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初受注の感動を超える受注は、もう現れないかもしれない

みなさんは営業は好きですか。

わたしは大好きです。

営業経験がある人は初受注を覚えていますか。

わたしははっきりと覚えています。

初受注の眩しさ

2009年4月1日に社会人になって、住宅部門に営業として配属されました。勤務地は神奈川県の横浜市。1ヶ月間の基礎的な研修を終えて、5月2日に不動産会社への飛び込みキャンペーンがスタートしました。ちょうど10年前です。

新規のクライアントに、SUUMOという不動産メディアへ10件の物件を掲載いただく営業でした。物件を掲載いただき、そこからメディアを通して、カスタマーを不動産会社に送客する「新規パック」という商品でした。

目標は、6月30日までに10社のクライアントを獲得すること。負けず嫌いのわたしは燃えていました。

担当の路線は横浜線と小田急線。九州出身で、そこまで路線の違いは知りませんでしたが、どうやら小田急線が大きいらしい、ということは知っていました。中でも大きい駅は町田*。不動産会社も多く、大きな会社が多そうなので慣れるまでは取っておこう、という戦略でした。

はじめに営業をスタートしたのは隣駅の相模大野。当時はスマートフォンもなく、紙を印刷して、不動産会社の場所を手書きでプロットしていました。

ドキドキしながら、「こんにちは!」と飛び込んで、営業をスタートしました。そもそもいきなり入って、メディアの物件枠を買いませんか?といって、受注できるのか懐疑的だったのを覚えています。もちろん門前払いが多いのですが、意外に話を聞いてもらえるな、という印象でした。

初日は、38社周りました。自分の写真を貼り付けた自己紹介シートを作成して、とにかく接点を作れば、連絡をもらえるかもしれない、という淡い期待をもって、足が棒になるまで訪問をし続けました。

5月3日、営業2日目。事件は起きました。訪問する上で、気をつけなければならないことは、その会社が既存クライアントなのか、新規クライアントなのか、事前に確認すること。庶務の方に、訪問するクライアントを調べていただいて、大丈夫なところに訪問する、という流れだったのですが、そのときは既存クライアントの名前はおおよそ覚えていたし、何より急いでいたので大丈夫だろう、と確認を怠りました。

運の悪いことに、既存クライアントに飛び込んでしまいました。すると、どうなったか。

「うちは御社と取引ありますよ。そんなことも知らないんですか?新人ですか?御社の管理体制はどうなってるんですか?」

と、すぐに先輩に連絡がいき、オフィスに強制送還になりました。処分は1日外出禁止。5月4日からゴールディンウィークに入るので、6月末まで時間はありません。焦りは頂点に達していました。仕方なく、ぐっと堪えて、休み明けの営業訪問先をマップにプロットする作業に没頭しました。

GW明けの5月8日。営業を再スタートしました。今度は相模大野の隣駅、小田急相模原。ついにそのときはやってきました。

S社に飛び込みました。出てこられたのは、ケミストリーの堂珍に似ているイケメンのI社長でした。物腰柔らかく「お座りください」と言われ、一生懸命営業しました。

そして、ひと呼吸おいて、

I社長:「いいよ、やるよ

といって下さりました。頭が、がーんと響きました。「まじか、やってくれるのか!これが受注か!」と頭のなかは興奮しっぱなしでした。申込書は手元にもっていたので、すぐお渡ししました。

I社長:「何をかけばいいの?印鑑はここ?」
わたし:「ええっと、ここに書いてください」

初めてのことなので、要領を得ません。記載いただく部分をそのあと何に使うのかも知りません。とにかくハンコさえもらえばなんとかなる、という気持ちだったのを覚えています。

I社長:「お客さんたくさん送ってね。よろしく!」

と爽やかな笑顔で、激励して下さいました。すぐにマネジャー、上司、そして、夜には親にも電話しました。初任給は4月にもらっていましたが、社会人になって初めて自分でお金を稼いだ実感を得られて、真の意味で社会人になった気がしたのです。

その会社から出て嬉しくて、次の不動産会社まで走っていって、また飛び込みました。そこから営業が大好きになっていきました。

6月に入って無事に10社受注。最終的には11社で目標達成しました。

それから部署も変わり、受注額は、数千万、数億円ということもありました。ただ不思議と細かい部分は覚えていません。一生に一度の初受注は本当に眩しくて、今も光り輝いています。

異動するまでの2年間、ずっとその会社は担当させていただきました。最後の挨拶で、I社長に菓子折りをお持ちしたときに、

わたし「あのとき新人だったんです。どうして発注いただけたんですか?」

と聞きました。

I社長「なんか一生懸命だったから」

と、いってくれました。今でも忘れない営業というか仕事とはどう生まれるのか、初心に戻していただける言葉です。

海外での初受注

それから6年後、東南アジアのフィリピンにいました。教育部門にいて、ネットを使ったプロダクトを展開していました。プロジェクトマネジャーとして、プロダクト開発から採用まで幅広く行っていましたが、ふたたび営業をする機会がやってきました。

フィリピンは人口が1億人いますが、クレジットカード保有率は人口の2%、銀行口座を持っている人は人口の27%しかいません。オンラインで優秀な教師の授業が安価に受けられる、というサービスでしたが、オンライン課金ができないので、ビジネスが成り立ちません。

なので、BtoCでなく、BtoBという法人をターゲットにする戦略になりました。私立学校にネットで優秀な先生の動画をみてもらい、補講の一環で学校に導入してもらう、という絵を描きました。

それまで英語を使ってきていません。赴任して半年、なんとか伝えたいことは伝えられる、半分以上、聞き取れる、というレベルだったと思います。JPというメンバーとふたりで、一生懸命プロダクトの説明をしていました。

営業を開始して、2週間くらいだったと思います。マニラから近いパサイというエリアの私立学校でした。

受注が決まったときは「海外でも売れた!英語で売れた!」というシンプルに嬉しい気持ちでした。帰りのタクシーで上司のNさんに電話したのを覚えています。海外での初受注は、社会人になって最初の受注を思い出させてくれました。

いまふたたび

いちばん最初の初受注から、ちょうど10年。いま日本酒の会社を起業しています。海外に打って出ていくために、日本を武器にしなければいけない、という気持ちから創業しました。理由はこちら

まずは国内の生産基盤を整えないといけない、と半年間、酒蔵に入ってお酒を4月まで作り続けていました。そして卸売免許が下りて、いまふたたび営業の機会が訪れました。

こちらがプロダクトです。https://hinemos.tokyo

人生初受注は、飛び込み営業でしたが、やはりリクルートという名前にアドバンテージがあったと思います。海外の受注では、営業を開始する前、Quipperという教育のプロダクトは無料でしたが、既に100万人使っているという実績がありました。

IT業界から日本酒の業界に入り、半年間、酒蔵でお酒をつくってきても、飲食業界の知識や経験はありません。慣れ親しんでいる営業でも不安がありました。

2019年5月8日。初受注の2009年5月8日からジャスト10年。吉祥寺の未来酒店さまから、ご発注をいただきました。あのときよりもっとひどくて、申込書や納品書に必要な項目も分からないので、店長のSさんに全てお聞きして、つくっていきました。

ゼロから異業種で起業して、名もなくてもお買い上げいただける、この喜びは筆舌に尽くし難いものがあります。

ただ、あのときと違うのは、いまは経営者であり、営業のみではありません。原価やキャッシュフロー、そのあとの配送スケジュール、梱包(ピッキング)の時間、在庫、まで念頭に起いて、コミュニケーションをしています。あのときから少しだけ成長できているかもしれません。

初受注の感動は超えることはできるのだろうか

海外での受注。そして、起業してゼロからの受注。どれも眩く、光輝いています。それでも、一生に一度の社会人になっての初受注の眩しさには、また別な気持ちがあります。

次は、自らつくったものを、海外へ営業しにいってきます。来月は上海へ、その次はベトナムへ。あのときのI社長からいわれた「いいよ、やるよ」といわれたときの、胸の高鳴りを超える受注はくるのかでしょうか。

今から楽しみです。

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※町田は東京ですが、担当範囲は神奈川に分類されていました。





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酒井優太 / HINEMOS

ライスワインという日本酒のベンチャーを経営しています。「HINEMOS」という日本酒ブランドを展開しています。https://hinemos.tokyo ツイッターは、@Yuta_Fukanoki

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