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夏の町内会薬撒き事情【オンガク猫団コラムvol.35】

東京暮らしを始めて30年近く、23区内でヒグラシの鳴き声を聞いたことがなかった。3.11のあった2011年の夏、オイラは諸事情で引っ越すことになり、あちこちを物色していたのだ。吉祥寺あたりで手頃な賃貸のアパートを探していて、目ぼしそうな3つの物件を内見し、不動産屋の営業用軽ワゴン車で井の頭公園の脇を通った。その時、東京暮らしで初めてヒグラシの鳴き声を聞く。懐かしい、と 思わず快哉を叫びたくなった。都内といえども緑したたる深山なカントリーもあるので、多摩の方まで行けばヒグラシは夏になるとけたたましく鳴いていたのかも知れないが。ひょっとしたら、オイラが知らなかっただけで、明治神宮あたりでも毎夏には普通に鳴いていたのかもしれないな。

子供の頃、オイラは千葉の田舎の方で暮らしていた。ヒリヒリと刺すような真っ青な空と、送電線と竹やぶと雑木林や田畑ばかりの長閑な光景で、チャリで未舗装の道路を駆け抜けると、ショウリョウバッタとアブラゼミの鳴き声がして、思い出したように自衛隊機が上空を一直線に飛んでいく。時折顔をしかめるほどの肥やしの匂いが襲ってくると、チャリはMAXでターボ化したものだ。

当時は夕方になるとコウモリが狂ったように何羽も飛び交い、ベニスズメという大きくて不気味な蛾の群れが外灯におびき寄せられてはバサバサと旋回し、そのおぞましさにオイラは戦慄していた。蚊柱はそこらじゅうにあり、BGMはカエルとヒグラシの鳴き声による、無慈悲でデモーニッシュで禍々しい輪唱だ。特にヒグラシの鳴き声は「あの世の旋律」であって、扁桃体をダイレクトに刺激する魔のサイレンに他ならなかった。座布団を防空頭巾のようにして両耳を塞ぎ、蹲り、恐怖にうち震えていた事を鮮明に覚えている。そんなトラウマの記憶があるせいか、ヒグラシはずっとオイラの中で忌避の対象でしかなかった。

齢を重ねるに従って、そんなド田舎だった土地も宅地造成化が進んで分譲地化が顕著になる。随分後で分かったことだけど、かの田中角栄があれらの広大な土地を買ったのだそうだ。唸るほど資金があった証左だね。そのようにして田舎らしさが年々失われていくと、目に見えて虫や鳥が減っていった。夏になるとあれだけ喧しいほど鳴いていたヒグラシも、いつの間にかこつ然と姿を消してしまった。そうなると不思議と愛おしくなる。

ヒグラシはどこか安住の地を求めて流離ったのか、それとも絶対数が減ってしまったのかは分からない。いずれにせよ、ヒグラシの鳴かない夏は、ヒグラシが鳴いていた夏よりもどこか物悲しいものがあった。お囃子の音を頼りに神社に着くと、お祭りはたった今終わったばかりで、櫓を解体して提灯を片付けているような気分に近い。雪駄を履いたテキ屋の強面のおっちゃんが、くわえタバコで言う。『お兄ちゃん、お祭りはもうお仕舞だよ。さ、おかえり』

オイラの子供の頃の夏の風物詩といえば、薬剤散布がある。いわゆる町内会の薬撒き。めっちゃ臭いけど、どこか癖になる薬品の匂いだった気がする。地区ごとに日程が決まっていて、防虫用の白濁した乳剤の農薬を噴霧機械でもって、庭や生け垣にこれでもかと散布する。掃除機の化け物みたいな、物凄いコンプレッサーの「ウー」という爆音が辺りに鳴り響く。散布の日は洗濯物は一切干せず、庭に犬小屋がある家は犬も一時退避。健康への悪影響が懸念されるとかで、最近は殆どみかけなくなったね。

さて、ここ数年、都内の意外な場所で希少な生き物が見つかるというニュースの記事を目にすることが多くなった気がする。オイラは今年、新宿区某所で、ギンヤンマを見かけたし、板橋区某所では、オニヤンマを見かけた。ヒグラシが都内に帰ってきたのは、ひょっとしたら農薬散布を廃止するエリアが拡散したことと関係があるのかも知れない。そういえば、ちょっと前に下記のような記事をwebのニュースで読んだ。
『チェルノブイリの原発事故から30年近くが過ぎ、ウクライナのある立ち入り禁止区域内では、熊、大山猫、狼、馬、鹿、などの野生動物が多く生息しているらしい。 ただ放射線の影響で、子孫の数は少なく、寿命は短いらしい…』

6月下旬のある日の早朝、拙宅の近所でウグイスの鳴き声を聞いた。この近辺は、春先に少し鳴いて、後はぱったり鳴き声を聞かないので思わぬアンコールが嬉しかった。同時期の夕方、自宅でPCを操作していたら、階下のどこかの部屋で「ピピピピ」という小さいアラーム音が聞こえてきた。この時間帯にアラームが鳴るなんて、夜勤? なんて思っているとふいに音が鳴り止む。しばらくしてまた「ピピピピ」。いや、階下ではなくてドアの向こう側から聞こえてくる。耳をじっくり澄ますと、ヒグラシの鳴き声だった。梅雨明けはまだ少し先だろうけど、もうすぐギンギンギラギラの夏なんですね。

オンガク猫団(挿絵:髙田 ナッツ)

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