、新鮮なものはなんでも生で食すのが一番なんでしょうが」
「まともな人間なら川魚の類いを生でいくなんてことは、まずあり得ませんでしょうな。狐狸ならもとより腹に虫が湧いてましょうから気にしないんでしょうけど」
「虫が湧いているかどうかはともかく、人間ほどヤワな生き物もありませんからな。火に通すだの湯引きするだのとなにかと面倒だ」
「その面倒を一つひとつ克服することで、人間の脳は比類なく進化したわけだ」
「その結果の終わりなき屁理屈と減らず口」
「畜生どもときたら命乞いすらままならず滅びる末路」
 あっはっは……とどちらも呵呵大笑して差しつ差されつの黒松剣菱の瑞祥、やがて卓に運ばれた二つの大皿にはそれぞれ手長海老の素揚げと鰻の白焼き、これにさっと柚子を絞って、粗塩振っていただく、なるほど、一番美味いがなにかをよく心得た嫁じゃないかと称賛すると、わたしが婿の口で、と舌を出して逐一突っかかる。十匹だか十一匹だかの子狐らが大皿のぐるりを取り巻いて、手長海老やら鰻やら素手でつかんでむしゃむしゃと散らかし始めたが、着物の合わせ目から尻尾が覗くのももうかまやしない様子。
「おい、おまえたち、人様のお宅で、なんと行儀の悪い!」
 と婿殿は真っ赤な顔して嗜めては卓を拳で叩くのだけれど、どうにも本気と思われない、叱るの一つとっても気合が必要、まずは腰の据わりが……とこちらがくどくなりかかるのを制するように、いつのまにか脇に女が横座りして酌をする、裾がからげて桜色の内腿が見えている、あな妖艶なと手を伸ばしかかって、その手は桑名の焼き蛤と念じて引っ込めると、こいつは備前の魚受け、笹の葉敷いて素揚げと白焼き並べて柚子胡椒をちょこんと端に添えるなんざなかなか粋なことするじゃねえかと箸を口に運べば、脳内でパチパチと星が弾けたね。こりゃ、美味いなんてもんじゃない、天ぷらも甘だれも素材に対する冒涜さねと最大賛辞を贈れば食えや飲めやのバカ騒ぎはいよいよ高潮を極めていく。

 奥の襖が勢いよく開いて、タンと柱にぶち当たると同時に、一同スプレー吹きかけられて、中身は火事場のような匂いする木酢液、畜生の嫌がる匂いだからと霧吹きに何本か薄めたのを常備しておいたのを撒き散らすもので、なにをする、と嫁を叱りつけるも嫁はやめない、すると私もようやく正気に戻ったのでしょうね、狐どもがどどどどどどど……と音を立て、尻尾を巻いて退散する様子を人ごとのように眺めておりました、私が先刻から美味い美味いと飲んで食したそれらはみな狐どもの小便に大便、いやはやとんだ元日となったものでした。

「おい、ところで、子どもたちは」
 玄関の三和土をなにとはなしに覗くと、あるはずの子らの靴がない。これはやられたと玄関飛び出して、山へ通ずる道を追いかかって、生簀の脇に立てた竿のてっぺんに、狐の皮の代わりに子らの靴が括り付けられてあったのにはこちらは肝を潰しました。警告を警告で返されて途方に暮れておりますと、妻がつっかけ履きではぁはぁ息を切らして追いかけてきて、子どもたちなら部屋で寝てましたよ、と告げた。生簀を覗くと、大鰻どもがひとところに固まってゆらゆらと身をくねらせていて、底のほうでは、縁に沿うようにして手長海老どもがぐるりと並んでじっとしており、なるほどこちらは嘘ではなかったと見るにつけ、ちょっと感ずるところございました。

 昼過ぎから無事恒例の年始回りをして、狐の土産を方々に配って今年は正月早々景気がいいやねと誰彼に喜ばれもいたしました。しかしこちとらすっかり信心深くなったもので、もう今日から無駄な殺生はよそう、生きとし生けるもの、みな助け合って仲良くしなくちゃなんて思っている。妻や子どもたちにもそう訓示を垂れた。

 明日から仕事始めというのに、私はすっかり腑抜けとなりつつございます。といいますのも、あれ以来、夜毎繰り広げられる酒宴でございまして。家人らのすっかり寝静まったあと、コンコンと玄関の戸を叩く音がいたしまして、開けますればそこには先だっての狐夫婦のほか艶やかなる衣装着た白塗り高下駄の花魁控えて島田のかんざし飾りを揺らし、あれよあれよのうちに玄関上がられて、居間には馥郁たる香が焚かれ、太鼓に三味に笛の楽の音、あわせて女どもは乱舞しながら一枚また一枚と脱いではこちらにしなだれかかり、美酒に美食に腹も裂けんばかりになってとてもここにはいうもはばかられる痴態の数々、三晩続いてこれでは身が持たぬとなったおり、四つめの晩は例によって戸を叩く音こそすれ賑々しさとは無縁ではてと戸を開くと誰もいない。誰もいないと思って戸を閉めかかると、ここじゃよ、と聞こえて外へ出かかって、危うく足元の小さな御仁を踏み潰すところだった。
「こう見えても山の神さんなんだけどね」
 それはいう。ほう、山の神さん、想像とちがってえらい小さい。
「頼みがあってきたんだけどね。狐どもがわしの酒を盗んでは夜毎どこぞで宴会を開いてるらしいんですわ。ほんで正月なのにわしときたら一滴も酒に預かれないときた。哀れじゃろう」
「いかにも哀れで気の毒です」
「そうじゃろうそうじゃろう。だもんだから、ちぃと酒を分けてもらえねぇかと思ってな。恥を忍んで神さん自らこうして参った」
「ああ、それならいいのがありますよ。遠慮なく持ってってください」
 そういって私は手つかずの出羽桜と獺祭の一升瓶を台所から持ってきたのはいいが、小さい神さんにはとても持っていけそうにない。
「なに、使いをやりますから、玄関先に置いておいてつかぁさい。ほんと、かたじけない」
 神さんはそういって、ぺこりと頭を下げると、うなじからチャリンと古めかしい小判が一枚。

 翌朝玄関先から一升瓶はなくなっておりました。あれも狐にバカされたかとちょっと思わないでもありませんが、それからは夜毎の訪問も絶えてなくなった。こうして不思議な四晩が明けまして、茫としたまま残りの年始の休みも過ごされてしまったと。あるいはエキノコックスに脳やら肝臓やらを早速食われ始めているのかもわかりません。

 また変わり映えのしない日常が始まるかと思えば憂鬱この上ないですが、まぁ、生きていかねばなりません。生きているうちにはまた面白いこともありましょう。

 前置きが長くなりました。皆様におかれましては、変わりなくお元気にお過ごしでしょうか。万感の思いを込めまして、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

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