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雪女

 一見すると獣道としか思われない藪に覆われた九十九折りの先に、幹の白く抜けた怖いような一本杉があって、その根方に何十年と放置された破れ屋がいつか修繕され、梅雨明けの声を聞くあたりから軒に赤提灯の灯るようになった。

 屋号も出てないような、そんなあやかしめいた店の暖簾をくぐる酔狂など村では誰も持ち合わせないが、山奥の飯場の季節労働者には村の出入りをはばかる輩もあることで、そんな連中は真っ暗な山道を懐中電灯で照らし照らしまでして通うらしかった。

 店は男がひとりで切り盛りするらしかった。自ら剃刀を当てるのらしい頭はほどなくして淡雪のような白に覆われ、顔の皺の刻まれようといい、首筋に浮いた脂肪腫といい、肩の落ち方、腰の折れ方のいずれを取っても初老といわれるのを免れないが、狭い厨房に立って熊のような体軀を持て余しながら黙々と肉に串刺す一連の所作を見るに及んで、これに逆らおうという気は誰しも失せた。

 男が仕入れをするところを見た者はいない。一本杉の裏手の土地が均されて、畑地になっているのを見た者ならある。オクラに苦瓜、茄子に生姜に玉蜀黍となんでも植わっていると。男は鉄砲は使わず、もっぱらトラバサミを用いるのだろう、肩に瓜坊や穴熊を担いで山道をいく男の姿を見た者がある。問題は酒だ。仕入れに山を降りないとなると、あらかじめ相応のストックを持ち込んだと考えるのが道理。しかし密造を疑う輩も少なくなかった。この土地の山の住人が、戦前まで密造酒で生計を立てた歴史のあってみれば、そうした想像も無理からぬことではあった。

 やがて一本杉の赤提灯も、得体の知れぬ店主も、そこを訪れる飯場の日陰者も、村の日常の風景と化した。

 夏はなにごともなく過ぎていった。


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 男は朝から畑の手入れに余念がなかった。あらゆる作物が秋口にかけての短期間に、指数関数的にその実を増やしていく。酢酸の希釈液を吹きつけつつ病葉と下葉とを摘み取る作業を進めるうち、男は誤って一株の胡瓜の本茎に鋏を入れてしまった。うらなりが五、六個と、雌花雄花が十以上、一瞬にして無駄になった。取り返しのつかないことをしてしまったというその一事に、男はたちまち暗澹となった。誤って切った株を支柱から取り除き、畝と畝のあいだに掘った溝に横たえる。手元の狂いは老いの兆しとまずは思うわけだが、俺は昔から慎重さに欠ける男だったと、積年のやるせなさにたちまち覆われるのでもある。しかし反省とは心の余裕あっての振り返りであり、男の、そう、ほかならぬその年齢において、そうした余裕とはもはや無縁だった。

 横たえられた株の黄色い花々に、小灰蝶が群がった。受粉してもそれはもう実を結ばない。いまだかつて男はこれほどまでに動揺したことはなかった。なんのことはない、男はそれをほかならぬ凶兆と見ていた。いや、なにごとも無心に処すれば間違うことはない、としかとおのれにいい聞かす。うち捨てられた株からうらなりを二、三摘んでから、そんな未練がましさがかえってアダとなりそうな気もして、男はもとの溝へ放った。

 それから何日と男は鬱々として過ごすことになる。十月に野分が過ぎてからは、朝晩冷え込んで、布団を引っ張り出さなくては立ちゆかなくなった。獲物を負って帰る道中、早くも颪(おろし)が吹き荒び、紫紺に染まった夕刻の空を無数の虫が埋め尽くして麓へ飛び去った。無数の虫と思われたそれらは、はたして虫でなく、男の差し伸べた手にひとひらが舞い降りて、触れるやたちまち溶けて水になり窪に冷たく溜まった。風花だった。山頂付近に積もった初雪が、颪に乗って麓へ舞いきたる。村の人間らにとって、それはあまりに早い冬のおとないの知らせだった。

 見上げた先に、一筋の煙が立った。男の家で、何者かが煮炊きをするしるし。男の顔がにわかに上気する。喜びに破顔しそうになりつつも、これまたやるせなさが追いかけて後ろ髪を引くような、人によっては泣き顔と見たかも知れない。


❄️


 村に初雪が降ってほどなくして、男の家に若い女がいるとの噂が立った。

 人口の六割が高齢者という村のこと。わけても若い女とくれば誰しも耳ざとくもなる。村の人間で女の姿をじっさいに目にした者はいない。村に一軒ある蕎麦屋に飲みに来ていた飯場の常連の男が、あすこの厨房に息を呑むようなきれいな女が立つようになったと自慢したのがそもそもの噂の出どころ。

《あまりに歳が離れてるんで、みんな最初は親子なんじゃねぇかって話でよ。ところが所作なんか見てると、ありゃメオトじゃねぇかって。とりわけ女のほうがよ、濡れて爛れたような目をして男を始終追いやがる》

 そして霜月は十五夜の、雪化粧をほどこされた山全体が月明かりを映してかわたれどきと見紛うほどに明るい晩に、それこそ明け方近くまで酔漢らの怒号に混じって若やいだ嬌声の立つのを、麓の家々は切れぎれに聞いたのである。


 れいの蕎麦屋で、れいの飯場の常連客が不吉なことをいった。

《近いうち、ありゃ押し込みに遭うね》
—あんたも酔いにまかせて滅多なこというもんじゃないよ
《なにが滅多のことか。あんな匂い立つような美人をひけらかされて、蛸壺の腐れちんぽがおとなしく黙って引っ込んでるわきゃあるめぇっての。おまんこしてぇおまんこしてぇって夜毎うるさくてこちとらかなわんのよ》

 押し込みがあるとすれば次の朔の夜だろうと村の連中は噂を継いだ。教えてやろうよと誰かがいった。こちらから進んで巻き込まれるには及ぶまいと誰かがいう。飯場の輩に目をつけられたんじゃ、いずれ命はあるまいて。朝ぼらけに炎と煙が山から上がって、女の夢も、男の夢も、なにもかも灰塵に帰する。類焼に備えるのこそ、賢い振る舞いというもの。

 さもなくば、一巻の終わり。


❄️


 朔の当日は、暮れどきから風が走って、みるみる山は雲に呑まれ、一帯は吹雪に見舞われた。店に客のあるはずもなく、男は早々に提灯の火を吹き消して暖簾を引っ込めた。八時前には家の灯はすべて落ちたはずである。

 飯場の消灯のすぐあとで吹雪く山を降りてくるわけだから六、七人の屈強の黒い影が男の店のぐるりを囲ったのは零時もだいぶ過ぎてから。突風に煽られ錠が外れたと思わせて黒影らは表玄関より雪崩れ込み、男の寝間を襲い、女の寝間を探る。女を見つけるや、一人が馬乗りになって首を絞め、口を塞ぎ、一人がはだけた裾から下着をずり下ろし、一人が嫌がる脚を広げてM字に押さえつけ、一人が熱く聳り立つものをして無理矢理に押し入る。裂けて血が迸る。女の絶叫に男らは勝鬨を上げる。陵辱の一陣からあぶれた者らは男をなぶることで無聊を慰める。二人がかりで胸と膝とを押さえつけ、もう一人が十徳ナイフで耳を削ぎかかる。鼻を削ぎかかる。片目を突き刺す。戦利品として男の頭の皮を剥ぐのだと誰かがいい出し、額に刃先を立てるも血と脂に滑って捗らない。男がもがく。老いの翳りは見えても、熊のような大男、馬乗りが跳ね飛ばされて、床に転げたその刹那に踵を振り下ろされて顎を砕かれる。いま一人は十徳を奪われて刃先を口のなかへ突き立てられる。おのれの血液で溺れかかる。かわるがわる気をなかへ吐かれる女の肩はすでに両方ともが脱臼している。糸の切れた操り人形のようになったのを裏に返し、また表に返し、また裏に返しては肛姦を繰り返し、乳房を鷲掴みにしておそらくは厨房の俎板に放置された料理用の鋏を押し当てて奇声を上げる。男は三人目の始末に手こずっていた。その間に、女の寝間では枕元のテーブルランプの傘が外され、電球が外されて、スイッチを入れたままの支柱の先端をば突き入れられようとしている。ぎゃっと人の声とは思えぬ音が短く立って、男のいる場所からも青い火花の散るのが見えた。

 吹雪は激しさの募るいっぽうで、村の、ことに男らはまんじりともしなかった。誰彼がぬくとい床に丸まりながら山の上の惨劇を予感し、幻視し、戦慄した。やがて誰かの予言通り、山に一筋の煙が上がって吹雪とともに螺旋を描いた。

—あの黒さはなぁ

年寄りが訳知り顔でのたまう。

—ヒトの焼ける煙の黒さだで


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 男の家は全焼全壊した。傍の一本杉に火は燃え移り、これまたまったき炭柱と成り果てた。村からは青いほむらが吹雪に巻かれて凍りつき、巨大なつるぎとなって天をふたつに裂くかに見えたと証言する者らが複数あった。青い炎の剣とは吹雪の夜になんともできすぎているし、そもそもあの恐ろしの夜に寝床を這い出して家のうちからででも山を仰ぎ見る剛毅の者が村にいるとは思われない。家の焼け跡からは七体の遺体が出たといわれるが、いずれもすっかり炭化して、男女の区別もつかず、身元の特定のしようもなかった。

 季節労働者が混じるのだろうとあたりをつけたもので、日の高くなり次第、村の警察と消防団とが山奥を訪ねたところが、一同腰を抜かさんばかりに吃驚することになる。

 飯場とその周辺はすっかり凍りついていた。物・人のことごとくが氷の被膜に鎖されてあった。周辺どころか、山頂を越え、山の反対側の谷筋の、集水域全体をおびやかして、ついには隣村にまで被害は及んだ。

 それはたまさか露出した死の王国そのものだった。プレハブの蛸部屋に押し込められた季節労働者らにしろ、ぬくとい家うちにいて惰眠を貪っていた隣村の民らにしろ、安らかな寝顔のまま掛け布団を引き被って凍りついていた。便所に腰を下ろしたまま凍りつく姿態もあった。彼らはみな死んだことの覚えすらあるまい。氷の彫像と化したそれらに指先ひとつ触れようものなら、物であろうと人であろうと、触れたそこから蜘蛛の巣の網目のような細かな罅割れが全体へ生じ、崩れたかと思うと金銀の砂子のごとく雲散霧消した。局所的に極寒になることは気象的にあり得ないことではないと一応の説明はつけられたものの、その後の数日で飯場のあたりから隣村に至るまで、凍りついた一帯が焼き払われたように不毛の露土へと帰したについては、誰も説明を求めないし、説明しようともしなかった。人智を超えたなにかの逆鱗に触れたことだけはたしかだった。れいの男と女の行方について、生き残った者らが口にするようになるのも、年を跨いでからいましばらく、山から引いた用水の水の量がようよう増えはじめる時節を待ってからである。





 またどこぞの遠い遠い山の破れ屋が雪解けの時節を待って人知れず改修され、小屋の裏手の土地が均されて、季節の野菜のさまざまな種が撒かれようとしている。家を庇護するのはこの度は巨大な楠。黙々と鋤を振るうのは熊のように図体の大きな老爺で、片足を引きずって難儀そうに歩く。片耳と鼻とが削がれてなく、右の目は潰れていた。誰もがそれらを刃傷沙汰の痕と疑わず、その壮絶さを思って口を噤んだ。煮炊きのしるしに家から白い煙がひと筋に昇るようになり、やがて屋号もないまま赤提灯ばかりが宵に灯るようになった。

 ひやかしのつもりで暖簾をくぐった者らは、料理と酒の旨さにまずは舌を巻くことになる。男は男で、その風貌からはおよそ似合わぬ人好きのする性質で、客を気持ちよく乗せて詮ない話でも真顔で聞いてけして口を挟まず、客が話の継ぎ穂を失えば、さりげなく珍味の鉢物を傍に添えてやり、話柄をそちらへ向ける。店はたちまち評判になり、ことに月の明るい晩は、大いに繁盛した。裏庭では胡瓜が茄子がオクラが玉蜀黍がたわわに実って、夏の盛りを声ひとつ立てるでもなく謳歌する。

 山の夏は短く、野分がひとつでもくれば秋はたちまち吹き払われて、冬の気配にあたりは満ち満ちる。虫の声ひとつ聞かれなくなる。やがて颪が吹いて、山の頂をうっすら覆う積雪を掻っ攫い、男の手のひらの窪を風花のひとひらが溶けて濡らせば、誰もいるはずのない家から、煮炊きのしるしが上がるようになる。

 男の老いは年追うごとにいやまさり、女はいよよ若やぎ、華やぐ。孫娘が手伝いに来たのだと、村の連中は無邪気に信じて疑わない。見る人が見れば、女の男を追う目の濡れて爛れた気配をあやしんだだろう。村の誰かは、そのうちにこの女を横恋慕していい寄るかもしれない。しかしそれはまた、別の悲劇。

 男も女も名乗らなかった。男は当初からアニさんと呼ばれ、女のほうは、その透き通るような肌とから、いつからか、おゆきさん、と呼ばれるようになった。



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