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デザイナーの社会人遍歴 【最終話】 プロダクトデザイナー 下積み時代編 ~後編~

其の① 若干二十歳の俺 VS ブラック印刷会社編

其の② 古着屋で働きたいよ!編。~序章~

其の③ シルバーアクセ屋で販売経験をGETせよ 編。

其の④ 遂に古着屋で働くよ! ~前編~

其の⑤ ~遂に古着屋で働くよ! ~急遽中編~

其の⑥ ~遂に古着屋で働くよ! ~後編~

其の⑦ 26歳人生の分岐点に立つ。編

其の⑧ プロダクトデザイナー下積み時代編 ~前編~
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帽子と鞄のメーカーにてデザイナーとして働きだし、なんとかデザインの道に戻る事ができ、1年も経った所で中心デザイナーとして経験を積む27歳の俺。

ここから厳しい状況に少しずつ追い込まれて行く事になる。



オンラインショップを立ち上げ直売を開始

それまで卸しのみだったのだが、うまく行きだすと欲が出るのが経営者というものなのだろう。自社オンラインショップを立ち上げ直販を開始する事に。 メインの営業マンの検品出荷スタッフとしてアルバイトしていた、30代中盤の女性と20代中盤の女性がオンラインショップの担当に抜擢。2人で色々と考えて頑張っていた。自分もグラフィックデザインもやっている身として、商品ページの画像作りなど、できるだけアドバイスしながら教えたりしていた。

この自社オンラインショップのメイン商材としてやると決まったのが【マザーズバッグ】。赤ちゃんを育てる時に役立つ機能性バッグだ。最近ニュースになっていたが、イギリス投資会社に買収されたCath Kidston/キャスキッドソン 。ここがマザーズバッグとして有名だった。しかし販売価格は1万~2万程度。

引用元 人形のこどもや本店
https://item.rakuten.co.jp/jukei-n/5055913945622/


自分も経験したが、子供が生まれるとアレもいる。コレもいる。アレも買わないと。とにかくお金が飛んでいく。マザーズバッグは諦めて持っている普通のバッグで、この時期を切り抜けた方も多いんじゃないかと思う。

ここに目を付けた。当時 1万~2万が相場のマザーズバッグを、中国自社工場で作ってメーカー直売にすれば、5,000円程度で提供する事ができると。

そして企画デザインしたマザーズバッグがこれだ。


最初は、キャスキッドソンを模倣して、薄いコットン生地に透明のPVCコーティング(ポリ塩化ビニールコーティング)を施した生地でトートバッグを作った。

これが早い段階で売れだした。この流れに乗り、同型で花柄など様々な柄の新作をガンガン出していった。毎日数十件は発送にするくらいのスマッシュヒット商品になった。

これを機にマザーズバッグ専門店に変更して、新作をどんどん出していった。




有名ブランドのOEMを手掛ける

バッグを立ち上げた最初の頃に、BE〇MS人気が凄かった時代を体験している世代ばかりだったので、会話の中で「BE〇MS とかできたらいいよね~  まぁ無理か!笑」とか言っていたのだが、そのBE〇MSの案件が回ってきた。もちろんデザイナーさんも抱えているし、自分たちで作る事ができる企業様だが、アウトレット店舗用商材として、どう頑張ってもコストが合わないという事で自分たちの所に話が回ってきたのだ。

おいおい、本当に来たよ.…とびっくりしたが嬉しかった。

BE〇MSデザイナーさんから、バッグの仕様書が送られてくる。そのイメージにあったできるだけ近い生地を選定して、生地確認でOKが出るとサンプル製作を行う。この最初のバッグOEMを成功させる事ができて、じゃんじゃんBE〇MS OEM案件が来るようになった。中でもナイロンの迷彩の色味がサンプルと違う!というクレームはよく覚えている。中国の生地はロットが違えば、同じ色を生地指定しても色味が全然異なるなんていうのは当たり前レベルだ。この時もサンプルで作った時の生地ロットと量産品の生地ロットが異なり、色味が大きくぶれていた。この時は、サンプルとほぼ同等の色味になる様に、生地から作らせて再量産した。

更にはW〇GO 経由で話が回ってきた、若槻 〇夏さんが当時手掛けていたレディースブランドの帽子やバッグのOEM。これに関しては社長が何としても成功させたいと、中国や韓国に飛びまくっていた。自分もガンガン来る仕様書を元にサンプルを作りまくった。がしかし、何度も何度も何度も何度も何度も何度も、修正再サンプルの繰り返しで注文に繋がらない。初めて注文に繋がったのが、ニューエラ風のキャップ。製品クオリティ面で問題が起きない様に、コストは高くなるが韓国で量産した。しかし、キャップ前面部が完全に90度になっていないと、全返品をくらった。

ここで、この案件から手を引いた。


結局1円の売りも立たず、この案件はトータルで大損こいたのは言うまでもない。

しかし、有名メーカーなどのデザイナーさんが作る仕様書や物を作り上げていく中でのやりとりは、かなり勉強になった。 小さい会社ながら、俺は同じレベルでやれているという自信にも繋がった。


この頃には、新たな商材としてネックウォーマーも始めた。

まだ髪が長かった俺は、ネックウォーマーを外す時に髪がグシャグシャになるの最悪やなと思い、ボタン式を作ったのが結構ヒットした。近年は、ボタンタイプのネックウォーマーを見る様になったが、当時は本当に無かったので、俺グッジョブなのである。





検品・修理地獄

中国での物づくり。なんで...…という事が当たり前の様に多発する。帽子はもちろん、新規で始めたバッグも軌道に乗り、元々検品スタッフだった人たちもオンラインショップ担当になったので、検品が追い付かない。中国から荷物が届くと、1回で200~300パッキンくらいの量が届き、5人程度の人数で荷下ろしを行い、受注分はその日の内に検品して出荷まで行う。夏なんかは、40度くらいはあるだろう倉庫の中で1日作業。入荷量が多すぎると外で作業していた。マジで死ぬレベルのキツさだった。

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引用元  運ちゃん。ネット
https://unchan.net/logisticscolumn/1506/


あと問題があった。例えば1000個のOEM/ODMオーダーがあったとすると、1000個ジャストしか作らせてくらなかった。10%、いや5%でも余分に作らせてくれればかなりリスクが減るのに。結局、不良までいかないが修復が必要な物は自分たちで修理するという、いや…ダメやろ.…みたいな事をしないといけなかった。結局ケチって損をしている事に、最後まで気付いてくれなかった。

万単位でオーダーを貰った、メッシュキャップ・ニットキャップ。どちらも商品に不具合があり、数万個をすべて修理作業するという地獄も味わった。毎日 社長以外の全員で、朝から深夜4時頃まで検品・修理して、3時間程度家で寝て、また翌朝から深夜4時まで検品・修理。これを3週間とか。 (※社長は21時くらいになると、じゃあね~と毎日帰っていた)出荷期日の朝。その朝8時になんとかすべてが終わり、荷物をトラックに積んで終わった時の事を鮮明に覚えている。結局この会社に勤めた4年で、10回くらいは完全徹夜をやったんじゃないだろうか。

メーカーとしてどんどん大きくなってるのに、人員を補充しないという社長の判断は大きく間違っていたと思う。最後の1年なんか、全スタッフが検品と修理がメインの仕事になってしまって、営業も商品デザインもままならない状況だった。そのまま行くとどうなるかなんて目に見えていた。




会社が沈没
2009年 中国・九州北部豪雨

ある日の勤務中。18時を回っていたくらいの時間だった記憶。坂を下った一番下に、事務所と倉庫を構えていたのだが、「今日は良く降りますね~」なんて呑気な事を言っていただろう。

外出していた社長から電話があった。

社長「ちょっと!雨がやばい!外に出てみて!!!」

俺「え??? あ、はい..…」


扉を開けると、もうすぐそこまで雨水が来ていて、今にも社内に雨水が入ってきそうな状態。急いでオフィスに戻り皆に「雨水が浸水しそう!!!!!!!!!!!!!」と伝えて、皆で入り口まで行く。誰かが「やばい!パソコン!!!!」と叫んで皆で急いで事務所に戻り、床置きしていたパソコンをデスクの上にすべて乗せる。

そして、入り口に戻ると、もう浸水が始まっていた。しかも数日前に商品が入荷したばかりで倉庫はパンパン。なんとか商品の入った段ボールを逃がそうとするも、逃がすスペースが無い。そこからはあっという間に、体感では、ほんの数十秒で一気にくるぶしの上らへんまで浸水した。その辺で、ずぶ濡れの社長が社内に入ってくる。社内と倉庫などを確認するも、もうどうしようも無い状態。


社長「もういい!逃げよう!!!」


全員で表から出ようとするも、もう浸水した雨水が膝下くらいまで来ていて、扉が開かなかった。社長が入ってきた時点で、扉を開けっ放しにしておかないといけなかった。事務所の裏手の窓から外に脱出して、そこから更に低くなる裏道に社長が飛び込む。もうそこの水は腰上あたりまで来ていた。ひとりひとり飛び込む。デザイナー兼パタンナーの女性が「私…無理です...…!」と震えていたが、「このままここに居たら死にますよ!(大声)」と言って無理やりダイブさせた。最後に自分が飛びこみ水を掻き分けて全員で進む。

少し大きな道まで出て、坂の上に進むと水はくるぶし辺りまでになり、帰宅方向が同じ人同士で分かれて歩く。途中、お婆さんを助けて一緒に坂を歩いて下ってくる女性が。


女性「この先どうなってますか?」

俺「この先はダメです!一番深い所は腰まで来ます!」

女性「ありがとうございます!」

俺「気を付けてください!」


なんとか生きて家に帰る事ができた。

今となっては、18年連れ添っている愛車の1990年式 ランドクルーザー70は置き去りにして。最後に確認した時は、タイヤの半分くらいまで雨水に浸かっていた。なんとか、なんとか助かってくれ.…ランクルちゃん…と祈った。(他スタッフの軽自動車は完全に浸水して廃車になってしまったが、ランクルは車高が高いので助かった)

今も連れ添っている愛車
1990年式 ランドクルーザー70 ZX


翌日、会社に行くとそこは地獄絵図。もう事務所も倉庫もぐちゃぐちゃ。そこから1ヶ月~2ヶ月は、社内を元に戻す為のごみ捨て・掃除をひたすらやった。

保険もおりて、商品やパソコンなどの備品代はなんとかなったようだ。しかし、ストールなどは捨てずに洗濯して商品に戻すと社長命令。古着好きな俺からすると、一度水を通った生地かどうかなんてすぐ分かるし、それはもう新品とは呼べない。それ以前に泥水に浸かったものを、人様に売ろうというその腐った根性に怒りが湧いた。

これがこの会社を見限った最大の出来事だったと思う。




怪しいセミナーに嵌まる社長

ある日、経営者向けセミナーに誘われたから行ってみる。との事。 その翌日は、凄かった!アレが~コレが~とすっかり取り込まれていた。なんかめっちゃ分厚いファイルやなんやかんや買わされていた。それから3ヶ月くらいは真面目に毎週行っていたのだが、明らかに飽きて行きたくなくなった様な感じになっていた。そこから、経営者向けセミナーの人間が会社まで来て、毎週セミナーをやってくれるという超メンドクサイ話になった。社長とメインの営業マン、そしてメインのデザイナーの俺が抜擢される。

毎週水曜日、出社時刻の2時間前に出社して2時間みっちり胡散臭い話を延々聞かされたり、やらされたり。 このしょーもないもんが1年近く続いた。自分としては何も中身が無いセミナーだなと思っていた。そして最後のセミナーの日に、メインの営業マンと自分が別々に一人ずつ部屋に呼ばれた。

実は、かなり早い段階で「はいはい。これ俺ら2人を契約させる為に、わざわざ毎週来てんだな」というのはバレバレだったので、はい来ましたって感じだ。

いくらだったかな?確か1年で80万くらいだったと思う。お得意の逃げ道の無いような話の仕方で、ここで「やる」を選ばない人間は、ここから伸びて行こうとしていない人間だ。みたいな話を延々とされる。

セミナーおじさん「では、やりましょうね!!!」

俺「いや結構です。お金ないんで(真顔)」

セミナーおじさん「そのお金をもっと稼ぐ為にやるんですよ!!! じゃあここにサインをしましょうね!!!」

俺「いや結構です。お金ないんで(真顔)」

セミナーおじさん「だから!これをdぼshどうぇvへdvkd!!!」

俺「いや結構です。お金ないんで(キレ顔)」


最後の説明とこの押し問答は2時間程続いた。それまでのセミナーでは何かとつけては俺に対して「〇〇さんは本当に才能がある!」とか言ってたくせに、こうなるとクソみたいな態度を取られた。自分のデスクに戻ったら、社長に「契約した?」と聞かれて「するわけないじゃないですか」と言うと、「よく逃げられたね…」と言われた。酷ぇ社長だ…

もう一人の営業マンは

契 約 さ せ ら れ て い た

きっちり断った俺の話を聞いて、社長に「これ経費でお願いしますよ…」と分厚いファイルを持ってお願いしていた。




社内恋愛をかます

シルバーアクセ屋時代も古着屋時代も、自分に気を持ってくれてそうな女性はいた。しかし、同じ職場で恋愛なんてしたらメンドクサイ事しかないと思っていて、絶対に社内恋愛はしないと思ってここまで来た。

会社の忘年会。検品スタッフからオンラインショップ担当になった、20代中盤の女性と凄く話が盛り上がった。基本仕事の話しかしないくらいの仲だったが、自分が抱いていたその女性のイメージとまったく違った。 2件目に行ったスナックでは、酔ったその娘が自分に身を任せてきてドキドキしたもんだ。

その日から急激に意識する様になった。そこからその娘がひとりで検品作業とかしてるチャンスがあったら、フラ~っと行って話をした。そして定期的に二人で呑みに行く中になり、勢いで告白をかます俺。惚れてしまったもんはしょうがない。←

しかし..…

フラれた。

その娘も絶対に社内恋愛はしない派だったようで。

そこからは仕事に支障は出したくなかったし、相手に気を使わせたくなかったので、何も無かったように普通に接した。すると今度はその娘から、呑みに誘われるようになる。

「押してダメなら引いて見ろ」理論を無意識でやっていたようだ。

間もなく付き合いだした。もちろん、会社の人間には内緒で。





中国出張話 第2弾。 性の街  東莞

社内恋愛を始めてすぐに中国出張があった。中国出張の中日くらいに、社長と沈さんがなにやらずっとニヤニヤしていた。夕方くらいに東莞という街についた。駅を出ると正規のタクシーではない、流れのタクシードライバー20人くらいに囲まれて揉みくちゃにされる。

ナニコレ、俺達芸能人??ってぐらいの勢い。

その中に、以前アテンドしてくれた兄ちゃんがいたようで、その人の車になんとか乗り込む。

引用元 Expedia
https://www.expedia.co.jp/Dongguan-Hotels-Yihao-International-Hotel-Dongguan.h30348617.Hotel-Information


こんな感じの超豪華ホテルを数件まわった。しかしこれから何が始まるかは教えてくれない。

そしてひとつの超豪華ホテルに入る。

そこには、200人くらいの中国人女性が2列になり円状に並んでいて、その間を3人で歩く。ナニコレ.…??????  頭の中は?だらけ。すると社長に「ひとり選んで!」と言われた。 周りの客はアジア系や白人の小太りおじさんだらけ。その時自分は27歳くらいで、若い客は珍しかったのだろう。女性陣に囲まれて引っ張りまくられ俺の取り合いに(笑)

まさにこんな感じで、200人程度いた。
引用元  日刊サイゾー
https://www.cyzo.com/2016/02/post_26461_entry.html


その中の一番力が強かった女性に、強引に連れていかれた。

そしてキャバクラの様な状態になるも、中国語が全然分からないのでクソつまらない。そこから追加料金を支払って、その女性と隣接したホテルに行くというシステムらしいが、俺は断った。← ここ大事 ← ここ大事  ← ここ大事

ただでさえ中国出張で疲れてるのに、言葉も通じない中国人と朝まで一緒なんて絶対イヤダ!!!  ゆっくり寝かせてくれ!(彼女もいるし!← ここ大事)

後で知ったのだが、性の街/性都 東莞と呼ばれていて、街全体が風俗街という物凄いエリアだった。ここにいる女性達は田舎の貧しい家庭で育ち、家族を養う為に出稼ぎしている人がほとんどらしい。まともな教育も受ける事が出来ていない為、簡単な英単語さえも通じない人ばかりだった。(こっちの発音が悪すぎるという説もアリ)2019年 現時点では最後の中国出張の時に、取引先の社長に会いに東莞に行き、1泊したがもうその時はもう普通の街になっていた。

中国政府が介入して、普通の街に戻したとの事。しかし宿泊するホテルは超豪華で、その時の名残は残っていた。




VS 嫌がらせをしてくる営業マン

この時、社内恋愛をしていた彼女は、もともとメインの営業マンの下で業務していた娘。この営業マンのお気に入りの子だったのだ。付き合いだして数ヶ月頃、この営業マンが勘付いてきた。「付き合ってんの?」と聞かれたが「いや、付き合ってないっすよ~」と返していた。

次第に俺に対して嫌な絡み方をしてくるようになった。終いには「あの娘とオレ、ヤッた事あるからw」みたいな事まで言うようになりだし、危うく殺めてしまう所だった。(冗談ですよ)

しかしこの件で、彼女との喧嘩も増える。電話での喧嘩で泣き出して、次の日仕事なのに、朝方4時に会いに行ったりもした。

更なる追撃で、デザイナー兼パタンナーの年上女性に告白されるなど、自分の社内恋愛のせいで、会社内は泥沼化へ..…

自分のせいだと思っていたので、この嫌がらせに1年近くは耐えたんじゃないかな。この時期は本当に精神的にきつかった。毎日が本当に辛かった。我慢強い方だが、この頃にはもう限界突破。反撃を開始。

イラつく事を言われたらもちろん、業務内容ですら話かけてこようもんなら「話かけんな ゴミが。」などど常に言い返している内に、まったく話かけてこなくなった。




29歳後半 ステップアップ転職に動き出す

と言ってももうグチャグチャ状態になってしまっていた。まったく話しかけてこなくなった嫌がらせ営業マンも独立する為に辞めるかもという話を聞いた。ある日、久しぶりに話しかけてきた。


嫌がらせ営業マン「同じ帽子と鞄のメーカーとして独立する。」

俺「へぇ」

嫌がらせ営業マン「デザイナーとして一緒にやって欲しい。月に30万は絶対に出すから。」

いざ独立に向けて色々考えて行く中で、結局デザイナーがいないと大した物が作れないという考えになったのだろう。既に、関係は完全に壊れていたので、この話をするのにもそれなりの覚悟があったとは思う。

俺「はぁ? 話しかけんな、ゴミが。」と一蹴して終わった。




とにかくいち早く脱出するのが先決だと、彼女と一緒に会社を退職した。ちょうどここでキャリアアップの転職をしようと、最初から思っていた29歳後半になっていたというのもあった。

この会社は、社会保険はもちろん雇用保険すら払ってくれない会社だったが、職安に行ってすべての事情を話した。


職安の方「会社に遡ってすべて支払ってもらえば、失業保険を受け取れますよ。この話は我々スタッフが直接行って話をします。」

俺「 よ ろ し く お 願 い し ま す 」

それから職安の方が幾度も会社に訪問するも「あんな奴ぁぁ 力仕事でもなんでもやらせたらいいだろぁぁあっ  絶対に払わんおhふぉうぇfhkjdk!!!!」と毎回発狂していたらしいが、最終的にすべて支払わせて、人生で初めて失業保険を受け取った。

最後に残ったデザイナー兼パタンナーの女性から聞いたが、この会社は自分と彼女が退職した後、結局全員に辞められて、最終的に、専業主婦だった奥さんと2人で細々とオンラインショップをやっていたそうだ。これもこの3年後にはオンラインショップも無くなっていた。

ここの転職は人生にとってかなり重要ポイントだったので、勢いだけの職探しではダメだと思っていたので、失業保険を頂けたのは凄く助かった。

一緒に辞めた彼女は、夜バイトしていた焼き鳥屋を続けていた。会社を辞めて3ヶ月くらいだろうか。プロダクトデザイナー系の求人は少ないので、なかなかこれだという求人に出会わない。焦りと苛立ち。次第に彼女との距離ができていった。

毎日、電話していたのにまったく連絡を取らない日々が1ヶ月以上続き、自分ももう彼女に会いたくないという気持ちになってしまい、別れを告げた。




社会人遍歴 ~最後に~

彼女と別れてほんの数日後。プロダクトデザイナーの求人に出会いました。結果として、その会社に30歳で入社して、40歳になった今現在も勤務しています。


入社して2つ目に企画デザインした商品が、それまでに無いヒット商品になり、1年半で商品開発課の課長に昇進。その2年後には部長に昇進しました。スピード出世っていうやつですね(笑)

その数年後には、社長の反対を押し切り、3年半かけて開発した樹脂製品が発売当初にリコール騒ぎになったけど何とか改善して、今現在ヨーロッパを中心に世界中に爆発的に売れたりと、しっかり結果を出してこれました。

30歳から今までの、この辺の話も書きたいところですが、色々と裏話を書いてしまって迷惑をかけたらいけないので、一旦ここで「私の社会人遍歴」を終わりにします。


20代 何者かになろうと必死にもがいて、凄く遠回りしてしまいました。しかし無駄な事はひとつも無かったと今では思えます。デザインとは関係ないですが、販売を経験して、売る・数字を追い求めるという経験は良かったです。プロダクトデザインはもちろん、グラフィックデザインもすべてはお金を生み出す為の仕事。デスクの上でしかやってきていないデザイナーには出来ない活躍が30代で出来たと、心からそう思います。


今年 40歳になり、自分の社会人としての歩みを振り返ろうと書きだしました。思っていたより長くなりましたが、20代の記憶がしっかりある内に、文章に起こすことが出来て本当に良かった。あと細かい記憶が色々蘇って、「懐かしいな~」とか「思い出してイライラしてきたぜ…」等、書いていて本当に楽しかったです。

そして、まだまだデザイナーとして上を目指したいと思っています。なぜか? それは10代で見た事がある様々な占いに【向いてる職業 芸術系】あと【大器晩成】とことごとく書かれていたからです。そろそろ大器が晩成してくる頃じゃないかと(笑)

現役を引退する社会人として最後の日にでも、この自身の社会人遍歴を読み返したいなと思います。


今 「お前は何者か」 と問われれば
「デザイナーです」とはっきり言う事ができる。


全9話と長々書いてきましたが、至らぬ文章を読んでいただいた皆様、ありがとうございました!(すべてを読んでくれた方へのプレゼントはありません)



次回

デザイナーの社会人遍歴 ~番外編~
俺、歌手になる??


に続く!

( い や 続 く ん か い )






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