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河童

 河太郎くんがあやしいと太一も思うのです。でも彼が犯人だとは申せません。仕返しが怖いというより、先生たちの反応が怖かった。

 プール開き初日、さっそく溺れた子どもがあったのでした。クロールの猛特訓のあとで、子どもたちはご褒美に十分間の自由時間を与えられる。プールサイドに歓声が上がり、方々で高々と水飛沫が立って、先生たちの呼笛は鳴り止まない。十分なんてあっという間で、終了を告げる笛の音が入道雲を切り裂くように虚空に響いて、我先にと子どもたちが水から這い上がると、ゆらめききらめく水面の真中に、ひとり男児がうつ伏せに沈みつつあった。

 次の水泳の授業でも、そのまた次の授業でも、太一のクラスにだけ溺れる子どもが出るのでした。クラス担任は監督責任を問われ、緊急保護者会の場で糾弾されて以来欠勤となり、いつかの朝学活の時間に校長先生が教室に来られて、プールでのイタズラは厳禁であること、今回の事故についてなにか見たり聞いたりした生徒は内々に知らせること等々の訓戒をあらためて述べられた。でも大人たちのすること一切合切が茶番なのです。それをわからない子どもなどひとりもおりませんでした。

 太一にいわせれば、河太郎くんはまぎれもない河童ということになるのでした。だから水難事故の犯人が誰かなど、問うまでもなかった。太一にかぎらず、クラスメイトの残らずが、河太郎くんの仕業と信じて疑わなかった。なんだかんだ理由をつけて水泳の時間は見学者になる河太郎くんが、自由時間になるほんの少し前から姿をくらますのを、何人かに勘づかれていた。そしてこれはクラスの男子全員の証言となるが、授業を終えて更衣室に入ると、なぜか全身びしょ濡れの河太郎くんが先にいて、何食わぬ顔してみんなといそいそと着替えをする。
 けれど河太郎くんを告発する者などひとりもおりません。状況証拠でしかないから、という以上に、「河太郎くんが……」と口にしようものなら、その先をいわすまいとする凄まじいオーラを、先生の誰彼から感じ取るのがオチだったからです。

 人権教育のモデル校に指定されている太一の学校にあっては、皮膚が緑色であることも、鼻から口にかけてカモノハシのように平たいことも、そして頭頂部のハゲを日に何度か霧吹きで湿らすことも、まったく問題にならないのでした。
 外観は措くとしても、誰彼かまわず相撲を仕掛けては相手を派手にぶん投げて病院送りにする彼の悪癖についてさえ、学校側は不問に付そうというのでした。太一にはこれが不思議でしょうがなかった。

 それで太一は、本人に面と向かって疑問を糺すと決めたのです。その日の下校時、いつものように家の方向が同じ河太郎くんと肩をならべて帰宅する途上、太一はこう切り出したのでした。
「君がやったんだろ」
「何を」
「ミツルくんたちが溺れたの、君のせいなんだろ」
「それは、僕が河童だからかい」
「君は河童なの」
「ちがうけど」
 そういって河太郎くんは寂しげに笑うのでした。
「君もさ、皮膚の色がほんのちょっとふつうとちがうとか、マズルの形態がほかと少し変わってるとか、背中にしょってるものがみんなとほんのわずかに異なるとか、そんな些細な理由で人を偏見の目で見る口だったのかい」
「だって君、あきらかに河童だろ?」
「ちがうってば」
「だってさ、頭の皿が乾くと気を失うし、胡瓜しか食べないし、どう考えても河童だろ?」
「ちがうって。ぜんぶ個性さ。多様性の時代だろ」
「そうであったとしても、……河童だろ?」
「君、しつこいなっ!」
 そうこうするうち、螢川にかかる河童橋まで来ているのでした。螢川は幅一間ほどの小さな用水路で、これより先、橋を渡ることは地元の子らは大人たちからきつく戒められていた。橋を渡った先は人家もまばらな田園地帯で、青い稲穂が風になびき、点在する大小のため池の水面にさざなみが走って光を散らし、水難にまつわる怪談話に昔から事欠かない土地なのでした。地元の子どもらにとって、橋を渡ることは、だから冥界へ渡るのと同義だったのです。橋につづく未舗装路をまっすぐ辿ると黒々とした鎮守の森の小山に行き着くのですが、葉叢に見え隠れする鳥居の緋色を遠くに望むだけで、子どもらの背筋に冷たいものが走るのでした。
 いつもなら河童橋のところでお別れしてくるり背を向ける太一も、今日はちがいます。橋の袂に立って、いつまでも河太郎くんのうしろ姿を見送る決心でした。背後に視線を感じたものでしょう、くすぐったそうに振り返るなり、
「君、いつまでも見送るなんて、人が悪いや。今日の君は、なんだかとっても変だぜ!」
「変なものか。君こそ、どうしてそっち側へ平気で行けるのさ」
「こっちに家があるからに決まってるだろう」
「河太郎くんの家を見てみたい」
「君、それ、本気でいってるの」
「僕はいつだって本気さ!」
 初夏の日もはや暮れて、鎮守の森の背後に滲む残光は、血の染み出すように赤いのでした。聞いたこともないような鳥のけたたましく鳴く音を森のほうから数度耳にして、あれ、何か来る、と見るうち、その黒い影はみるみる大きくなって、すれ違いざまに太一の肩をむんずとつかむと高らかに舞い上がり、それから先、家にたどり着くまでの記憶がない。

 溺れた子どもたちはいずれも元気に復帰しておりましたが、事故の前後の彼らの性質の変化を、クラスメイトたちは皆気がついておりました。なんというか、三人とも落ち着いた雰囲気を醸すようになって、言動もどことなく大人びるようになった。一番の変化はほかならぬ勉強面で、大して賢くなかったはずの子どもたちが、授業ではよく発言するようになって、カラーテストも軒並み満点を取るようになったのです。三人の誰かを目の前にすると、ちょっと気後れするくらいなもので、だんだん子どもたちは彼らと距離を置くようになったのでもある。

 その日の下校途中、周囲の目を憚りながら河太郎くんが見せてくれたのは、胡桃よりひとまわり小さい白い玉なのでした。パッと開いた手のひらの中央に三つの玉が寄り合って、光の加減で油膜のような輝きを帯びるあたり、まだ見ぬ真珠を太一は思うわけでしたが、それより何より目についたのは、そこだけ色素の抜けた大きな手のひらと指の股にある水掻きにほかなりませんでした。
「その水掻きは、もういいのがれできないね」
 太一がしんみりいいますと、
「いや、これだって個性だよ」
 そういって、なんとも得意げな河太郎くんなのでした。
「それにしても、そのきれいな白い玉は何なんだい」
「これかい。尻子玉さ」
 河太郎くんはこともなげにいうのでしたが、太一が「ああ、あれね」と得心するはずもなく、
「君、尻子玉って、河童が子どものケツの穴から盗み取るやつかい」
 手のひらの上のひとつをつまみ上げると、ポンと口のなかに放りこんで、ゆっくりしゃぶりながら河太郎くんは次第に陶然としていくようでした。
「これ、じつにうまいんだ。ほのかに甘いんだ。天にも昇る心地なんだ。やめられなくなるんだ」
 いいながら、手のひらを胸もとへ差し出して、君もやれよと顎で勧めてくる。
 少年の悲しいサガで、臆病者と思われたくない太一は、なに、こんなもの、とひとつをつまみ上げると、躊躇なく口のなかへ放った。するとどうでしょう、アタマのなかでなにかがパチパチパチッ……と火花を上げて弾け飛ぶ感触があって、たちまち視界を光が埋め尽くすのでした。
「う、うまい!」
 太一は思わずそう叫んでいました。
「たしかにこれは、やめられなくなる!」
「君ならわかってくれると思ったさ。心ゆくまで味わうがいいよ」
 感激のあまりその場で立ったまま大小便を漏らす太一でした。この先も、ふいにひと波ふた波と来て、そのたびに太一は絶頂しては失禁を繰り返すのでしたが、もとよりそんなことには当人気がつかない。
 気を失いかけながらもなんとか歩を進めたもので、ようやくそこは螢川の河童橋なのでした。太一は河太郎くんに手を引かれて河童橋を渡った。渡り終えたそこは、空気の質から密度からなにもかもがちがっていて、太一は百パーセントの恍惚のうちに一パーセントの息苦しさのまぎれるのを看過し得なかった。
「君、とうとう僕を連れていく気だね」
「お望み通りにね」
 青田の海が眼前に広がり、バケモノと見分けのつかなくなった年寄り連中の暮らすいかめしい入母屋造りが遠目に二、三見えるばかりで、あとは鏡のような水面の夏空を映し取る、大小のため池の点在する土地。子どもらの霊が炎天下を走り回っている。どこをどう歩いたものか、鎮守の森を正面に据え、ため池のひとつの汀に立つ太一であった。

 いざなわれるまま、片足を水のなかへ投ずる太一。取り返しのつかないところまで来てしまったと激しく後悔するいっぽうで、緑色の肌の二人目の転校生として学校に再登場する自分を思い描くことは、必ずしも不愉快なことではないと太一は思うのでした。
「ケツの穴はしっかり締めておかなくっちゃな。尻子玉を取られちゃかなわないから!」
 心に固く誓うのと時を同じくして、鎮守の森のほうから聞いたこともない鳥の鳴き声が夏の午後の物憂いしじまをつんざいて、それから先、水位の上がるたびに、太一は生まれてから今日までに積み上げたあらゆる思い出をひとつ、またひとつと最古のものから不可逆的に失っていく。

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