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『珈琲時光』という、無為自然

久しぶりに、DVDで『珈琲時光』を観た。
もう、ずいぶん前の映画になってしまったんだな~と、公開年(2004)を見て、ちょっと驚く。

一人で映画館へ行くことは、あまりないが、
これは何となく独りきりで観に行った。小さな映画館だった。

実は、この映画で初めて、一青 窈という人を知った。
彼女も今や40代後半のようだけれど、その当時は20代だった。歌手だということも、この映画で初めて知った。

演じているというより、素のままで主人公をやっている。そんな背景に溶け込むようなナチュラルさと瑞々しさが、とても印象的だった。

さて、映画。
小さな事件どころか、ほとんど何も起こらないまま、フィルムは回り続ける。本当は起こっているのかもしれないけれど、特段、回収される気配もなく。車窓に流れる景色をぼんやりと眺めているような、穏やかな時間が流れてゆく。

途中で、退屈して寝てしまう……と評する人もいるかもしれない。すこぶる冗長だと。
「コーヒーを味わうようなひととき」をテーマに作られたというこの映画は、そのつもりで観たとしても、好き嫌いがハッキリしそうだ。

私としては、いつのまにか肩の力が抜け、観終わった後は本来の自分にちょっと立ち返ったような気がした。
日常のしがらみから離れ、つかの間、お気に入りの喫茶店で一杯の珈琲をゆっくり味わった時のような、静かな平安がひたひた心身に沁みわたっていった。



神保町の古書店街、お茶ノ水の高架、路面電車……
東京に詳しいわけではないけれど、舞台となった大都会の街並みは、どこかノスタルジックで、自然光に美しく映えていた。

一青 窈の扮する主人公は、そんな都会の片隅で、繰り返す毎日を生きている。
刺激の多い外側に目を向けて、キョトキョトしたりはしない。
足るを知るというか、自分の持つものに満足しているよう。
それは、突然の夏の夕立などの、些細な出来事や体験も含めて。家族や数少ない友達、仕事、お腹に宿る小さい命……など、自分に運ばれてくる、あらゆるものを無心で受容しているかのように見える。

内側に充足があるから、余計なこともしない。
仰々しく表現したり、奇をてらったりなんてのも皆無。
心のまま自然に生きて、ここを味わい、今という時間の中に在る。

そんな力みのなさや、彼女を取り巻く人たちのぼやぼやとした温かさ、映画全体に流れる空気感は、無為自然、老荘思想に通じるものがあるような気がした。

慌ただしい世界で生き急いでいたり、背中に重い荷物が乗っかっているように感じているなら、この映画はおすすめ。
上手くいけば、心がリセットされ、本来の自分らしさが取り戻せるかもしれない。場合によっては、途中で寝落ちしてしまう可能性もあるけれど……笑。


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