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光降る窓辺の子らよ

 食卓で本を読んでいた。
 真向かいの妻はスマホでメールのやり取り。食堂のテレビの音量は小さく絞ってあって、消せばいいものを、ついそのままにしてあった。下の娘が幼稚園から帰ってきて、おやつを食べながらテレビを観ていた。なにを観ているのか、気にも留めなかった。
「せんそうってなぁに」
 と出し抜けに聞いてくる。
 見れば、画面に瓦礫の山。埃まみれの子どもを抱いた同じく埃まみれのおとなが煙のなかから走り出す。子どもの四肢はだらりと垂れている。爆音と揺れがきて、再び画面は煙に包まれる。
「国と国が争うこと」
 妻が先に答えた。画面に見入って目を細めている。娘が応答しないので、ことばが難しかったと思い直したのだろう、
「国と国が喧嘩しているの」
 と言い換えると、
「あらそうんじゃなくて」
 と娘は聞き返す。

 昨日の夕方に下の娘を近所の公園に連れていった顛末を、今朝方妻から聞かされていた。娘は植え込みに土筆を見つけた。それで済むような子どもではない。天道虫だと言って摘み上げ、小さな手のひらにのせて潰してしまうこともままあった。むやみやたらと動植物に手をかけてはならないと、殊この娘には平生から言い聞かせてあるもので、しばらくは神妙に矯めつ眇めつしていたが、とうとう手が出た。土筆の頭をつんつんやった。すると、けむりがでた、と言って妻のほうへ飛んできた。ママもやってごらん、けむりがでるから、と娘は興奮して妻の手を引いた。
 その話を夕餉のさいに下の娘は上の二人に自慢したらしい。小学校中学年の長男は関心を示さない。低学年の長女は、妹の話を最後まで聞いて、
「ああ、それは胞子だ。キノコと同じだね」
 と言ったらしい。下の娘は読書家で、親の知らぬ間にどんどん知識を身につけていく。土筆はスギナの胞子茎で分類上はシダ植物、キノコは植物ではなく菌類であることは、後日確認しなくては、と親バカは思っている。

 つい先日が彼らの父親の誕生日だった。銘々が折り紙をこしらえて、帰宅の遅い父親が気がつくよう、食卓の父親の定位置に花咲くようにして盛った。折り紙を開くと、裏面にメッセージが書かれてあった。
「お仕事応援しています」
「いつも遊んでくれてありがとう」
「おくるまのうんてん、いつもがんばっててえらいね」
 三つ目の手紙は代筆だが、長男の字か長女の字か父親には見分けがつかない。休みの日には車を出して買い出しに行くくらいがせいぜいなので、下の娘は家族の運転手くらいに思っているのだろう。あるいはこれが子どもたちの総意なのかもしれない。

 いつか運転手は、君たちを連れて東京の夜景を見にいくことがあるだろうか。二十歳手前の、大人になりつつある君たちを連れていくのもいいが、いまの君たちをできれば連れていきたいものだ。
 靖国通りを都心から車で西進して、新宿界隈に差しかかるときの、あの眼前に控える光降る光景を見て、君たちはなんというだろう。おとなたちの欲望が無秩序に積み上がって成った、いかがわしくも美しい光の街。長男は横目でチラリと見たきり、無関心を装うのだろうか。長女なら、うわぁと歓声上げて、窓辺に取り付くだろう。窓ガラスに両の手のひらをつくかもしれない。その美しい顔に、赤や青や緑やの電飾の明かりが落ちる。君の脇のところに小さな丸い顔がのぞいている。妹の顔。上の子が歓声を上げれば、この子も真似て歓声を競う。車のなかは暗い。光の滲んだ色のほか、夜の闇をぬらりと映している。電飾の文字の一部が、逆さに読める。やがて君たちは気がつくだろう。降り注ぐ街の光に心奪われあたかも囚われ人のようにして車窓の外を焦がれる君たちを映画のように写して、上へ上へ、光のほうへ遠ざかる気配を、影を。それは、ほかならぬ、わたし。ありし日のわたしかもしれず、今あるわたしかもしれず、いつかあるわたしかもしれないが。

 光降る窓辺の子らよ。
 この花束を君たちへ。

 永遠に、幸あれ。


(了)

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