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立石 鳥房

 今年の八月末日をもって「鳥房」が閉店するという。私にとってそれは、旧友の訃報に触れるに等しかった。

「鳥房」のある東京は葛飾区立石の一帯が、近いうち再開発の「憂き目」に遭うとはとうから風の噂に聞いてはいた。おそらくXデーはオリンピック前夜だろうとも。当時同じ葛飾区の柴又に居を構えていた私は、江戸百景の一として広重により描かれた渋谷川が先のオリンピックを機に暗渠化した例と照らして、世をはかなまずにはいられなかった。それでなくてもお隣りの墨田区に東京スカイツリーが成ったさい、最寄りの業平橋駅が「とうきょうスカイツリー駅」と改称された傷心から十分には癒えない矢先だった。それでもオリンピック開催までまだ四、五年の猶予があった。

 今般の新型コロナの騒ぎでオリンピックがついに延期されるに及んで、再開発もまたしかりと、その頃には都下に移り住んでいた私は勝手に断じて、安心したものである。コロナ禍が公的に明けてまだ半年だった。よしんば再開発が着手されるにしても、「せんべろの聖地」の役者たる名店たち、たとえば「宇ち多゛」「栄寿司」「江戸っ子」「蘭州」そして「鳥房」等々は、しばしの休店ののちに移転先を与えられ、ふたたび開業するものと高を括っていた。あれらの店が存在しない立石など、もはや立石ではないとは、聖地巡礼叶った同志なら一致して思うところだろう。だから、「鳥房」があと数日で「暖簾を下ろす」とテレビがはっきりそういったとき、私は自身の見通しの甘さを改めて突きつけられる思いがしたし、私という人間自体が時流の澱みに嵌ってもはや抜け出せないのだというやるせなさに、人知れず喘ぐばかりだった。明朗清潔を旨とする、多色刷りの町の完成予想図を広げて悦に入る役人たちにとっては、「せんべろの聖地」など、汚名以外のなにものでもないのが透けて見えるようだった。



 立石を地図に見ると、東の中川と西の荒川がYの字に合流しようという、その狭隘地に位置する。立石のすぐ北にある青砥(青戸)と高砂を渡す地点で中川は分岐し、西進するのがそのまま中川なら、南進して東京湾に注ぐのが新中川。新中川にしろ荒川にしろ、その直線的な流路を見れば人工的に成った放水路であるのは明らかで、だから立石の南に接する中川が、その昔「九十九曲り」と呼ばれたにふさわしく、空腸のごとき蛇行の痕を留めるのがなんともうれしいのである。

 中川は、荒川放水路によっていわば殺された川といっていいかもしれない。というのも、荒川合流後の中川は、合流とはいい条、そのじつ、薄い堤に隔てられたまま荒川東岸を並走し、河口に至ってようやく両川とも水を交わらす。いっぽう、地図を注意深く見ると、中川が荒川に合流すると見える地点の対岸、すなわち西岸から少し離れたところに、地下から湧き出したように九十九曲りの細い流れが復活して、平井、亀戸水神、大島へと南進し、砂町で再び荒川に吸収されるからである。つまり、荒川放水路が中川をぶった斬っているのである。ちなみに荒川放水路の西岸にかろうじて痕を留めたこの線虫のごとき細き流れには、旧中川の名が与えられている。かくして中川は、中川、新中川、旧中川と、河口部に三つの異名を持つに至った。

 立石の北に青戸、東に奥戸と、これら地名にある「戸」の字は、戸は扉、すなわち水の出入り口を指すもので、江戸の戸も水戸の戸も、「と」と読めば由来は同じである。だから往時より水と縁の深い土地だったのであり、水と縁が深いということは、水難もさることながら、水運によって古くから開けた土地ともいい得るのだった。

 じっさい、立石の来歴は古墳時代まで遡る。「立石」というからには石にまつわるなにかがあるのだろうし、ご先祖様がさかんに石と触れ合ったのは平城の石組みの流行した戦国時代か、さもなくば古墳時代だろう。じじつ、立石周辺には古墳跡が二つ確認されており、その史跡に紛れて、「立石様」は祀られてあった。といってもそれを訪れる者は、児童公園の一角にある小さな祠を見つけて拍子抜けするだろうし、地面を矩形に切る石枠のなかを覗きこんで、なにもないじゃないかと失笑しようものなら、どこからか現れた逍遥老人に、「ほれ、そこ、島嶼のようにうっすら顔を出してる石があろうに。それが立石様じゃ、この罰当たりが」と叱られるのが関の山だろう。

 これは立石祠の横に葛飾区教育委員会が立てた由緒書からの引用。


《立石様は、『立石』地名の起こりともなった石です。岩質は、凝灰岩で表面に貝の生痕を残しているのが特徴です。この石は、房総半島の鋸山の海岸部に産出するもので、本来は古墳時代後期に古墳石室の石材として用いるために運び込まれたものと考えられます。その後、奈良時代以降に官道(古代東海道)の整備の際に転用されたものと推定されます。江戸時代には、『活蘇石』とか『根有り石』と呼ばれ、地下の状況がうかがいしれない大変に不思議な奇石として人々に崇められ、現在に至っています》


 古墳の石室用の巨石を運ぶのに、陸路は考えにくい。鋸山が南総であるのを考えれば、黒潮を避けながら房総半島を反時計回りに回って現在の東京湾に入り、そこから旧中川を遡行する海路を想定するのが道理だろう。古墳が先か海路が先かは争うまでもないはずで、立石という土地が古墳時代をさらに遡って交通の要衝であったとは想像に難くない。

 江戸名所図会には、「立石村五方山南蔵院といへる真言宗の寺境にあり。地上に顕れたる所わずかに一尺ばかりなり」とある。だから往時は三十センチほどお顔を出されていたわけだ。これを削って飲めば万病に効くとは、長らく土地の信仰だったとか。時代が下って日清日露戦争の出兵のさいには、これを削って懐中にすれば弾除けになるとされ、だいぶ破壊の憂き目にあったようである。かくして人世界の煩擾悩乱の慰みものとなるうち、幾星霜を経てああも地面スレスレにお成りなったかと思えば、かなしいやらおかしいやら、愛着もひとしおに湧こうというものである。そうとなれば、あの散歩の癇癪老人にしても、立石様の権化のようにも思われてくる。

 この土地への人口流入の画期は二つ。一つは関東大震災で、浅草界隈から焼け出された罹災者たちが東進の果てに行き着いた、いわば袋小路だっただろう。旧中川の、高砂から西へ蛇行しながら流路を変えるそのありようが、幾つもの袋状の土地を蛸壺のようにぶら提げるものと見えるのである。現在の地図を見れば、東へ逃れる人々の前にまず立ちはだかるのは荒川のはずだが、先にも述べたようにこれは人工の放水路で、完成が一九三〇年だから、震災当時の一九二三年に大川はまだなかった。

 かつての荒川下流部が、現在の隅田川である。明治四十三年の大雨で利根川水系の堤防が決壊、群馬県に甚大な被害をもたらし、氾濫水は埼玉を縦断して東京府に浸潤、文字通り関東平野一帯が水浸しとなった。東京府だけでじつに百五十万人が被災したとある。これを機に、翌年から着工されたのが、荒川放水路の建設だった。念のため荒川河川事務所発行の放水路変遷史を繙くと、震災当時の地図では建設途中の放水路の輪郭がすでに出来上がっていて、その周辺がほとんど白抜きなのは、一帯が工事のために買収されたのを示すものだろう。「大正十二年九月一日には、関東大震災を受け被災し、工事中の放水路でも、土手に亀裂が生じるなどの被害がありました」とある。続けて、「一方その広い河川敷は住民の避難場所となり、多くの人が荒川のおかげで命を救われたといいます」。

 二度目の人口流入の画期が東京大空襲。その頃には、立石といえば玩具工場、わけてもセルロイド製品を手がける工場の林立する地帯となっていて、勢い工場勤務者目当ての安い飲み食い処が駅前に集合したものとは推察される。ちなみにタカラ・トミーの本社の在所は、現在もここ立石である。

 荒川も中川も、空襲の折はその豊かな水によって、雨降る焼夷弾の猛威から東京府民を守ることとなる。枕頭に置いてある書の一で、荷風散人はこう書いている。


《(…)咽喉が渇いてたまらないのと、寒風に吹き曝される苦しさとに、佐藤は兎に角荷物を背負い直して、橋の渡り口まで行って見ると、海につづく荒川放水路のひろびろとした眺望が横たわっている。橋の下には焼けない釣舟が幾艘となく枯蘆の間に繋がれ、ゆるやかに流れる水を隔てて、向岸には茂った松の木や、こんもりした樹木の立っているのが言い知れず穏に見えた。橋の上にも、堤防の上にも、また水際の砂地にも、生命拾いをした人達がうろうろしている。》


 空襲を逃れた立石に、西は浅草方面から、あるいは南は亀戸方面から、往時の柴又帝釈天詣の往還を辿る形で大勢の避難者が押し寄せた。敗戦後、さっそく周辺に闇市が立ったというから、おそらくは「せんべろの聖地」の主役たる名店たちは、これを発祥とするものだろう。やがて北口には特飲街、いわゆる赤線地帯が設けられるに至る。



 京成線の踏切を渡って宇ち多゛や栄寿司のある側とは反対の駅北側をひとり散策していて、ひときわ賑わいを見せる店が目抜通りの一角にあったもので、私はおのずとなかを覗き込んでいた。賑わいとは、人の出入りの多さもさることながら、なかに吊るされたアセチレン灯の往来へ漏れる明るさであり、なかから立つ油の煮えたぎる音であり、あたり棚引く鶏の焼ける香ばしい匂いである。正面はいわゆる看板建築様式で、二階の高さを覆う垂直の壁に、味があるといえばその通りの手書きの「鳥房」の二文字が堂々と横書きされて、これまたなかなかに煩いのだった。
「ほう、焼き鳥屋か」
 そのまま素通りしかかって、店の奥で濛々と煙を上げる黒鉄の大釜に擂粉木かなにかを突っ込んでなかのものをかき混ぜかき混ぜしている親爺と目が合ったもので、これが店の女にすぐさま目配せして、「ああ、お客さん、並ぶのは、こっちね」と女は引き取って、店に向かって左手の路地へ回るよう、私を案内した。

 店の側面に磨硝子の引戸が二枚鎖されていて、ボロ切れのような暖簾が掛かっている。暖簾とは、汚れた破れたといって早々に替えるものではないのかもしれない。黒光りした二人がけの床几が二つ、引戸の前に横付けに並べられてある。私は案内されるままに床几の端に腰を下ろした。するとほとんど間髪入れず磨硝子がガラガラっと開いて、お笑いコントの雷様みたいな頭をしたオバさん、というか老女というべき見映えのご婦人がぬっと現れて、「あんたさ、ちょっと早すぎやしないかい。うちは四時からなんだよ」と悪態ついた。いきなりずいぶんなご挨拶じゃないかとは思うものの、たまの休日に立石をひとりぶらつく心というものは、際限なく広いのだった。いいの、いいの、待つからさ、と笑顔で答えて、私は懐から読みさしの文庫本を取り出して、膝に載せた。「ふん。四時といったら、四時なんだよ」と雷婦人はそう宣って、磨硝子をピシャリと閉ざした。

 四時までには小一時間あった。目抜通りに比して、路地にはとんと人が通らない。奥に見えるのは居酒屋やスナックの置き看板ばかり。物珍しげに周囲を見回してから、私は手元の本をぱらぱらと繰り出した。


《これは子供の時から覚え初めた奇癖である。何処ということなく、道を歩いて不図小流れに会えば、何のわけとも知らずその源委がたずねて見たくなるのだ。来年は七十だというのにこの癖はまだ消え去らず、事に会えば忽ち再発するらしい。雀百まで躍るとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである。》


 読み耽るうち、いつのまにか床几はすべて人で埋まり、三十分と経たぬうちには、路地の奥へさらに五、六人の列が出来ていた。おや、これも立石の名店、とここで心づいたのはいかにも迂闊のようだが、ちまちま調べて段取りし、計画通り事を遂行するのは、私の性分ではなかった。牛に引かれてなんとやら、小流れに会えば源委がたずねたくなるである。四時きっかりに引戸が開き、客を案内したのは先刻とは別のご婦人だった。

 店に入ってすぐ右手がカウンターで、つめつめに座れば五人はいける。左手の、路地沿いの壁際に二人がけの卓が四つ並んで、反対側は床が上げられて囲いもなにもない座敷になっている。私はカウンターの一番奥に案内された。カウンターうちの奥に控えるのが雷婦人で、どうやらこれがリーダーらしく、菓子の缶箱のようななかにぶちまけられた札や硬貨を数えては、腹側に回したウェストポーチに入れていき、しながら、ほか三人のご婦人を監督して、ぶっきらぼうにあれだこれだと指図する、ときに客の手前もはばからず叱りつける。叱りつけられるのは、きまって細身の眼鏡のご婦人で、歳は五十手前、なかでは一番若いよう。見習いだからか、萎縮するからか、はたまたその両方か、所作の逐一が心許なくて、ほかの二人が黙々と率先して動くからいいようなものの、佇まいがもう場違いさを曝け出している。カウンターの奥にある寸胴から突き出しのお菜をお玉で掬って小鉢に入れる仕事をあてがわれるも、これがまたうまくいかない。等量に掬うのが難しいらしく、やっぱ難しいな……と独りごちて当惑笑いを浮かべても、これを仲間は誰も引き取らない。ちょっとこの空気は嫌だなとはなったが、振り返れば狭い店内すでに満員で、入口の磨硝子越しに待ち客の屯するのが見えていた。ハズレ、というには早計である。

 壁にも手元にもお品書きがあるのは救われる。鳥わさ、鳥ぬた、ぽんずさし……とあって、ここは焼き鳥屋ではなく鶏料理屋だとようやく合点する。心躍る瞬間である。それにしても若鳥唐揚が「時価」となっているのは、穏やかじゃァない。とりあえず日本酒を冷やで注文。出す酒にこだわりはないようで、銘柄もなにも書かれてはいない。運ばれてきたのは、白鶴の徳利型の小瓶。突き出しは、油ぎった茶色の汁にまみれた屑肉が一盛り。この店らしく、いかにも無愛想な見た目。しかしこれを箸先に摘んで口に放って、ちょっと驚いた。刻んだ鶏皮を甘辛く煮たもので、とろみは甘露のごとく、生姜が強烈に効いている。一言、うまい。これだけ追加で注文できないものかと品書きを見ても、らしき表記はない。イチゲンが、出過ぎた真似はしないにかぎる。

 折から、テーブル席から「おばさん、注文いいっすか」と若い男が威勢よく声を上げた。手下の三人が困惑顔して雷婦人をうかがう。雷婦人は、あいかわらず指に唾して札を数えながら、顔も上げずに一言、「おばさんなんて、ここにはいないんだよ。礼儀をわきまえな」といってチラと手下のひとりを見たのは、相手にするなの合図だったろう。若い男はここで引き下がらず、「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」と剣のある声でいい返すも、もはやご婦人部隊はくるくる立ち働いて聞く耳持たない。するとまたどこからか、「姐さん、若鳥唐揚の大はあるのかい」と、これは年配者の声で、「あいにく、今日は小だよ。小は六百円」と部隊長は心得た間合いで澱みなく答えた。粋なことをするものだと、私なんかは感心することしきり。さてくだんの若者だが、仲間内でクスクス笑いながらも、「姐さん、〇〇お願いします」と丁寧に頼んで、ちょっと場は和んだものである。

 運ばれてきた鳥わさは、平皿ではなく深鉢に盛られ、古刹の参道なんぞに売っているたんきり飴みたいな白いころころしたのがいっぱいに入って、上に貝割れと千切り海苔がまぶしてある。そうして真中には、擦りおろした山葵の三角。一切れ摘むと、白いのは湯引きされた外側で、ぬらぬらした桃色をその白の被膜が取り囲んで、さながら宝石の原石かなにかのようである。ぽんずさし、こちらは平皿で、湯引きした刺しを今度は薄く切って二列に十枚だか十二枚だか並べ、上から細かく刻んだネギと輪切りの赤唐辛子とをふんだんにまぶして、仕上げにポン酢でびたびたに浸す。どれもこれも、酒が進む。このあと二軒目三軒目とまだ見ぬ店へ立ち寄るつもりでいながら、もう閉店までここにいてもいいような心地になっている。

 さても真打登場である。私の手前ばかりでなく、ほかの客の手前にも次から次へ、ご婦人部隊がせっせと丸皿を運ぶ。皿にははみ出さんばかりに素揚げにされた鶏の半身が載って、付け合わせに千切りキャベツが添えてある。方々からどよめきが起こる。こんなもの、頼んだっけかと不思議顔していると、古風な懐紙を手渡されて、「お兄さん、お一人でできますか」と訊いてくる。遅鈍な眼鏡婦人である。
「はァ。これはまた、なんですの」
「若鶏の唐揚です。もしや、注文されていない」
「いやいや、注文しました。これはすごい。こんなのは、初めてだ」
「初めてなら、お手伝いしましょう」
 そういって懐紙を引き取ると、唐揚げの半身を左手で押さえつけ、これを右手で一捻り、また一捻りとしながら、起用に食べやすい大きさに解体していく。
「この肋の骨は全部食べられますから、残さず召し上がってください。キャベツはくるんでお召し上がりください」
 最後にもみじの先を一捻りして、そっと皿の縁に置いた。解体し終わる頃には、肉汁を吸っていい塩梅でキャベツがしなっている。手習いのお手なみ、十分に鮮やかにして的確で、これなら及第点ではなかったか。私は鳥でも魚でも、骨から身を削ぐのにある種の快楽を感じるし、豚足なんか、綺麗に食べ尽くしたあとは、骨を皿に並べて骨格を再現するなんて芸当もやってみせるし、蟹だって綺麗に食べ切らないと気が済まない。だから若鶏の半身の解体を人にされるとは、この店で得られる最大級の楽しみを奪われたも同然なのだが、そうであればこそ、また来る口実になろうというものである。周囲もまた、手伝ったり、手伝われたり、自力で頑張ってみたりと、なかなか賑やかな一景とあいなった。

 立石で一番の気に入りの店はと問われれば、これはもう甲乙つけ難いのは承知で、鳥房、と私は答えるだろう。思えばそののち、妻はもちろん、旧来の友人でも、職場の仲間でも、喜ばせたいと思う相手は、この店には必ず連れてきた。ご婦人部隊の客あしらいには誰もが面食らうにしても(座敷に通されてもたついた連れが、こんなところに紐靴を履いてくる奴があるかと雷婦人に叱られたこともあった)、店を出る頃には皆心地よく酔って、言葉少なに満足げであった。いや、もう、そう信じたい。



 いよいよ立石の再開発が本格化する、それも駅の北側から、と知らされれば、取るものも取りあえず馳せ参ずるのが聖地巡礼者の嗜みというものである。八月某日、万難を廃して臨んだ平日の立石詣は、朝から雨だった。名残惜しさの長蛇の列は覚悟の上だったから、多少なりとも客足の鈍るのを思えば、この雨こそは天佑神助と心得る。昼過ぎに都下を発ち、上野まで出る。京成線の乗り場は地階で、日暮里から電車は地上に出て、町屋、千住大橋、堀切菖蒲園……と駅を数えるうち、窓外の景色は白く烟るようで、風は狂い、雨はいよいよ篠突いた。青砥まで出てから立石へ南下するとは、柴又在住の折にもそれは私にとって馴染みの行き方ではなかった。青砥駅にて、強風によるまさかの乗継車の遅延。立石まであと一駅というところで、一時間も足留めを食らう。もちろん、四時の開店時にはもう間に合わない。

 豪雨にもかかわらず、傘を窄める待ち客のしんがりは、例の路地の果てに消えて見えなかった。果たしてどれだけ待たされるものか、見当もつかない。なんにつけ、行列に加わるなんぞ柄でもなかったから、たちまち私は萎えかかった。恋のライバルの多いと知れば、かねてよりさっさと身を引く性分だった。人の見向きもしないものにあえて興趣をそそられるタチであり、人の熱狂からは絶えず一歩引いている。出直すなんて猶予はないから、義理は果たしたと諦めて、もう帰ろうかとしばらくぐずぐずしていると、どうしたものか、にわかに列が前へ前へとつんのめるようにして進み始めた。見れば、列の先頭からわらわらと人の抜けていく。落伍する誰彼の、すれ違いざま聞こえて来るのは、「刺しも、唐揚も、みんな終わったってよ」の捨て台詞。

 気がつけば、私は列のしんがりにして、さきがけだった。傘を雨滴の叩く音に耳を聾されて、周囲の気配をよくも感じ取れないが、町にひとり取り残されたような心細さがたちまち募って、ひょいと目抜通りを覗けば、踏切に向かって緩勾配になるらしく、くるぶしを濡らす深さまで浸水した水が、早瀬のように走っていた。電信柱を渡す電線が、風にひゅんひゅん鳴っている。人も車も姿は絶えて見えない。鳥房の正面から、なかのアセチレン灯の蜜柑色の明かりが漏れて、早瀬の面に映る感じは、京都は貴船で遊んだ折の川床料理をふと思い出させた。店のなかも一見してひと気はなく、奥の釜は相変わらず滾って濛々と煙を上げるようでも、監督する者が忽然として見当たらない。

 再び路地へ回って、磨硝子越しになかをうかがう。明かりはついている。雷婦人に叱られること覚悟で、暖簾を払い、思い切って引戸を開いた。開いた瞬間、なかから人いきれの、どどどう……と押し寄せて、こちらの顔を掠めて後方へ吸い出される塩梅だった。超満員の客、と思いきや、見ると誰もいない。誰もいないと思ったら、否、カウンターのすぐ手前に、客がひとり背を丸め、うっぷすようにして取りついている。タバコのヤニのせいか、黄身がかった白髪の逆巻いて、かなりの老人と見えた。

「あの、もう看板ですか」
 奥へ呼びかける。脇の老人はぴくりとも動かない。背中を凝視して、生きていることの形跡を探ろうとするうち、厨房に通ずる戸のない出入りから、ぬっと顔を覗かせる者があって、雷婦人ではなく、誰あろう眼鏡婦人その人。しかしこちらがぱっと顔を明るませたことなどまるで意に介さず、怪訝そうな顔のまま一言もなく、こちらの次のセリフを待つようなので、
「あの、もう、看板でしょうか」
 と繰り返す。
「お客さん、それよか、大丈夫なの」
「はァ」
 かつての小心そうな印象とは打って変わって、そのちゃきちゃきぶりに面食らう。
「電車、止まっちゃうよ。中川が溢れたらね、歩いて帰るどころじゃないんだから。警報、出てるの、知らないの」
「いや、知りません」
「どこから来たの」
「西からです。といっても、都下のほう」
「いよいよ帰れないじゃない」
「はァ」
「帰ったほうがいいって」
 しかしいま帰ったところで、電車は動いていないかも知れず、それならいつ帰ろうと同じだという計算が働いて、
「あの、もし店じまいがまだなら、ほんの少しだけ、飲ませてもらえませんか」
「ごめんね、刺しも唐揚げも、もう終わっちゃったんだよ」
「食べるものは、もうなにも」
「南蛮漬ならあるけれど」
「それを、ぜひ。あとはお酒を冷やでいただければ」
「もう、しまうところなんだよ」
「そこを、なんとか」
 するとカウンターの客がうっぷしたまま、
「いいじゃねェか、遠くから来たんだ、一杯くらい、飲ませておやりィよ」

 思いがけず助け舟を出されたもので、私は老人から止まり木一つ空けてカウンターに座りついた。
「あの、先ほどは、ありがとうございます」
 老人は答えない。やがて寝息が立ち始めた。枕にした腕の横に、白鶴の空の徳利が三本並んだ。

 しばらくして私の注文した酒と、例の鶏皮の突き出しと、砂肝の南蛮漬とが運ばれてきた。給仕は眼鏡婦人一人のようである。続けて眼鏡婦人は、皿を二枚、危なげもなく運んできて老人の横に置いた。ひとつはぽんずさし、ひとつは若鳥の唐揚だった。
「これで最後の最後だよ。ほら、起きなよ、しっかりしなって」
 カウンターを回って来ると、眼鏡婦人は老人の肩に手を添えて、揺り動かした。棘ある口調とは裏腹に、その手の慈悲深さは、ありありと見て取れた。
「ちょっと、起きなって。唐揚、冷めちゃうよ」
「いや……だめだ……これしきのことで……酔った……おれは……酔ったぞゥ……」
 いいながら、老人はゆらりと身を立て直すと、手伝おうとする眼鏡婦人を邪険に払って、覚束ない足取りで止まり木から降りた。
「ちょっと、どこへ行くのよ。おトイレ」
「帰る」
 そういって札を何枚かカウンターの上に投げると、磨硝子の引戸を開いた。
「この雨のなか、無茶だわよ」
 老人は答える代わりに掌を耳の横でひらひらさせて、外の傘置きから黒の蝙蝠を抜いてぱっと開いた。
「唐揚とぽんずさし、どうすんのよ」
「もう食えないや。よければ、そこのお若いのに、食ってもらってよ」
 そういって、老人は後ろ手にピシャリと戸を閉じた。

「お客さん、食べるかい。人が手をつけたものじゃないからさ」
 いいながら、眼鏡婦人は、腹に回したウェストポーチを開いて、老人がカウンターに投げ置いた札をなかへたくし入れる。
「もちろん、喜んで」
 しかしそれにしても粋な老人ですね。気を遣わせてしまって、ほんとうに、申し訳ない。そう胸のうちを問わず語りに吐露すると、
「なにをいまさら殊勝なことを。世話になるのは、今日に始まったことじゃァないだろ」
 そういって、眼鏡婦人はきょとんとしている。さて、なんのことやら、こちらこそ狐につままれたような風情でいると、頼まれもしないのに懐紙を手に取って、半身の唐揚を一捻り、また一捻りと丁寧に解体していきながら、
「誰かって、立石様じゃないか」
 と眼鏡婦人はいった。





半身の唐揚を一捻り、また一捻り…






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